887.自治区に跳ぶ
いつもなら、難民キャンプの診療所を巡回している時間だが、今日はアミトスチグマの夏の都で、約束の時間を待つ。
活動の支援者マリャーナに邸宅の一室を借り、リストヴァー自治区からアミトスチグマに逃れてきた者たちへのインタビューは、既に終えていた。
現在は、ラゾールニクを中心としたインターネットに明るい者たちが、別室でインタビュー動画の編集作業を行っている。
動画そのものはノーカットで、発言の内容も変えないが、針子のアミエーラとその後輩のサロートカ、ラクエウス議員にインタビューした呪医セプテントリオー、三人の声だけ、機械で変えて誰だかわからなくすると言っていた。
傍らのリュックサックには、バルバツム連邦製の保存食や介護食、擬装用の小道具、ラクエウス議員からの手紙などが詰めてある。
膨らんだリュックは三つ。
呪医セプテントリオーと諜報員ラゾールニク、そして、星の道義勇軍の生き残りであるソルニャーク隊長が持つ。渡す相手はラクエウス議員の姉クフシーンカだ。
リストヴァー自治区の有力者の一部は、密輸したタブレット端末でインターネットにアクセスし、外部との交信や情報収集を行っている。
万一の場合を考え、持参した小道具で部屋の様子と本人の姿を偽った上で、収録に臨む。
呪医セプテントリオーは、いつもの服と各種防禦の術や呪印が刺繍された白衣の上から、身体全体をすっぽり覆うフード付きのマントを羽織っていた。
マントには何の術も施されていない。ただの目隠しだ。
……完全に不審者の風体だがな。
キルクルス教徒の自治区へ湖の民であるセプテントリオーが侵入するには、致し方なかった。変装に使う【化粧】の術が施された装飾品では、多少、容貌を偽れても、人種までは誤魔化せない。
湖の民の最大の特徴である緑色の髪を他の色に染めるのは、セプテントリオーにはどうしても受け容れ難かった。
ラゾールニクの提案で、この不審者にしか見えない恰好に落ち着いたのだ。
マントは、アミエーラとサロートカが、ほんの数時間で拵えてくれた。
「これで、上手く誤魔化せればいいんですけど」
「センセイ、星の標の人にみつからないように気を付けて下さいね」
「ありがとうございます。気を付けます」
彼女らは、余計な仕事を増やしたセプテントリオーにイヤな顔ひとつせず、逆に湖の民の呪医を気遣ってくれた。
セプテントリオーは我が儘を言った上、ありきたりな礼の言葉しか出せない自分が情けなかった。
「よっ、呪医、お待ち遠さん」
葬儀屋アゴーニは、約束の時間より少し早く到着した。三人で当たり障りのない挨拶を交わす。
久し振りに顔を合わせたキルクルス教徒の元テロリストは、相変わらず、ラキュス湖のように穏やかな目をしていた。
この物静かな男をテロに走らせたのは、半世紀の内乱後に成立したネモラリス共和国の社会全体だ、と呪医セプテントリオーは思っている。
マリャーナ宅の使用人が、編集作業中のラゾールニクを呼んで来てくれた。
ラゾールニクは金髪の陸の民で、元々何の徽章も身に着けていない。【霊性の鳩】学派なのか、他学派の徽章を隠し持っているのか、判然としなかった。
「じゃ、行こっか」
「おう、気ィ付けてな。俺ぁ坊主たちとちょっと喋って、野菜買ったら一回、ヤーブラカに戻るゎ」
ラゾールニクが軽い調子で言い、アゴーニが同様に応じる。
……鱗蜘蛛のせいで、野菜の入荷が止まったのか。
備蓄はあろうし、魚も獲れるので、すぐに飢えることはなさそうだが、あちらはあちらで大変そうだ。
「今日は多分、収録だけで一日潰れるから、自治区の見学はまた明日」
「じゃ、明後日、ここへ迎えに来るゎ」
魔法使い二人の遣り取りにも、ソルニャーク隊長の表情は変わらなかった。
大荷物を背負った男三人が、夏の都の白い街並を行く。【無尽袋】の不足で、荷物を抱えた通行人は増えたが、この三人程の大荷物はいなかった。
門を出て、若葉が萌える草地に入って手を繋ぐ。
「行き先は、ラクエウス議員の姉、クフシーンカさんの自宅兼店舗の寝室です」
呪医セプテントリオーは、説明に続いて【跳躍】の呪文を唱えた。
目眩に似た感覚に続いて、若草に覆われた丘の風景が、セプテントリオーの記憶に刻まれたあの部屋に変わる。
