0089.夜に動く暗闇◇
「おう。交代だ。起きてくんな」
いつの間にか微睡んだレノは、年配のテロリスト……メドヴェージの声で瞼を上げた。
肩に少年兵モーフのぬくもりを感じる。そのことに、嫌悪感を抱かない自分に驚いた。
テロリストの少年兵モーフは先に目を覚まし、しっかりした動作で起き上る。
レノが、陸の民の少年ロークに毛布を渡して場所を代わる。ロークはメドヴェージとマフラーも共有し、ぴったりと身を寄せ合って毛布に包まった。
クルィーロが小石に点した【灯】は、見張りの足下に置いてある。
高い位置に置くと遠くからでもよく見える。よくない人間を呼び寄せるといけないので、なるべく目立たないようにしてあった。
瓦礫の隙間から、淡い光が漏れる。
瓦礫で囲んだ寝床の外で雑妖が蠢く。発生したばかりで希薄なモノは、【灯】の仄かな光すら恐れて近付かない。
少し存在が濃密なモノも、瓦礫で囲んだ区画の中へは入らない。
クルィーロと薬師アウェッラーナが、寝る前に掛けてくれた【簡易結界】がみんなを守るからだ。
レノたちが警戒する対象は、雑妖ではない。
人間だ。
……何か、ヘンな感じだよな。テロリストとは、こうやって協力してるのに?
街を焼き、自宅兼店舗を奪ったのはこのテロリストたちだ。
父が亡くなったのは、空襲のせいだと言えなくもないが、あのテロがなければ、あの時、あの場所には居なかった。
母の行方と安否は、全くわからない。
寒さで眠気が吹き飛び、様々な思いがレノの胸に湧き上がる。
ほんの数日で、世界が変わってしまった。
先週までは、パン生地の捏ね方や発酵時間の見極めの難しさが、レノの悩みの種だった。
今は、廃墟の中でテロリストと肩を並べ、暴漢を警戒する。
どこにもパンの焼ける香ばしい匂いはない。
いつまでも続くと思った普通の暮らしが、こんなにも脆いものだとは思わなかった。あまりにも現実感がなく、この状況こそが、悪い夢のような気がしてくる。
身に突き刺さる寒さが、これは紛れもない現実だ、と教えた。
ピナに手袋、ティスにマフラーを借りたが、調理服とエプロンだけでは、寒さが堪えた。
日中は日の当たる所に居れば、そうでもなかった。何かすれば身体も温まるが、今はここで立って見張りをしなければならない。
肩をさすり、小さく足踏みして暖を取る。
地を這う雑妖を視ると気が滅入ってしまう。
レノは視線を上げた。
天に満ちる星々は、何も変わらない。
星明かりの下を薄い雲が流れて行く。
いつまでも、ここでこうしている訳にはゆかない。
ラジオの放送があることは、ネモラリス共和国内にも、まだ、無事な地域があることを意味した。
昼食後の話し合いで、明日の朝食後にラジオを聞いてから、行き先を決めることになった。
移動先には、隣のマスリーナ市の市街地と港を経由する。
クルィーロの母親と、アウェッラーナの家族を探すのだ。
……この辺には、あんまりないみたいだけど、昔の防空壕とか、地下室とかで生き残った人も居そうだし。
あの暴漢たちも、そんな場所で生き延びたのだろう。
力なき民が、夜間に出歩くとは思えない。
レノは、児童公園の一夜を思い出して身震いした。
当面の敵は、力ある民の暴漢か、【簡易結界】では防ぎきれない魔物だ。
……あ、そっか。共通の敵が居るから、テロリストとも協力できるんだ。
いつまで、彼らと共に行動するのか。
「あっ」
少年兵モーフが、微かに声を上げた。
振り向くと、【灯】が東の彼方を凝視する横顔をぼんやり照らすのが見えた。レノはその視線を辿った。
不定形の黒い塊が揺れ動く。
人間よりも、遥かに大きい。
ほんの数十歩先で、トラック数台分の大きさの何かが、瓦礫の中をゆっくり移動した。
口の中がカラカラに乾き、声も出せない。
魅入られたように、視線が釘付けになる。
モーフも同じなのか身が小刻みに震える。
下手に声を出してアレに気付かれるのは、却って危険かもしれない。その考えが正しいのか、ただの言い訳なのか。レノ自身にもわからなかった。
寒さではなく、恐怖に震えながら、黒い何かを見送る。
ラキュス湖の方角から、西の台地、ゾーラタ区の方へ向かうようだ。
星明かりにうっすら照らされた瓦礫の中、黒い塊の部分だけが、抉り取られたような暗闇だ。
何も見えない。
何も視えない。
雑妖が闇の塊に群がる。塊に触れた途端、泥沼に呑まれるように消えてゆく。
……魔物……なのか?
