878.悪夢との再会
風がぬるみ、街路樹が固い冬芽をするりと解いて新しい葉を広げた。
ロークとスキーヌムは、ランテルナ島での暮らしにすっかり慣れ、今日は二人でお使いを頼まれた。呪符屋の店主に渡された地図を見ながら、若葉が瑞々しいカルダフストヴォー市内の歩道を肩を並べて歩く。
ここ数日は大口の注文が入って忙しく、ずっと地下街チェルノクニージニクの呪符屋に籠っていた。数日振りに出た地上の街には春の色が溢れ、見る物全てが輝いているような気がする。
「おはようございます。呪符屋です。ご注文の品をお届けに上がりました」
「あぁ、こりゃどうも」
雑居ビルの三階にある会社に呪符を届け、ロークが対価と書類を受け取る。スキーヌムは事務員に領収証を渡した。
「ありがとうございます。またご贔屓に」
取引先を辞して狭い階段を降りる。
二階の踊り場で、見知った顔と鉢合わせした。
互いに時が止まったように無言で見詰め合う。
年の功か、我に返ったのは相手が先にだった。
「あ、あら、ロークさん、お久し振り。他のみなさんはどうなさったの?」
頭が真っ白になり、答えることも、その場を離れることもできない。
スキーヌムに袖を軽く引かれ、ロークはどうにか返事を絞り出した。
「今、急いでるんで……」
「また今度なんて、いつ会えるかわからないのに。少しくらいいいでしょう」
上品な老婦人が親しげに話し掛けるのを見て、スキーヌムが至極常識的な反応をする。
「初めまして。ロークさんのお知り合いの方ですか?」
「えぇ、ロークさんは去年、移動販売店のみなさんとご一緒に私の親戚の別荘に避難なさってたんですよ」
「そうだったんですか」
スキーヌムが普通に頷く。
シルヴァは狭い階段を塞ぐ形で立っていた。
老婆とは言え、武闘派ゲリラに与する魔法使いだ。
……突き落とすのは簡単だけど、魔法で反撃されたら勝ち目ないしなぁ。
老婦人の服には、【耐衝撃】の呪文が刺繍してある。ロークは呪符屋の仕事で、力ある言葉を少しは読めるようになった。シルヴァの魔力と術の効力を考えると、階段から落とした程度では、逃げ切れる気がしなかった。
ロークが反応に困っている間にも、二人の当たり障りのない普通の会話は続く。
「夏に別荘を離れて、もうこの島を出られたものだとばかり思っていたんですのよ」
「そうだったんですか。僕がロークさんと知り合ったのは、去年の秋なので、それ以前のことは知らないんですよ」
「あらあら、お時間よろしければ、ちょっとそこでお茶でもいかが? ご馳走しますからゆっくり話しませんこと?」
「いえ、今、用事の途中なので……」
ロークは何とか断って、穏便にこの場を切り抜けようと試みた。
肩に掛けた集金鞄には、呪符の対価の高価な素材が入っている。
スキーヌムも寄り道には反対らしく、通せんぼする老婦人に困った顔を向けた。
「久し振りに会えたんですから、二十分や三十分、よろしいじゃありませんか」
「いえ、ホント急いでるんで」
ロークは意を決して身体を横に向け、老婦人の脇をすり抜けようとした。
「あっ……」
微かな声と同時に老婦人の小さな体が宙に浮いた。
シルヴァの唇が小さく動く。
一瞬の筈が、酷くゆっくりに見える。
老婦人は仰向けに落ち、ひとつ下の踊り場に叩きつけられた。
「お婆さんッ!」
スキーヌムが階段を駆け下り、シルヴァを助け起こす。
……いやいや、今、当たってないよ。自分で階段蹴って後ろに飛んだんだよ。
脇を抜けようとしたロークの身体に勢いなどついていない。本当にぶつかったのなら、後ろ向けに倒れて階段を滑り落ちる筈だ。
背中から音もなく、踊り場に「着地」したのだ。
スキーヌムがロークを見上げる目には、ありありと批難が籠もる。
……参ったな。
ロークには、「シルヴァが自ら飛んだ」と証明する手段がない。
本当のことを言えば、言い訳する極悪人に仕立て上げられるだろう。
シルヴァはスキーヌムに肩を借りて立ち上がり、大袈裟な身振りで身体をあちこちさすった。
「服のお陰で助かったけど、ちょっと腰が痛むわね」
「あっ! あぁあっ! すみません、すみません!」
何故かスキーヌムが謝る。
シルヴァはロークを見上げて猫撫で声を出した。
「あぁ、坊やたちは何も悪くないのよ。急いでるのに邪魔なとこに立ってた私がいけないのよ。少し腰が痛むだけで、どこも怪我はしてないから、気にしないで」
「すみません、すみません」
シルヴァは平身低頭するスキーヌムにやさしく声を掛ける。
