874.湖水減少の害
「声が漏れないように【静音】を掛けました。呪医、どうぞ」
湖の民の呪医はスニェーグに目礼し、抑えた声で告げた。
「シェラタン当主は、御存命です」
「ウヌク・エルハイア将軍に逆らって殺された説は、タダの噂なんですね」
ファーキルがホッとする。
呪医セプテントリオーは頷いて目を伏せ、声を床に落とした。
「ラキュス湖の水位を維持する為に力を尽くし、この戦争に介入する余裕はありません」
「ラキュス湖の水位?」
つい最近まで、キルクルス教徒として生きてきたアミエーラには、何のことかわからない。
ファーキルがタブレット端末を操作して、折れ線グラフを表示させた。
「半世紀の内乱の少し前から、内乱後のラキュス湖の水位です」
水位は、半世紀の内乱前と比べて、明らかに下がっていた。
内乱後は回復傾向にあるが、その変化は緩やかで、和平から三十年を経た今も内乱前に達していない。
「えっと……?」
アミエーラには、まだよく飲み込めない。
湖の民の呪医がわかりやすく説明してくれた。
「ラキュス湖の水位は、この地方に暮らす人々の祈りによって保たれています」
「アミエーラさん、王都の神殿にお参りしてましたよね。あれのことですよ」
ファーキルの一言で思い出した。
神殿の通路で山盛りにされた【魔力の水晶】、それを握って奥へ進むフラクシヌス教徒の群。魔力を吸収して淡く輝く【水晶】が捧げられた祭壇。
「ラキュス湖畔各地の神殿から、ラキュスの核とも言える女神の涙に魔力が集められ、一部はフラクシヌス様の樹とスツラーシ様の岩山の維持にも回されますが、大部分は水を産み出す青琩と、旱魃の龍の封印の維持に使われています」
呪医の説明と端末のグラフがやっと繋がり、アミエーラは息を呑んだ。
ネーニア島北部ネモラリス領は、アーテルの空襲と死体を喰らって力を得た魔獣によって、多数の都市が壊滅した。同時に、魔力の供給源である神殿が失われ、その分、青琩の力は衰えただろう。
……当主一人で足りない分を補ってるの?
呪医が説明を続ける。
「降水量は平年と大差ありませんが、この戦争が始まって一年以上経ち、やはり、ラキュス湖の水位は低下し続けています」
「えっ? じゃあ、戦争が続いて神殿がずっと再建できなかったら、湖が干上がっちゃう……?」
アミエーラの疑問に呪医は苦しげに頷いた。
「歴史上、まだ一度も完全に干上がったことはありませんが、水位低下の害は、それ以前から出ます」
「浅い所が干上がって、湖底が露出すれば、農業や林業に大きな被害が出るんですよ」
針子が首を傾げると、スニェーグが説明してくれたが、ピンとこない。
「水が、まだあっても……? えーっと、水遣りが大変になるからですか?」
アミエーラは夏の日、ランテルナ島の拠点にみんなで家庭菜園を作り、水遣りや草毟りに精を出したのを思い出した。
クルィーロが【操水】で散水してくれたが、力なき民だけなら、桶に水を汲んで柄杓で一杯ずつ撒かねばならず、大変な重労働になっただろう。
「ラキュスは、塩湖です。湖底が一部でも露出すれば、そこに溜まった塩分が風に飛ばされ、内陸部まで塩害に晒されます」
「あッ!」
アミエーラが住んでいたリストヴァー自治区のバラック地帯は低地で、塩害が酷い。井戸水は塩気が強く、一部はクブルム山脈の銅山から漏れた鉱毒にも汚染されていた。
湖岸からシーニー緑地の手前までは、塩気の強い不毛の地だ。
山や緑地から採った土をプランターに詰め、野菜の栽培を試みる者も居たが、結果は捗々しくなかった。
小中学校は盛り土を締め固めた上に建てられ、校庭の木々はちゃんと育っていたが、それ以外に木が生えている場所はなかった。
「塩害が進んで木々や草が枯れ、大地の保水力が低下すれば、雨で地表の土砂が流され、湖底が埋め立てられて悪循環に陥ります。塩害による食糧難は、戦争当事国どころか、湖南地方や湖東地方だけにも留まりません」
思いもよらない広範囲に悪影響が及ぶ。
呪医の厳しい顔に事態の深刻さを知り、アミエーラは自分の肩を抱いた。寒くないのに震えが止まらない。
「遠く離れた湖北地方の七王国にも、影響が及ぶでしょう。封印の地ムルティフローラは、かなり内陸に位置していますが、渇水の影響がどこまで及ぶか、計り知れません」
万が一、ムルティフローラ王国も甚大な塩害を蒙り、三界の魔物の封印が解けてしまったら、その災いは旱魃の龍とは比べ物にならないだろう。
……湖北地方は全部魔法の国だし、そうなる前に何か対策してくれるわよね?
