879.深くて暗い溝
老婦人シルヴァは優雅な手つきでカップを傾け、ミルクティーを飲む。
朝食と昼食の間、中途半端な時間帯で、喫茶店の店主はカウンターで新聞を読んでいた。
奥の壁に囲まれたスペースの他には客もなく、端に座ったロークの席から遠くのカウンターが見えるだけだ。
「ジャーニトルさん……生きてればその内、いいことありますから、きっとどこかで元気にしてますよ」
ロークは、ゲリラを抜けたジャーニトルが難民キャンプに居ると知っているが、知らないフリで彼の無事を祈ってみせた。
スキーヌムはやっと、この老婦人が何者か気付いたらしく、さっきから一言も発さず、熱い鎮花茶をちびちび飲んでいる。
「そうねぇ。ところで、そちらは? ロークさんのお友達?」
「はい。仕事仲間です」
スキーヌムは、ゲリラの勧誘員に最低限の答えを返した。
「移動販売店の?」
シルヴァがティーカップを置いて僅かに身を乗り出す。
「いいえ。みんなとは別れたんです」
「あら、じゃあ、ロークさん、一人でこの島に残ったの?」
ロークは目を伏せて口を噤んだ。溜め息の反動で鎮花茶の香気を吸い込む。
スキーヌムは、さっき名乗るタイミングを逃し、何も言えずに二人を交互に見ていた。
……頼むから、これ以上、余計なコト言わないでくれよ。
「ねぇ、ロークさん、ウチに戻ってくれないかしら?」
「人数が増えたんなら、力なき民の俺って別に要らないんじゃないんですか?」
「それがそうでもないのよ」
「どうしてです?」
「今、訓練できる人が、クリューヴさんしか居ないのよ」
……クリューヴさんって、どっち派についたんだ?
そもそも、気弱な彼が何を思ってゲリラに加わったのかもわからない。復讐派は消耗品扱いだろうから、オリョールたちの穏健派につきそうな気がした。
……じゃあ、俺に復讐派の訓練をしろってコト? 冗談じゃない!
ロークはゆっくり首を横に振ってみせた。
老婦人はたっぷり二呼吸分、ロークを見詰め、溜め息混じりに言う。
「そう。もし、気が変わったら、ここのマスターに託てちょうだいね。ロークさんならいつでも大歓迎よ」
ロークはそれに応えず、腕時計に目を向けた。
あの日、ニェフリート運河の畔で空襲に巻き込まれても、北ザカート市の廃墟やレサルーブの森で魔物や魔獣相手に行った訓練でも、アクイロー基地での実戦でも壊れず、傷だらけになった今も正確に時を刻み続ける。
「あぁ、急いでるのにお時間取らせてしまってごめんなさいね。また今度、ゆっくりお話しできたら嬉しいわ」
「お茶、ご馳走様でした」
「ご馳走様でした」
ロークはスキーヌムの腕を掴んで立ち上がった。
二人は振り返らずに喫茶店を出た。
念の為、人通りの多い道を通り、いつもと違う階段からチェルノクニージニクに降りる。
地下街をでたらめに歩き回り、本当に迷子になりかけながら呪符屋に戻った。
「お前ら、遅かったじゃねぇか。地図持ってったのに迷子ンなったのか?」
「いえ、帰りにシルヴァさんと鉢合わせして……」
「何ッ? ゲリラのババアに? お前ら、何もされなかったか?」
呪符屋の店内に客の姿はなく、ロークはカウンター越しに呪符の対価が入った集金鞄を渡しながら答える。
「勧誘されましたけど、断りましたよ」
「そうか。ならいい」
ゲンティウス店長は、青褪めたスキーヌムを一瞥して顎をしゃくった。
「もうこんな時間だし、メシ食いに行っていいぞ」
「遅くなってすみません。お昼、お先にいただきます」
ロークはスキーヌムの手を引いて、いつもの獅子屋へ向かった。
エプロンドレスの後ろ姿が定食屋の扉を潜るのが見え、ロークは歩調を上げた。
「クロエーニィエさん、こんにちは」
「あら、こんにちは」
魔法の道具屋“郭公の巣”の店長と三人で奥の卓を囲む。
ロークはいつもの日替わり定食に加え、鎮花茶も注文した。
スキーヌムも同じ卓に座ったが、俯いて何も言わない。
クロエーニィエ店長が太い眉根を寄せる。
「この子、どうしちゃったの?」
「お茶が来てからお話しします」
ロークが言うと、クロエーニィエは黙って頷いた。
昼食にはやや早く、店内はまだ空いている。
鎮花茶の芳香は、厨房から漂う仕込みの匂いに紛れそうだったが、スキーヌムは顔を上げて早口に聞いた。
「あのお婆さんが、フィアールカさんとラゾールニクさんがおっしゃっていたネモラリス憂撃隊の勧誘員なんですね?」
ロークは無言で頷き、鎮花茶のカップを手に取った。
「あのお婆さんが言っていた訓練って何のことですか? ロークさんに先生をして欲しいと言っていましたが、何を教えるんですか?」
「それを知って、どうしたいんですか?」
ロークが敢えて隣を見ずに質問を返すと、スキーヌムはぐっと詰まった。
クロエーニィエ店長は、少年二人の遣り取りを黙って見守る。
ドアベルが立て続けに鳴り、あっという間に席が埋まった。この席だけが、ランチタイムの賑いから取り残される。
