0090.恵まれた境遇
「ちょっと早いけど、もう起きて頂戴」
アミエーラは、夜明け前に起こされた。
店長はすっかり身支度を整えて微笑む。
「あぁ、いいのよ。慌てなくて。朝ごはん、今から作るから、ゆっくりでいいわ。肌着はこれに着替えてね」
アミエーラが慌てて跳ね起きると、店長はそう言い置いて客間を出て行った。
そう言われても、何も手伝わないのでは申し訳ない。
言われた通り、昨日渡された魔法の刺繍入りの肌着を身に着け、手早く着替えると、小走りに台所へ向かった。
顔を出すと、既に朝食の用意は終わっていた。
「あら、早かったのね。まぁいいわ。座って」
「すみません。何もお手伝いできなくて……」
「いいのよ。気にしなくて。さ、座って」
にっこり笑って勧められ、アミエーラは恐縮して腰を下ろした。店長も、二人の前にスープの深皿を置いて座る。
今朝も、アミエーラが見たこともない豪華な朝食だ。
野菜とベーコンがたっぷり入ったスープ、目玉焼き、炒めたきのこ、香草茶。堅パンには、黄金色のとろりとしたものが、たっぷりかかって輝く。
アミエーラの視線に気付いた店長が、微笑を浮かべて説明する。
「それ、蜂蜜よ。甘くておいしくて、滋養があるから」
「……ありがとうございます」
それ以上、言葉もない。
アミエーラは、少しべたつく堅パンを一口齧る。
蜂蜜の染み込んだ堅パンは、少しやわらかかった。口いっぱいに広がるやさしい甘さ。この世にこんな美味しい物があるとは、知らなかった。
バラック街の住人は、みんな貧しい。
働き口が団地地区で、こんなに親切な雇い主がいるアミエーラは、恵まれた部類だ。普段の昼食は、ここできちんとした食事を与えられ、時には帰りにお裾分けまでもらえる。
親友の孫というだけで、申し訳ないくらい店長によくしてもらった。
近所の人たちと比べ、恵まれ過ぎて恐ろしいくらいだ。
アミエーラと父はそのことを常に考え、周囲に妬まれないよう細心の注意を払って近所付き合いをした。
バラック街が焼失し、父は行方不明。
この先、リストヴァー自治区全体もどうなるかわからない。
分不相応なまでに贅沢な朝食を終える頃には、空の明るさが増し、雀が元気よく鳴き交わした。
「これから話すことは、誰にも言っちゃダメよ」
店長が、針子の青い瞳をじっと見詰める。アミエーラが小さく頷くと、店長は厳しい表情を崩すことなく続けた。
「あなたの母方のお祖母さん、フリザンテーマは、力ある民……ちゃんと魔法の使える……魔女だったの」
声も出ない。
アミエーラは息を呑み、店長をまじまじと見た。
冗談を言ったようには見えない。そもそも、冗談でも、そんなことを言うような人ではなかった。
「昔はね、改宗せずに異教徒と結婚する人、ちょくちょく居たのよ」
アミエーラの祖母フリザンテーマは、フラクシヌス教徒だが、キルクルス教徒の店長とも仲がよかったと言う。
祖母がフラクシヌス教徒だったことも、今、初めて知った。
アミエーラは何と言っていいかわからず、続きを待つ。
「のんびりした時代だったのよ」
店長は、遠い目をして淋しげな笑みを浮かべ、話を続けた。
フリザンテーマの結婚相手……アミエーラの祖父はキルクルス教徒だが、妻に改宗を迫ることはなかった。婚家の人々も、魔女の嫁を不浄視しなかった。
「アルトン・ガザ大陸ならいざ知らず、この土地で、聖者様の教えを厳格に守るなんて無理ですもの」
それはアミエーラにもよくわかる。
現に、バラック地帯は酷い有様だ。
「内乱で、信仰を理由にバラバラになった家族は多かったけど、最後まで、家族の絆を守り通した人たちも居たのよ」
祖父母夫婦も、その一組だったと言う。
フリザンテーマが魔女であることを隠す為、移住先は、人口の多いバラック地帯に決めた。それも、近所に知人の居ない区域を選んだ。
アミエーラは、五歳の頃に亡くなった祖母を思い出した。
祖母が居た頃は、毎日、キレイな水が飲めた。
「高かったのよ。大事に飲んでね」
祖母は、幼いアミエーラに言い聞かせた。水をくれる祖母の笑顔は、いつもどこか淋しそうだった。
祖母が亡くなってから、おいしい水を飲めなくなったのは、働き手が減り、収入が減ったからだと思った。
キレイな水が少ししか手に入らなくなったので、祖母の死後に生まれた弟妹は、赤ん坊の内に亡くなった。
近所の子供も、五人に一人は幼い内に亡くなる。
ここは、魔術なしでは生きてゆけない土地なのだ。
「フリザンテーマの親戚には、長命人種の人も居たわ。終戦まで無事なら、今でも、お姉さんたちがご存命の筈よ」
店長は、リュックのポケットから古びた手帳を取り出した。
「これはね、昔の住所録。カリンドゥラさんが、お祖母さんのお姉さん、あなたの大伯母さんよ」
変色したページに青インクの文字がしっかり残る。
その住所は、ネモラリス島だ。
☆時には帰りにお裾分けまでもらえる/周囲に妬まれないよう細心の注意を払って近所付き合い……「0027.みのりの計画」参照
☆バラック街が焼失……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」参照
☆父は行方不明……「0059.仕立屋の店長」参照
☆バラック地帯は酷い有様……「0013.星の道義勇軍」「0019.壁越しの対話」「0026.三十年の不満」「0031.自治区民の朝」「0046.人心が荒れる」参照
☆祖母の死後に生まれた弟妹は、赤ん坊の内に亡くなった……「0031.自治区民の朝」参照