「いいのよ、気にしないで。ロークさんもびっくりし過ぎて声も出ないみたいだけど、私は大丈夫よ。ちょっと腰が痛いだけだから」
……クソババア。やっぱ、階段から落ちたくらいじゃ死なないのか。
ロークは集金鞄を肩に掛け直し、ゆっくり階段を下りた。
スキーヌムは動転してすっかりシルヴァに呑まれている。
今の彼にロークが何を言っても、言葉は届かないだろう。
「腰が痛いのも、少し休めば良くなると思うわ。ちょっとそこのお店まで、念の為に付き添って下さらないかしら?」
「は、はい。すみません。あの、病院じゃなくていいんですか?」
「えぇ。大丈夫よ。家に帰れば魔法のお薬があるから」
……嵌められた。
魔法ではない術中に絡め取られ、ロークは成す術もなくついて行く他なかった。
「よぉ、久し振り」
「どうも。今日は少しゆっくりしたいのだけれど」
「あぁ、奥、空いてるよ」
喫茶店の一番奥、壁に挟まれた半個室のような席に通された。
「驚かせてしまったお詫びに、ご馳走させてちょうだいね」
「いえ、流石にそれは俺が……」
……こんなので恩を売られてたまるか。
ロークは更に警戒を強めたが、スキーヌムは頻りに恐縮する。
老婦人シルヴァは寛大な笑みを浮かべた。
「いいのよ。ロークさんの元気な顔を見られて、嬉しいのはホントなんだから」
……移動販売店の情報を引き出したいのか?
「決まったかい?」
「私はミルクティー。ホットでね」
「鎮花茶ふたつ」
ロークは連れの意向を聞かず、さっさと注文した。
せめてもの抵抗だ。
これ以上、シルヴァに取り込まれないよう、スキーヌムには冷静になってもらいたかった。
……って言うか、シルヴァさんが何やってるか、フィアールカさんから聞いて……ん? あッ!
シルヴァは名乗っていない。
ロークは固有名詞を殊更にはっきり発音した。
「シルヴァさん、オリョールさんたちはお元気ですか?」
「えぇ。みんなも元気よ。ロークさんが知ってる人は、オリョールさんとクリューヴさん、それと小柄な呪符屋さんだけになってしまったけれど」
「呪医と葬儀屋さんと、えっと、もう一人の職人さんはどうしたんですか?」
呪符職人は相変わらず、誰にも呼称を明かしていないようだ。
呪医と葬儀屋がどこでどうしているのか、フィアールカから聞いて知っている。消息がわからないのは武器職人だけだ。
ロークは横目でスキーヌムを窺った。表情のない顔で向かいの老婦人を見詰めている。敢えて聞いた意図に気付いてくれたかどうか、わからなかった。
「三人とも、あなたたちが出て行った後、何も言わないでどこかへ行ってしまったわ」
老婦人シルヴァは、遠くに視線を投げてしんみりと言う。
ロークは、近くの席に客が居ないか耳を澄まして聞いた。
「ジャーニトルさんは……?」
湖の民の警備員が、武闘派ゲリラのネモラリス憂撃隊を抜け、難民キャンプに身を寄せたのも、フィアールカに教えてもらった。
「じゃあ、ゆっくりしてってくれよな」
喫茶店の店主が愛想良く言って、三人の前にお茶を置く。
シルヴァは彼がカウンターに引っ込むのを待って答えた。
「あれから随分、仲間が増えたのよ。人数が多いと、どうしても意見が分かれてしまいますからねぇ」
「喧嘩になったんですか?」
「いいえ。喧嘩じゃないわ。意見が分かれて、ジャーニトルさんと他にも何人か抜けてしまったのよ」
ネモラリス憂撃隊が分裂したとは言わない。
ロークは、知っているのをおくびにも出さず、ホッとしてみせた。
「ジャーニトルさん、どこかで元気にしてるんですね?」
「多分、ね。どこへ行ったか聞いていないのだけれど、実家はクルブニーカにあるって言ってたし……」
シルヴァが心配してみせる。
ロークが知る限り、【急降下する鷲】学派を修めたジャーニトルは、オリョールの次に強かった。
唇にカップを寄せて鎮花茶の甘い香りを取り込んだ。たちまち動揺と緊張がほぐれる。
気を緩め過ぎないよう強く意識して、絶望に囚われた人々を死地へ送り込むゲリラの勧誘員の出方を窺った。
☆僕がロークさんと知り合ったのは、去年の秋……「742.ルフス神学校」「743.真面目な学友」参照
☆三人とも、あなたたちが出て行った後、何も言わないでどこかへ行ってしまった……「512.後悔と罪悪感」「513.見知らぬ老人」「526.この程度の絆」参照
☆湖の民の警備員が、武闘派ゲリラのネモラリス憂撃隊を抜けて難民キャンプに身を寄せた……「863.武器を手放す」参照




