871.魔法の修行中
ピアノが主旋律を奏で、少女たちの歌声がそれを追う。
「ゆるやかな水の条
青琩の光 水脈を拓き 砂に新しい湖が生まれる……」
針子のアミエーラとアルキオーネたちの“平和の花束”は、みんな元キルクルス教徒だ。正式に改宗した訳ではないが、少なくともアミエーラは、フラクシヌス教の神話を歌うことに抵抗がなくなっていた。
……慣れって凄いわね。
以前は、自分のような者が歌ってもいいのか、迷いがあった。これまで生きてきた日々を全てなかったことにするような気がして、苦しかった。
今は、この曲を「普通の歌」として堂々と歌える。
ここにきてから、ラクエウス議員にラキュス・ラクリマリス交響楽団時代の話を聞いたことも大きいだろう。
「涙の湖に沈む乾きの龍 樫が巌に茂る……」
……この歌はずっと昔からあって、誰が歌ったって、楽譜の通りに歌えば、同じ歌なのよ。
五人の声が一条の糸になり、ひとつの歌を織り上げる。
新年にパテンス市のフラクシヌス神殿で歌った時もそうだ。
人種、国籍、信仰、年齢、性別、職業、魔力の有無……何もかも違う人たちが、声を合わせ、楽器を奏でてひとつの歌を作り上げた。
歌い手の属性に関係なく、一枚の楽譜に基づいて正しく音律を辿れば、誰の声、どんな楽器でも、その曲になる。
ラクエウス議員の竪琴もスニェーグのピアノも、奏でる音色が異なるだけで、誰が聞いても同じ曲だと認識する。
「……悲しい誓いと涸れ果てぬ涙
水を湛える棺
これから共に護る ひとつの花 道が開ける朝
乾きを封じ込む鎖となって
共に 咲かせよう ひとつのこの花を」
アミエーラは何かがわかりそうな気がしたが、その「何か」が何なのか、手掛かりがするりと意識からこぼれ落ちた。
「お疲れさまでしたー」
「スニェーグ先生、お疲れさまでした」
「アミエーラちゃん、続き頑張ってね」
「はい、皆さんも」
平和の花束の四人が、口々に挨拶して別室に移動する。今度はラクエウス議員とオラトリックスの指導で、別の歌の練習だ。
アミエーラは、ここに残って呪歌の練習をする。
冬の間に難民キャンプでは、科学の医療者の固定配置が進んだ。
ファーキルが、動画の広告収入を全てマリャーナに渡し、彼女が役員を務める商社に薬を仕入れてもらった。
オラトリックスたちが、広い範囲を守る呪歌【道守り】や軽い怪我を治す呪歌【癒しの風】を広めたこともあり、数少ない呪医たちの負担が減った。
湖の民の呪医セプテントリオーは、春になってからは週に二日、休みが取れるようになり、かなり顔色がよくなってきた。
今日は休みだが、アミエーラの練習に付き合ってくれると言う。
……早いとこ、歌がちゃんとした魔法になるように、頑張らなくちゃ。
呪医の貴重な休日を潰してしまう申し訳なさが、アミエーラを突き動かした。
「呪医はまだですが、そろそろ始めましょうか」
二人掛けの小卓で、喉にやさしい香草茶を飲み終えると、ピアノの前に座ったスニェーグに声を掛けられた。
「はい。お願いします」
カップとティーポットを端に寄せ、楽譜を手に取る。
「アミエーラさんは、音律を辿るのは上手いですし、力ある言葉の発音も飲み込みが早いので、このふたつはもう大丈夫です」
「ありがとうございます。でも、歌に魔力を乗せる感覚が、まだ全然わからなくて……」
「誰でも最初はそうですよ。私たちは、物心つくかつかないかくらいから、躾の一環として魔力の制御を教わりますが、【操水】など初歩的な術をひとつでもきちんと使えるようになるのは、早い子でも七つか八つ頃なんですよ」
「えっ? そうなんですか?」
魔力の制御を身に着けるのが、勉強や修行ではなく「躾」扱いなのが意外だ。
「焦らず、まずは魔力の流れを掴めるようになりましょう」
「はい。頑張ります」
具体的に何をどう頑張ればいいのかさえわからないが、やるしかない。
ランテルナ島の地下街チェルノクニージニクは、どちらを向いても力ある言葉の呪文や呪印が刻まれていたが、あの場所に魔力が行き渡っていたことにも全く気付かなかった。
針子のアミエーラは、ランテルナ島の地下街にある魔法の道具屋“郭公の巣”でアルバイトをした時のことを思い出した。
クロエーニィエ店長は、服や建物に何かの術が組込まれていれば、呪文や呪符を見なくても、それとわかると言っていた。
その魔力の循環効率を如何に上げるかが、彼ら【編む葦切】学派など魔法使いの職人が腕を競うところらしい。施す術は同じでも、選んだ素材、呪文や呪印の配置の僅かな違いで、効力の強さや必要な魔力が変わると教わった。
アミエーラは最近、歌の練習がない時は服に呪文を刺繍している。まだ、ボランティアの職人の指示通りに刺すだけで精一杯。素材と呪文や呪印の関係がどうなっているのか、理解しようと思う余裕さえない。
スニェーグは、ピアノの前に座ったまま【癒しの風】の力ある言葉の発音を教えてくれる。力ある言葉は、自然言語とは全く異なる魔力の制御符号だ。
アミエーラは、慣れない発音に四苦八苦して、スニェーグの後に続いて呪文の単語をひとつずつ練習する。
レノ店長たちは力なき民だが、【魔除け】などの呪符を使う為、薬師アウェッラーナから呪文を教わっていた。
呪符には、魔力とその流れが組んであるので、呪文の発音が多少あやふやでも、きちんと術が効果を発揮する。
ファーキルとロークの手袋も、呪符と似たものらしい。
魔力は【水晶】などで外部供給が必要だが、流れを組む仕掛けがあるので、力なき民の発音があやふやな詠唱でも、何とかなっていた。
☆ラキュス・ラクリマリス交響楽団時代……「214.老いた姉と弟」「220.追憶の琴の音」「295.潜伏する議員」参照
☆この歌はずっと昔からあって……「508.夏至祭の里謡」、歌詞全文「531.その歌を心に」参照
☆新年にパテンス市のフラクシヌス神殿で歌った時……「813.新しい年の光」参照
☆冬の間に難民キャンプでは、科学の医療者の固定配置が進んだ……「858.正しい教えを」「863.武器を手放す」参照
☆オラトリックスたちが、広い範囲を守る呪歌【道守り】や軽い怪我を治す呪歌【癒しの風】を広めた……「804.歌う心の準備」「805.巡回する薬師」参照
☆物心つくかつかないかくらいから、躾の一環として魔力の制御を教わります……「147.霊性の鳩の本」参照
☆魔法の道具屋“郭公の巣”でアルバイト……「521.エージャ侵攻」「522.魔法で作る物」参照
☆魔力の循環効率を如何に上げるか……「454.力の循環効率」「446.職人とマント」参照
☆地下街チェルノクニージニクは、どちらを向いても力ある言葉の呪文や呪印が刻まれていた……「174.島巡る地下街」「445.予期せぬ訪問」参照
☆力ある言葉は、自然言語とは全く異なる魔力の制御符号……「140.歌と舞の魔法」参照




