894.急を知らせる
青年がさっさと後部座席に乗ったので、クフシーンカは新聞屋の手を借りて助手席に乗り込んだ。
「二人とも、荷物のフリで聞いてくれ。ネミュス解放軍が動く」
扉を閉めた途端、青年が押し殺した声で呪医とソルニャークに告げた。
エンジンが始動し、ワゴンが急発進する。
「今日か明日にでも、自治区への進攻を開始するって星の標リストヴァー支部長情報」
「区長か」
ソルニャーク隊長が座席の下で身を伏せたまま問う。
「そう。畑のあちこちを自動小銃で武装した少人数のグループが巡回してた」
「星の標は戦う気なのだな」
新聞屋のワゴンが、薄く曇ってきた畑の間を駆け抜け、検問所を素通りする。
団地地区の残りを案内するどころではなく、聖光新聞の専売所で停まった。
「ちょっと、女房と店のモンに荷造りと避難の呼掛けをさせるんで、ちょっとだけ、ちょっとだけ待って下さい!」
新聞屋が自宅兼店舗に駆け込み、呪医とソルニャークが身を起こした。
「お婆ちゃん、ちょっと呪医と話したいから、席外してくれる?」
「えぇ、どうぞ。この近くに弟の支持者が大勢住んでるから、避難の呼掛けを手伝ってもらえるように頼んで来るわ」
クフシーンカは車を降りたその足で、同じブロックの菓子屋へ向かった。
小麦価格の高騰で品揃えは減ったが、まだ商売は続けている。ドライフルーツやコーンスターチで作った菓子が並ぶショーケースの奥で、菓子屋の妻が一人で店番していた。
客の姿はなく、クフシーンカに気付いて瞳を輝かせる。
「いらっしゃいませ」
「ごめんなさいね。今日はお買物じゃなくて、よくないお知らせなのよ」
「よくないお知らせ、ですか?」
菓子屋の妻が顔を曇らせる。
「ついさっき、区長さんに教えていただいたのだけれど、ネミュス解放軍が、今日か明日にでも、攻めて来るそうよ」
「えぇッ?」
「落ち着いて聞いてちょうだい。自力で歩ける人はクブルム街道へ、無理な人は教会へ逃げるようにって、お店や役所、近所のみんなに避難の呼掛けを手伝ってもらえないか、知らせて欲しいの」
「えっえぇ、それはもう……あッ! 新聞屋さんは?」
「新聞屋さんも一緒に聞いてきたの。じゃ、お願いね」
「わ、わかりました。……あなたー! 大変よーッ!」
菓子屋の妻がカウンターの奥へ引っ込み、金切声で急を知らせる。
店を出ると丁度、新聞屋も出てきたところだった。クフシーンカは、歳のせいで思うように動かなくなった膝をなるべく急かして、助手席に乗り込んだ。
撮影係の青年は、どうやら呪医にタブレット端末の使い方を教えているらしい。
「呪医、クブルム街道で電波入るとこまで行ったら、忘れずに、この送信ボタンって言うのを押してくれよな」
「わかりました。送信ボタンですね」
「取敢えず、お菓子屋さんの奥さんに避難の呼掛けを頼んでおいたわ」
「了解。じゃ、教会へ行きます。ちょっと飛ばすんで、気ィ付けて下さいよ」
クフシーンカがシートベルトを締めるより先にワゴンが走りだした。
「ちょっとその前に、小中学校へ行ってもらえないかしら? 校長先生にお伝えして、子供たちの避難をどうするか、考えてもらわなければ」
「了解。難しい判断になるでしょうからね」
新聞屋が東地区へ車を飛ばす。坂を駆け下り、低地の真新しいアスファルトを滑るように走る。
小学校も中学校も、あの冬の大火で全焼し、つい最近、鉄筋コンクリート造の立派な校舎が再建されたばかりだ。頑丈さを考えれば、プレハブの仮設住宅や木造モルタルのアパートよりもずっといいが、多くの人が避難すれば、却って標的にされる惧れがある。
保護者が我が子を連れて帰りたがるかもしれない。
大火で身寄りをなくした子を誰が責任を持って守るのか。
