872.流れを感じる
「遅くなってすみません」
ノックに続いて呪医セプテントリオーが入ってきた。
「少し休んでから、続きをしましょう」
スニェーグが扉脇のワゴンに移動する。
アミエーラも、カップとティーポットを持ってワゴンの傍へ行く。
ピアニストのスニェーグは、中段の水差しから【操水】の術で水を起ち上げ、ティーポットを洗った。アミエーラが新しい茶葉を入れる間に、スニェーグは水の汚れと古い茶葉を下段の屑籠に入れ、キレイになった水を沸かす。
まだ、呪文全体はわからないが、単語は辛うじて幾つか聞き取れ、アミエーラはこっそり溜め息を吐いた。
……ちゃんとした魔法使いになるのって、思ってたより大変だったのね。
スニェーグは、あっという間に三人分のお茶を用意してくれた。
見ている分には便利で結構だが、同じことができるようになるまで、どれだけの修行が要るのか。
……そう言えば、クルィーロさんって、子供の頃は魔法の塾をサボってたって言ってたわね。
魔力を持っているからと言って、家族の中で一人だけ修行させられるのは、子供心に理不尽な気がしたのではないか。幼い日の彼の気持ちを想像する。
……呪文さえ憶えれば、すぐ使えるようになるんじゃなかったのね。
何となく三人で戸口に立ったままお茶を飲む。
フラクシヌス教徒のみんなは、ランテルナ島の拠点で呪医セプテントリオーから呪歌【癒しの風】を教わっていた。
薬師アウェッラーナは元々知っていたが、クルィーロは知らなかった。
歌詞のような呪文は簡単な単語ばかりだが、似た言い回しが繰り返し出てきて全体は長く、憶えるのは難しい。
力なき民たちも、【魔力の水晶】を使って頑張っていた。
使ったのは、「作用力」と言う「魔力を使って術の効果を顕現させる能力」を補う高品質なものだ。単に魔力を蓄えるだけでなく、作用力を補うものを使えば、力なき民でも様々な術が使える。
ピナティフィダとアマナ、ファーキルは、正しい発音で間違いなく呪文を唱え、【癒しの風】を使えるようになっていた。
レノ店長とエランティス、ロークは、呪文はどうにか憶えられたが、アミエーラが知る限り、発音が覚束なかった。
それでも、【魔力の水晶】を握って共に歌えば、ピナティフィダたちの術の効力を増幅できる。
……クルィーロさんってできるようになってたっけ?
身を守る【不可視の盾】は、ロークたちと一緒に拠点の庭でずぶ濡れにされながら、熱心に練習していた。
キルクルス教徒の四人は、魔法の練習とは距離を置いていた為、どうだったかわからない。
アミエーラは、どの呪歌もまだ、歌詞がうろ覚えだ。
飲み終えたカップをワゴンに戻し、練習を再開する。
「フィアールカさんの【跳躍】で移動した時、身体が浮き上がるような感じがしたのを覚えていますか?」
「はい。一瞬、ふわっと……」
呪医は満足そうに頷いた。
「それが、【跳躍】の術の魔力が身体に巡った感覚です。術によって異なりますが、あれはわかりやすいですね」
「そう……なんですか?」
そう言われても、どうすれば、あんな風に人を一瞬で遠くまで運べるのか、ピンとこない。
呪医セプテントリオーが、アミエーラの左腕に視線を注いだ。何か付いているのかと見たが、特に変わったところはない。
「では、レサルーブの森の研究所で、骨折を治した時のことはどうですか?」
「あぁ……あれも魔法だから、そうなんですね」
身体の芯があたたかくなり、奥から湧き上がる泉のように「輝く何か」が溢れる感覚。光が細く収斂して糸のように伸びる。それに続いて、腕にできた痛みの芯が糸玉を解くように小さくなる。ふたつの糸が縒り合わさり、見えない針で、折れた骨の綻びを接ぎ合わされたように思えた。
転寝で見た夢に似た現実味のない感覚で、言葉に置き換えようとすれば、するりと記憶からこぼれてしまう。
もどかしさを堪えてどうにか言うと、湖の民の呪医は頷いた。
「あれは、【骨繕う糸】と言うと言う呪文で、湖南語に訳すと“青き風 片翼に起き 舞い上がれ 生の疾風が骨繕う糸紡ぎ 無限の針に水脈の糸 通し繕え 毀つ骨の節は節 支えは支え 腱は腱 全き骨 ここに癒ゆ”と言う意味です」
「ホントに感じた通りだったんですね」
呪文の意味など全く知らなかったが、確かにそう感じた。
呪医の魔力と患者の生命力を縒り合わせた糸で、身の内で砕けた骨を縫い合わせる術だ。
「この【骨繕う糸】には細かい操作が必要なので、かなり修行しなければなりませんが、【癒しの風】は歌声に魔力を乗せられさえすれば、発動します」
「歌に……魔力を……」
その方法がわからないから困っているのだが、音楽家のスニェーグとオラトリックスだけでなく、呪医セプテントリオーも教えてくれない。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て……」
