892.自治区の視察
呪医セプテントリオー、諜報員ラゾールニク、ソルニャーク隊長は、約束の時間にリストヴァー自治区のクフシーンカ宅に【跳躍】した。
ラゾールニク一人が大荷物で、他の二人は手ぶらだ。
扉を開け放った寝室の戸口で、仕立屋のクフシーンカ店長と新聞屋が待ち構えていた。流石に司祭の姿はない。
「おはようございます。忘れない内にお返ししますね」
老女クフシーンカが紙袋を差し出す。
ラゾールニクに促され、呪医が受取った。昨日の若作りな服の上には、封筒が三通乗っている。
「お返事、必ずお渡しします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
深々と頭を下げられ、セプテントリオーは、マントの下に着込んだ白衣のポケットに封筒を仕舞った。
ラゾールニクが、荷物の中から巾着袋を取り出し、二人に差し出す。
「これ、タブレット端末と電源ケーブルと太陽光の充電器。飛ばしの端末で、接続料とかはこっちで持つから、どっちが持っとく?」
自治区民二人が面食らう。
クフシーンカがどうにか声を絞り出した。
「私は……機械に疎いものですから、ここは若い方に……」
「ひぇっ? 俺、俺なんかより、司祭様のがよくねぇですかい?」
「そう? まぁ、別にいいけど、使い方の説明、どうしよっか?」
ラゾールニクがあっさり妥協する。
「紙に書いてくれりゃ、後で渡しとくよ」
「一応、取扱い説明書はあるんだけど、共通語だし、予備知識ないと全然わかんないよ?」
「司祭様は共通語が堪能だ。わかんなきゃ、区長たちに聞くんじゃねぇか?」
「取り上げられたりしない?」
ラゾールニクが次々問題点を指摘する。
新聞屋は打てば響く勢いで答えた。
「流石にあいつらでも、司祭様相手にそんな無体は……いや、どうだろうな?」
新聞屋は途中で自信をなくして考え込んだ。
クフシーンカとソルニャーク隊長が眉を顰め、ラゾールニクが苦笑する。
「わかった。じゃあ、視察が終わってから、何か口実を作って司祭様をここに呼んでくれる?」
「それなら、最後に教会へ寄って、ここに連れて来りゃいいな」
新聞屋が、助かったと言いたげな顔で玄関へ向かう。呪医セプテントリオーは、フードを深く被り直してついて行った。
助手席に撮影係のラゾールニク、残りは後部座席で、セプテントリオーを挟んで座る。
「ここは団地地区です。ウチのような個人商店の一戸建てと、鉄筋コンクリートの集合住宅、役所、病院、警察署、放送局、新聞社、大学、銀行、会社の本社……えぇ、まぁ、重要な施設は大体、ここにあります」
ラゾールニクが、真後ろに座るクフシーンカ店長の説明に相槌を打ちながら、窓にタブレット端末を押し当てて動画を撮る。
湖の民の呪医も、ゆっくり流れる車窓越しにリストヴァー自治区中央部の風景を眺める。
団地地区の風景は、半世紀の内乱から復興したゼルノー市と大して違わないように見えた。
違いがあるとすれば、どの建物にも呪文や呪印がなく、風雨や寒暖差などによる経年劣化が進んでいるくらいのものだ。三十年の時を刻む鉄筋コンクリートの建物が次々と流れ、それぞれのベランダには色とりどりの洗濯物がはためく。
仕立屋のクフシーンカ店長の解説が続く。
「団地地区で暮らすのは、まとまった資産を持って移住して、強盗や詐欺師に奪われなかった人だけです」
「持たざる者は……?」
呪医セプテントリオーが遠慮がちに聞くと、ソルニャーク隊長が答えた。
「以前、市民病院でお話しした通り、東部のバラック街ですよ」
「……そう……でしたね」
その後は、クフシーンカ店長が車窓の景色を淡々と解説する他、誰も喋らなかった。アスファルトで舗装しただけの道が、リストヴァー自治区唯一の総合大学を抜け、立派な図書館の前を通過する。
「自治区では、聖者様の教えに従って、どの学校でも学費は無料です。でも、東地区の方々は、生活費を稼ぐのに忙しくて、小学校さえ行けない方も多くて……」
老女の説明で、呪医セプテントリオーは少年兵モーフを思い出した。
無料の学校にも行けない程の貧しさと困窮は、市民病院で捕えた星の道義勇軍の兵たち、針子のアミエーラとサロートカ、ラクエウス議員、クフシーンカ店長、誰から何度聞いても、湖の民の呪医には想像がつかない。
力ある民ならば、【操水】で清掃、洗濯、入浴ができ、水も浄化できる為、道がゴミや排泄物で汚れ、雨の度にドブ同然になるなこともなければ、垢染みた服を着続けてシラミに集られ、皮膚病に冒されることもなければ、汚染された水をそのまま飲んで病気になることなどあり得ない。
力なき民しか居ない筈のこの街区は、冬の大火を免れたらしいが、整然とした街並は清潔に保たれ、道路には落葉一枚見当たらなかった。
その先に高い塀と検問所のようなものが見えてきた。
ラゾールニクが、タブレット端末をフロントガラスに向ける。
「星の標の下っ端が、野菜泥棒を見張ってるんですよ」
車内に緊張が走り、ラゾールニクが端末をポケットに仕舞った。バックミラーの中で新聞屋の目が笑う。
「俺ぁ顔パスだし、店長さんも居るから大丈夫ですよ」
……ラゾールニクは、陸の民で顔見知りも居ないからいいとして、門番がソルニャーク隊長の知り合いだったらどう誤魔化す気……いや、不審者の私が誰何され、フードを取る羽目になったら?