湖北七王国は、他国に対して不干渉を貫く。
三界の魔物の封印を維持する為に同盟を結び、ムルティフローラ王国の防衛には一致団結するが、遠く離れた湖南地方の紛争に介入することはない。
現に半世紀の内乱中も沈黙を守っていた。
湖の民の呪医が、机上のタブレット端末に視線を落とす。
「シェラタン当主は、すべての民がひとしく平和の裡に暮らせるなら、政体は問わないとおっしゃっていました」
……あれっ? 呪医、いつの間にそんな偉い人の話を聞いたの?
話の腰を折るのが憚られ、アミエーラは聞けなかった。
ファーキルは気にせず質問する。
「政体は問わないって、ホントに何でもいいんですか?」
「はい。密かに魔哮砲の兵器化を研究していたクリペウス政権を倒して、別の政権が民主主義の体制を維持してもいいし、ラクリマリス王国に併合されて、王家の統治下に入っても構わないそうです」
「えっ? あ、あの、ラキュス・ネーニア家は……?」
今度は、ファーキルとアミエーラの声が揃った。
呪医セプテントリオーが端末から顔を上げ、静かに言う。
「シェラタン当主は、ラキュス・ネーニア家が再び権力の座に就くことには反対だそうです。ウヌク・エルハイア将軍がネミュス解放軍の行いを黙認していることにも、快く思っていらっしゃいません」
まるで、直接会って話してきたかのような口振りだ。
それより気になることがあり過ぎて、アミエーラはどれから聞こうか迷った。
ファーキルが声を裏返らせて聞く。
「あ、あのっ、将軍が黙認って、将軍がネミュス解放軍を作って命令したんじゃないんですか?」
「私も詳しくは知りませんが、恐らくそうでしょう。自分の名の許に蛮行が行われるのを黙認しているなら、追認を与えたにも等しい……将軍自身がどこで何をしているのかは知りませんが、同罪です」
呪医の激しい言葉にファーキルが硬い表情で頷いた。
この少年の発案で、難民のアンケートが行われ、彼自身も集計作業を頑張った。アミエーラも、集計を手伝ったアルキオーネたちから色々聞かされていたので、心に暗い影が落ちる。
憤りが口を突いて出る。
「お祈りってどこの神殿でもいいんじゃないんですか? どうして当主は今の政権に反対しないんですか? 当主って将軍より偉い人なんですよね? どうして、クーデターをやめさせないんですか? 止めないなら、当主だって同罪じゃありませんか!」
シェラタン当主がどこで祈っているのか知らないが、戦争が終わって難民として国外に流出した人々が元の場所に戻って、神殿を再建すれば、その方が当主一人で祈るより早く水位が回復する筈だ。
呪医セプテントリオーが、首から提げた【青き片翼】学派の徽章を握り、数度、深く息をして言った。
「ラキュス・ネーニア家の中でも色々あるようです。現当主のシェラタン様は、三百歳にも満たず、長命人種としては若い女性です。百戦錬磨の魔法戦士で遙かに年配のウヌク・エルハイア将軍やアル・ジャディ将軍に対して抑えが利かないのでしょう」
「えっ? それって、湖の民が、戦争やめて欲しいシェラタン当主と、神政復古したいウヌク・エルハイア将軍と、現状維持のアル・ジャディ将軍に割れてるってコトですか?」
ファーキルが目を丸くする。
「そうです。民衆にその自覚があるのか定かではありませんが、現況、そうなっていると言わざるを得ません」
「それに加えて、陸の民のフラクシヌス教徒と、自治区内外のキルクルス教徒も居て、アーテルと戦争中であるにも関わらず、ネモラリス人は一枚岩ではありません」
ピアニストのスニェーグが、細く長い指を一本ずつ立ててネモラリス共和国内の派閥を数え上げた。
対アーテルだけを見ても、兵を国土防衛に専念させ、アーテル本土に出撃させたくないクリペウス政権の多数派と、現政権を倒し、魔哮砲を処分してアーテルとの決戦を目指すネミュス解放軍、報復の為なら何でも行う武闘派ゲリラのネモラリス憂撃隊、成す術もなく巻き込まれて逃げるしかない国民、そして、アーテルに通じてネモラリス共和国内でテロを行う星の標に分かれてしまった。