呪医セプテントリオーが、力ある言葉で朗々と歌う。
ふわりとやさしい風が吹いたような気がしたが、髪やカーテンは全く動かない。
……これも、魔力の流れなのね。
呪歌の名称【癒しの風】に改めて思い到る。
別にどこも怪我をしていないが、この心地よい風にいつまでも身を委ねていたくなった。
「感覚的なものなので、言葉で説明するのが難しいのですが、こんな感じです」
「自転車の乗り方のように、できてしまえば、どうしてこんな簡単なことができなかったのか、拍子抜けするくらい易しいんですけどね。コツを掴むまでがなかなか」
呪医セプテントリオーと白髪の魔法使いスニェーグが申し訳なさそうに言う。
リストヴァー自治区では、自転車はとても高価な乗り物だった。
アミエーラは、自転車に触ったこともないが、彼らの言いたいことは伝わった。
「いっぱい練習すれば、ふっとできるようになる瞬間が来るんですね」
「そうです。今度は手を繋いで唱えましょう。旋律よりも、魔力の流れに気を付けて、聴くことよりも、感じることに意識を向けて下さい」
差し出された呪医の手には【魔力の水晶】が乗っていた。【水晶】越しに針子の手をそっと重ねる。細い指を握った湖の民の手はあたたかく、髪の色や寿命が違っても、同じ生きた人間なのだと改めて感じた。
呪医セプテントリオーが軽く息を吸い、童歌のような独特の節を付けて力ある言葉を詠じる。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を
泣かないでね この痛みすぐ癒す 今から心こめ癒すから
命 繕って 苦しみ去って 元気になった 見て ほら」
先程よりゆっくり唱えてくれたので、アミエーラにもひとつひとつの言葉がはっきり聞き取れた。
目を閉じて、この世の物を動かさないゆるやかな風に身を委ねる。
「傷ついても この痛み平気なの 言葉に力乗せ癒すから
命 補って 痛みは去って 元に戻った 元気 ほら
痣と火傷 この痛みすぐ消える 魔力を注いで癒すから
体 繕って 痛みを拭い 元に戻った 見て ほら」
どこから吹いてくるのか。
術者である呪医から来るようでいて、アミエーラの身体の奥から吹き上がるようでもあり、繋いだ手の内にある【魔力の水晶】から流れ込むようでもあった。
風の源を辿ろうとしたが、四方八方から吹き寄せる風に全身を包まれているような気がして、追えば追う程、見失ってしまう。
……一緒に歌えばわかるかも。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て……」
握った手から青白い光が奔流となってアミエーラの内を駆け巡った。目を閉じているにも関わらず、眩しい。
……でも、何かわかりそう。
「……翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を」
針穴になかなか糸が通らないようなもどかしさの中で、呪歌が終わってしまった。
「どうでしたか?」
「もう少しで何かわかりそうな気がしました。でも、おっしゃる通り、掴みどころがなくて、追い掛ければ追い掛ける程わからなくなって……」
「そうですか。もう少しのようですね。ですが、今日はここまでにしておきましょう」
「どうしてですか?」
「魔法を使うのは、アミエーラさんが思っている以上に負担が大きい作業です。慣れない内は無理せず、しっかり休養を取って下さい」
もう一度、同じように手を繋いで歌えば、今度こそ風の源を突き止められそうな気がする。
やる気に水を差され、スニェーグに何とか言ってもらえないかと視線を送ったが、白髪の魔法使いは静かに頷くばかりだった。
☆レノ店長たちは力なき民だが、【魔除け】などの呪符を使う為、薬師アウェッラーナから呪文を教わっていた……「292.術を教える者」参照
☆クルィーロさんって、子供の頃は魔法の塾をサボってた……「029.妹の救出作戦」「139.魔法の使い方」「140.歌と舞の魔法」「337.使用者の適性」参照
☆呪医セプテントリオーから呪歌【癒しの風】を教わっていた……呪文の全文「348.詩の募集開始」参照
☆「作用力」と言う魔力を使って術の効果を顕現させる能力……「070.宵闇に一悶着」「131.知らぬも同然」「139.魔法の使い方」参照
☆ピナティフィダとアマナ、ファーキルは、正しい発音で間違いなく呪文を唱え、【癒しの風】を使える……「741.双方の警戒心」参照
☆レサルーブの森の研究所で、骨折を治した時……「194.研究所で再会」参照