定食を置いて去るホール係を見送り、スキーヌムは囁いた。
「もし、いけないことなら、止めたいです」
「どこの、どんな基準で、是非善悪の判断をする気ですか?」
「それは……」
スキーヌムが俯くと、クロエーニィエ店長の明るい声が二人の間に入った。
「難しいお話は後にして、冷めない内に食べちゃいましょ」
重苦しい空気が破れ、ロークはホッと息を吐いて定食に手を付ける。スキーヌムもフォークを手に取った。
さっさと食べて呪符屋に戻らなくては、ゲンティウス店長が待っている。
機械的に腹に詰めただけの食事を終え、獅子屋を出た。
「さっきはありがとうございました」
「私は別に何もしてないから、気にしないで。……坊や、あんまり思い詰めちゃダメよ」
クロエーニィエ店長は、スキーヌムに軽い調子で声を掛け、ひらひら手を振って自分の店に戻る。ロークはその背に小さく手を振り返して呪符屋へ急いだ。
客と入れ違いに店内に入る。
月末ではないのに、運び屋フィアールカがいつもの席でタブレット端末をいじっていた。
「お帰りー。どうしたの? 二人とも暗い顔して」
「さっき、上の街でシルヴァさんと鉢合わせしちゃったんです」
「ふーん。何かされた?」
「喫茶店でお茶を奢られて、戻りたくなったらそこのマスターに声を掛けろって言われました」
「戻るの?」
「まさか!」
フィアールカは薄く笑って喫茶店の名を聞き、端末に視線を戻した。
ロークがカウンターに入ると、ゲンティウス店長は、奥で出前の定食を頬張っていた。スキーヌムはまだ店内に突っ立っている。
「フィアールカさん……ロークさんって、あのお婆さんの……仲間だったんですか?」
スキーヌムの声が床に落ち、湖の民の運び屋は端末から顔を上げた。
アーテル人の少年が、床を見詰めて先程の質問を繰り返す。
「お婆さんが、ロークさんに訓練の先生をして欲しいみたいなことを言っていたのです」
「でも、断ったんでしょ?」
ロークとスキーヌムは同時に頷いた。
「だったら別にいいじゃない」
運び屋が端末に視線を戻し、面倒臭そうに言うと、スキーヌムは弾かれたように顔を上げた。
「よくありません! ……あなたは、ロークさんの事情をどこまでご存知でそんなことをおっしゃるんですか?」
「それを本人の目の前で私に聞くの?」
湖の民の魔女に鼻で笑われ、スキーヌムは耳まで真っ赤になって俯いた。
運び屋の眼がカウンターに向けられる。
ロークはゆっくり顎を引いた。
ゲンティウス店長が緑色の揚げ物を食べながら、横目で店番の少年を見る。
「坊やよりもよく知ってると思うけどねー。空襲でゼルノー市を焼け出されて、偶々近くに居た人たちと一緒に、トラックでラクリマリス領まで避難した。王国領では、パンと魔法薬と蔓草細工とかの行商をして生活費を稼いでた。……ここまで合ってる?」
「はい」
ロークは、フィアールカと出会う前のことを語られて困惑したが、内容は間違っていないので頷いた。
「レサルーブ古道とザカート隧道を経由して、西回りで王都を目指したけど、モースト市の近くで魔獣に追い掛けられて、北ヴィエートフィ大橋に逃げ込んだ」
ロークが頷いて先を促す。
スキーヌムは動かなかった。
「橋の守備隊は全滅。扉が壊れて戻れなくなって、仕方なくランテルナ島に渡って、ゲリラの拠点に迷い込んで保護された」
スキーヌムが顔を上げ、淡々と語る運び屋を見た。
「女の子たちを人質に取られて、仕方なくゲリラに協力させられた。坊やを含む男性数人は、銃の扱いを教えられて、アクイロー基地襲撃作戦に加えられた」
スキーヌムが息を呑み、血の気の失せた顔をロークに向ける。
……どの部分に驚いたんだ?
「基地は壊滅できたけど、ゲリラの大半が死んで、トラックのみんなはゲリラの拠点から逃げ出した。私はその途中で依頼を受けて、みんなを王都に運んだのよ」
「俺たちが出て行った後、生き残りがまた仲間を集めて、ネモラリス憂撃隊って名乗り始めたんです」
「では、お婆さんはロークさんに……人殺しの先生を……」
スキーヌムの声が震えて消える。
フィアールカは肩を竦めてロークを見た。
……コイツ、今、戦争中なの忘れてんのか?
ロークは呆れて物も言えなかった。
☆クリューヴさんって、どっち派についた……「837.憂撃隊と交渉」「838.ゲリラの離反」「840.本拠地の移転」参照
☆ニェフリート運河の畔で空襲に巻き込まれて……「056.最終バスの客」「057.魔力の水晶を」参照
☆北ザカート市の廃墟やレサルーブの森で魔物や魔獣相手に行った訓練……「368.装備の仕分け」「379.手の届く機会」「390.部隊の再編成」「397.ゲリラを観察」「407.森の歩行訓練」「408.魔獣の消し炭」参照
☆アクイロー基地での実戦……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照