戦争が長引けば、水位低下が進行し、ラキュス湖の畔に住まうすべての命が脅かされる。
ファーキルがノートパソコンを操作し、画面を「ラクリマリス軍、腥風樹の駆除完了」の記事に替えた。
「だから、安全宣言を出したんですか? 湖東地方の内陸部の人が聖地巡礼しやすいように」
「それもあるでしょうね。少し前に、湖東地方のディケアで、内戦が終結したのをご存知ですか?」
ファーキルが、呪医の問いに頷く。
アミエーラは知らなかったが、誰かが言っていたような気がして、微かに顎を引いて続きを促す。
「バルバツム連邦の支援を受けたキルクルス教徒側が勝ち、フラクシヌス教徒は狭い自治区に押し込められるか、難民として周辺国に流出して、ディケアの国内にあった神殿は、大部分が破壊されました」
対岸のリャビーナ市民であるスニェーグが、タブレット端末のグラフを指差す。
「ディケアの影響でも、水位の低下が起きました」
「あっ……」
しばらく横這いが続いた後、数年前にじわりと下がり、去年は明らかに落ちていた。
呪医セプテントリオーが、元キルクルス教徒のアミエーラの目を見て言う。
「力なき民の方々が、キルクルス教を信仰するのは構いません。しかし、このようにフラクシヌス教を排除しては、自分たちの首を絞めることになるのです」
「でも、星の標みたいに、自分たちの信仰に凝り固まった人たちって、聞く耳持ちませんよ?」
ファーキルが苦しげに言葉を吐き出した。
「でも、ラクエウス先生や、クフシーンカ店長、ソルニャーク隊長たちみたいに、フラクシヌス教の信仰を否定しない人たちだって居ます。ずっと昔みたいにみんなで仲良くできれば……」
それができないから、戦争が起こり、停戦の糸口さえ見出せないのだ。
アミエーラはその先の言葉を見失い、口を閉ざした。
☆ウヌク・エルハイア将軍に逆らって殺された説……「829.二人の行く道」参照
☆ラキュス湖の水位を維持する為に力を尽くし……「684.ラキュスの核」参照
☆ラキュス湖の水位/この地方に暮らす人々の祈りによって保たれています……「534.女神のご加護」「684.ラキュスの核」「821.ラキュスの水」、三界の魔物との戦いでの水位低下「536.無防備な背中」参照
☆折れ線グラフ……「821.ラキュスの水」参照
☆アミエーラさん、王都の神殿にお参りしてました……「541.女神への祈り」~「543.縁を願う祈り」参照
☆ラキュスの核とも言える女神の涙……「684.ラキュスの核」参照
☆ランテルナ島の拠点にみんなで家庭菜園を作り……「345.菜園を作ろう」参照
☆バラック地帯は低地で、塩害が酷かった……「019.壁越しの対話」「026.三十年の不満」「031.自治区民の朝」「046.人心が荒れる」参照
☆井戸水は塩気が強く……「035.隠れ一神教徒」「063.質問と諍いと」「213.老婦人の誤算」「225.教えるべき事」参照
☆山や緑地から採った土をプランターに詰め、野菜の栽培を試みる者……「027.みのりの計画」「031.自治区民の朝」「046.人心が荒れる」参照
☆校庭の木々はちゃんと育っていた……「101.赤い花の並木」参照
☆シェラタン当主は、すべての民がひとしく平和の裡に暮らせるなら、政体は問わない……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照
☆この少年の発案で、難民のアンケート……「653.難民から聞く」「667.防衛線の構築」「674.大規模な調査」~「678.終戦の要件は」「692.手に渡る情報」「693.各勢力の情報」「702.異国での再会」参照
☆彼自身も集計作業を頑張った……「729.休むヒマなし」「730.手伝いの手配」「767.急増する難民」参照
☆湖東地方のディケアで、内戦が終結……「696.情報を集める」「721.リャビーナ市」「727.ディケアの港」「728.空港での決心」参照