この家の老いた女主人は、外から見えぬよう、カーテンをきっちり閉めてくれていた。
ラゾールニクが力ある言葉で何事か唱え、扉に耳を押し当てた。呪医が初めて耳にする呪文だ。しばらくそうして、耳を離すと、三回ノックして待つ。
床を打つ杖の音と複数の足音に続き、身構える三人の前で扉が開いた。
電灯が点された部屋に老女クフシーンカと、あの日の新聞屋、それにキルクルス教の聖職者の衣を纏った男性が入って来る。
「ようこそお越し下さいました。こちらは、東教区の司祭様と、聖光新聞専売所の店長さんです。今日は、この話し合いの立会いと、後で自治区内をご案内する為に同席していただくことになりました」
事前の取り決めではそんな話は全く出なかった。
……来てしまったものは仕方がない。
セプテントリオーが諜報員を見ると、ラゾールニクも同感なのか、軽く肩を竦めて荷物を降ろした。
「ソルニャークさん、ご無事だったのですね」
「メドヴェージとモーフ、ここの従業員だった針子も無事です」
司祭は、見知った顔の無事に目を潤ませたが、ソルニャーク隊長は淡々と報告した。呪医セプテントリオーは二人の温度差に内心、首を捻ったが、フードを目深く被ったまま無言で通す。
「あの子も無事だったのですか。お父さんが亡くなられてから、毎週、礼拝後のお菓子を楽しみに通っていたのですが、いつの間にか来なくなって、案じていたのですよ」
「今は蔓草細工を作って暮らしています」
二人が話す横で、ラゾールニクがせっせと準備を進める。
薄い織物を床に敷き、粘着式の安っぽい壁紙を無垢材の板壁に貼り付け、カーテンレールにフックで別の布を吊り下げた。そのどれもが夜空に星を散りばめた模様だ。
「で、店長さん、これに着替えてもらえます? バルバツムの若いコの間で流行ってるそうなんですけど」
淡い色の前開きワンピースで、星型ボタンの周囲にフリルがあしらわれている。薄手のニットカーデガンは土色で腰までの長さ、幅広のベルトは濃い緑で光沢のある生地だ。
薄い手袋の色は肌に似て、遠目には若々しい手に見えるだろう。
「それと、これ、首に巻いて」
最後に若草色のスカーフを出し、老女が受け取った服の上にふわりと重ねた。
「若い娘さんに変装すればよろしいんですの?」
「店長さんが持ってなさそうな服ってだけで、他意はありませんよ。声は後から機械で変えますし、収録が終わったら全部回収して、バレないようにしますから」
ラゾールニクが後半を司祭と新聞屋に向けて言う。
二人が頷くと、クフシーンカ店長は別室へ着替えに行った。
ソルニャーク隊長が荷物を降ろす。
「保存食です」
呪医セプテントリオーも、マントの下で肩をもぞもぞ動かし、白衣の呪文や緑色の髪が露わにならないよう、慎重にリュックを降ろした。
文字通りの意味で肩の荷が下り、思わずホッと息を吐く。
司祭が、マントの不審者へ露骨に警戒の眼を向けながら聞いた。
「ソルニャークさん、メドヴェージさんとモーフ君は、今、どちらに?」
「ずっと遠くの安全な場所です。司祭様は自治区外の様子をどの程度ご存知ですか?」
「新聞報道以上のことは知りません」
「区長たちは、何とかって機械でアーテルの新聞読んで、もっと知ってるみたいですけどね」
新聞屋が忌々しげに言う。
……その情報は、自治区内の星の標だけで共有して、他には教えないのだな。
「椅子、借りていいかな? お婆ちゃん、インタビューの間ずっと立ったままじゃ、キツいよね?」
「あ、こいつぁ気が利かなくて」
新聞屋が台所へ走った。
☆リストヴァー自治区からアミトスチグマに逃れてきた者たちへのインタビュー……「858.正しい教えを」~「861.動かぬ証拠群」参照
☆ロに走らせたのは、半世紀の内乱後に成立したネモラリス共和国の社会全体……「018.警察署の状態」「019.壁越しの対話」「026.三十年の不満」参照
☆セプテントリオーの記憶に刻まれたあの部屋……「558.自治区での朝」参照
☆あの日の新聞屋……「556.治療を終えて」「557.仕立屋の客人」参照
☆事前の取り決め……「861.動かぬ証拠群」参照
☆区長たちは、何とかって機械でアーテルの新聞読んで、もっと知ってる……「629.自治区の号外」「630.外部との連絡」参照