呪医セプテントリオーの背筋を冷たい物が走った。
後部座席の窓には、薄くスモークが掛かっているが、フロントガラスは当然のことながら、素通しだ。呪医は【姿隠し】を覚えておけばよかったと後悔し、息を詰めて女神に祈る。
「よぉ、ご苦労さん」
「おう」
新聞屋が、自動小銃を肩に掛けた門番と笑顔を交わし、新聞社名のロゴマークと専売所名入りのワゴン車は、さして減速せずに通過した。
門番たちはこちらに背を向け、鏡の中でどんどん小さくなる。その姿が見えなくなってやっと、呪医は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。掌の汗を膝で拭う。
目の前には、ゾーラタ区で見たのと同じ、のどかな田園風景が広がっていた。
膝丈まで伸びた麦畑を守るのは、案山子ではなく、門番と同じ武器を携えた男たちだ。よく見ると、畑の各区画は灰色の鉄条網に囲まれていた。
「収穫期でもないのに、どうして……?」
クフシーンカ店長が訝る。
一呼吸の間があり、ソルニャーク隊長が声を発した。
「区長たちも、近々ネミュス解放軍の攻撃があると掴んでいるのでしたね?」
「えぇ、私は区長たちから聞きました」
「その後、正確な日時も把握したのではありませんか?」
星の標は、数人一組で畦道を警戒しているが、不審者を乗せた新聞屋のワゴン車には見向きもしない。
クフシーンカ店長の顔が曇った。
「ちょっと区長に聞いてみたいのですけれど」
「んー……じゃあさ、後ろの二人は床に伏せてマント被って荷物のフリでお留守番、お婆ちゃんだけ区長さんちで降ろして、俺と新聞屋さんはこのエリア出てから改めて視察の続きってどう?」
ラゾールニクが提案する。
新聞屋とクフシーンカ店長は、少し考えて修正した。
「今日は平日だ。区長がちゃんと仕事してんなら、役所に居ンじゃねぇか?」
「一応、家に顔を出して、この地区に来た理由にして帰りましょう」
確かに、用もないのに貴重なガソリンを空費するだけのドライブは不自然だ。
警備隊の姿が見えなくなるのを待って、後部座席の二人が床に伏せる。
クフシーンカがマントを整えて二人を隠し、ラゾールニクがその上にリュックを置いた。
そこそこ重さはあるが、缶詰などではなさそうだ。何をこんなに持って来たのか気になったが、今は荷物のフリに徹する。
「じゃ、俺は新聞屋さんの新入りバイトってコトでよろしく」
「おう、しっかり働いてくれよ」
ラゾールニクの飄々とした声に新聞屋が笑いを含んだ声で応じた。
十分ばかり走って、ワゴンが止まる。扉が開き、ラゾールニクが真面目なバイト君の声音でクフシーンカ店長を労わった。
「さ、店長さん、区長さんち着きましたよ。足下、気を付けて下さいねー」
「ありがとうね」
扉が閉まり、三人の足音が車を離れた。
呪医セプテントリオーとソルニャーク隊長は、周囲に人が居る可能性を考え、座席の下で背を丸めて蹲ったまま身動きひとつできない。
三人は、玄関先で家人と一言二言交わすだけの筈が、待つ身の足が痺れ切ってもまだ戻らなかった。
☆以前、市民病院でお話しした/市民病院で捕えた星の道義勇軍の兵たち……「017.かつての患者」~「019.壁越しの対話」参照
☆無料の学校にも行けない程の貧しさと困窮
少年兵モーフ……「037.母の心配の種」「117.理不尽な扱い」「225.教えるべき事」「327.あちら側の街」参照
アミエーラ……「027.みのりの計画」「031.自治区民の朝」「539.王都の暮らし」参照
サロートカ……「374.四人のお針子」「559.自治区の秘密」「560.分断の皺寄せ」参照
ラクエウス議員、クフシーンカ店長……「026.三十年の不満」「213.老婦人の誤算」「372.前を向く人々」参照
☆星の標の下っ端が、野菜泥棒を見張ってる……「027.みのりの計画」「046.人心が荒れる」「053.初めてのこと」参照