クフシーンカたちは、大火の罹災者支援事業で生活再建に注力した。
昨年秋頃には、きな臭い噂を耳にしていながら、避難の件を各方面で詰め切れなかったことが悔やまれてならない。
……そもそも、こう言うのは区長や教育委員会が……いえ、今更ね。
クフシーンカはこれからどう動けば、より多くの命を守れるか、長く生きて知識と経験を積み重ねた頭をフル回転させた。
自力で山道を歩けない者を教会に集めたところで、守れるだろうか。
湖の女神を信奉するネミュス解放軍が、真っ先に攻撃するのは、キルクルス教の教会ではないのか。
判断しようにも、情報が足りなかった。
「ね、ねぇ、そちらでは、解放軍の動き、何か掴んでなかったのかしら? 弟の手紙にあった以外に」
「んー……ラクエウス議員の手紙、読んでないんでわかんないんですけど、ヤーブラカ市からの情報じゃ、攻撃は今日以降で日時未定、ウヌク・エルハイア将軍の作戦じゃなくて、解放軍の一部が独自に動くみたいで、規模や戦力、ホントに実行するかどうかも含めて、わかんないことだらけなんだよね」
「それは、いつ時点の情報かしら?」
「昨日です」
「区長は今朝、インターネットで情報を手に入れたばかりだと言っていたわ」
バックミラーの中で、金髪の青年が顔を引き攣らせた。
「そう言や、そんなコト言ってましたね」
「進軍開始の情報が入ったのだな」
ソルニャークが、車窓に目を向けたまま言った。
バラック小屋や建設途中で放棄された工場の廃墟など、彼が知るバラック街の風景は、もうどこにも残っていない。
どの道もアスファルトでしっかり舗装され、上下水道や溝なども完成した。各アパートや仮設住宅の一棟毎に、男女別で共同トイレも整備され、雨が降っても道がドブ同然になることはなくなった。
東地区の生活環境は、プレハブの仮設住宅が多いことを除けば、団地地区と遜色ないところまで改善された。
「道が通りやすくなった分、進軍も容易になったな」
「そうですね。解放軍に土地勘がなくとも、これだけ見通しがよければ、はっきり見える範囲を術で移動して、星の標の防衛線を無視できます。尤も、【跳躍】や【飛翔】の術を妨げる呪具があれば、話は別ですが」
ソルニャークの暗い声に湖の民の呪医が沈痛な面持ちで応えた。
クフシーンカには、大火の後、再開発された東地区に呪具が埋設されたかどうかわからない。
かつては、ラクエウス議員らが中央政府に掛け合って、魔法使いの侵入を阻む措置を取らせたが、再開発は彼の不在中に進められ、今もあちこち工事中だ。
「正規軍の詰所は、まだあるのか?」
「人数は減りましたけどね」
ソルニャークの問いに新聞屋が答えた。
「学校の後、詰所に寄ってくれ。援軍を要請させよう」
「来てくれますかねぇ」
「少なくとも、クレーヴェルでは、解放軍と敵対している」
二人の遣り取りを聞き、クフシーンカの口から疑問が零れた。
「そもそも、解放軍がここを攻撃する目的は何かしら?」
「俺らを皆殺しにする為じゃないでしょうね?」
新聞屋が怯えた目で前を睨むと、金髪の青年が何か思い出したような顔をした。
「自治区に星の標の支部があるのがわかったから、爆弾テロをやめさせる為とか何とかって……いや、まぁ、これも噂程度で、まだ全然、ウラが取れてないんですけどね」
ワゴン車が中学校の敷地に入った瞬間、工場のサイレンが一斉に鳴り響いた。
☆彼が知るバラック街の風景は、もうどこにも残っていない/再開発……「156.復興の青写真」「276.区画整理事業」「278.支援者の家へ」「505.三十年の隔絶」参照
☆ラクエウス議員らが中央政府に掛け合って、魔法使いの侵入を阻む措置を取らせた……「530.隔てる高い壁」「558.自治区での朝」「559.自治区の秘密」参照