闇の塊は、レノたちに見向きもせず、西へ移動する。
足音はない。
静寂の中、闇の塊が波に揺れるクラゲのように漂った。穴のような闇に次々と雑妖が跳び付いて呑まれる。
どれ程の時間が経ったのか。
気が付くと、塊も雑妖も姿がなかった。
レノは大きく息を吐き出した。膝から力が抜け、倒れそうになる。何とか踏み留まり、顔を上げて西を見た。
何も居ない。
気のせいだったのかと思うくらい、静かだ。闇に浮かんで視える筈だが、雑妖の姿もない。
足下の【灯】はまだ明るい。
レノは手を動かしてみた。恐怖に強張り、寒さにかじかんで感覚がない。
手袋をしたまま息を吹きかける。温かくはないが、現実感は戻って来た。
「……な……なんだ……今の……?」
声は震え、かすれてしまったが、モーフには届いた。少年兵が首だけをこちらに向ける。
「わかんねぇ……」
その囁きが耳に痛い程の静寂だ。
よからぬモノに聞かれはしなかったかと、西の闇に目を凝らす。
たっぷり時間を掛けて確認し、息を吐き出した。
「兄ちゃん、時間は?」
モーフに聞かれ、腕時計に目を遣る。暗くて見えない。
しゃがんで文字盤を【灯】にかざす。
もう交代の時間を過ぎていた。振り向くと、メドヴェージとロークも、起きて西の闇を見詰める。
震えていても仕方がない。
レノは気を取り直し、ソルニャーク隊長とピナを起こした。
少年兵モーフが、場所を代わろうとする二人に手振りで断り、見張りの位置に連れて行く。闇の塊が去った方向を指差し、小声で説明した。
ソルニャーク隊長は、硬い表情で報告に耳を傾ける。
レノも改めて西を見た。闇が続くだけで、人家の灯などはひとつもない。足下の【灯】が眩しいくらいだ。
「それは、ここの【灯】にも、我々の気配にも反応しなかったのだな?」
「はい」
モーフが顎を引く。
ソルニャーク隊長は、表情を和らげ、少年兵の肩を叩いた。
「報告ご苦労。ゆっくり休め」
隊長に背中を押され、レノとモーフは、寝床の入口で背中合わせに横たわった。
二人で一枚の毛布に包まったが、目が冴えて眠れそうもない。
レノはピナを見た。
さっき返した手袋をつけた後は、ずっと西を警戒する。この位置からは、妹の表情は窺い知れない。
……俺も起きて、ピナの傍についてようかな? どうせ眠くないし。
身を起こしかけたが、すぐ横になった。
レノが出て行けば、モーフが凍えてしまう。
ピナは、コートとマフラーと手袋を身に着け、隣にはソルニャーク隊長も居る。
……どう考えても、俺より強いもんなぁ。
再びあの闇が訪れ、襲ってきたとして、レノでは妹たちを守れる気がしない。妹たちを連れて無事に逃げ切る自信もなかった。
……力なき民……か。
レノは固く目を閉じた。
眠れぬまでも、身体を休めて明日に備えなければならない。
闇への恐怖と妹への心配。
不安にどっぷり浸かりつつも、レノはいつの間にか、疲れに引きずられるように眠りに落ちた。
☆父が亡くなったのは、空襲のせいだと言えなくもない……「0061.仲間内の縛鎖」「0071.夜に属すモノ」参照
☆ラジオの放送がある……「0078.ラジオの報道」参照
☆児童公園の一夜……「0028.運河沿いの道」「0047.公園での一夜」参照
★第四章 あらすじ
空襲後の夜、運河の畔に身を寄せた市民らは、雑妖の群に襲われて廃墟の街を逃げ惑う。
一夜明け、河口に辿り着いたのは、魔女の薬師、パン屋の青年と妹二人、魔法使いの工員と妹、男子高校生、そして、テロリストの三人だった。
仕方なく、この十人で行動を共にすることになるが……
※ 登場人物紹介の一行目は呼称。
用語と地名は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。
【思考する梟】などの術の系統の説明は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。
★登場人物紹介
◆湖の民の薬師 アウェッラーナ
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
実家はネーニア島中部の国境付近の街、ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営む。
父と姉、兄、甥姪など、身内で支え合って暮らしている。
ゼルノー市ミエーチ区にあるアガート病院に勤務する薬師。
魔法使い。使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】
呼称のアウェッラーナは「榛」の意。
真名は「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」
◆パン屋の青年 レノ
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。十九歳。濃い茶色の髪の青年。
ネーニア島のゼルノー市スカラー区にあるパン屋「椿屋」の長男。
両親と妹二人の五人家族。パン屋の修行中。
レノは、髪の色と足が速いことからついた呼称。「馴鹿」の意。
◆ピナティフィダ(愛称 ピナ)
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。中学生。二年三組。濃い茶色の髪。
レノの妹、エランティスの姉。しっかりしたお姉さん。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆エランティス(愛称 ティス)
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。小学生。五年二組。濃い茶色の髪。
レノとピナティフィダの妹。アマナの同級生。大人しい性格。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆工員 クルィーロ
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。工場勤務の青年。二十歳。金髪。
パン屋の息子レノの幼馴染で親友。ゼルノー市スカラー区在住。
両親と妹のアマナとの四人家族。
隔世遺伝で、家族の中で一人だけ魔力がある。
魔法使いだが、修行はサボっていた。使える術の系統は、【霊性の鳩】が少しだけ。
機械に興味があるので、ゼルノー市グリャージ区のジョールトイ機械工業の音響機器工場に就職。
呼称のクルィーロは「翼」の意。
◆アマナ
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。クルィーロの妹。金髪。
小学生。五年二組。エランティスの同級生。ゼルノー市スカラー区在住。
生まれた時期に咲いていた花の名を呼称にしている。
◆少年 ローク
力なき陸の民。商業高校の男子生徒。十七歳。ディアファネス家の一人息子。
ゼルノー市セリェブロー区在住。家族とは相容れなくなり、家出する。
祖父たち自治区外の隠れ教徒と、自治区の過激派が結託して、テロを計画していることを知りながら、漫然と放置してしまった。
保身に走り、後悔しがち。
呼称のロークは「角」の意。
◆お針子 アミエーラ
陸の民。キルクルス教徒。十九歳の女性。金髪。青い瞳。仕立屋のお針子。
リストヴァー自治区のバラック地帯在住。
工員の父親と二人暮らし。
呼称のアミエーラは「宿り木」の意。
◆仕立屋の店長
力なき陸の民。キルクルス教徒。一人暮らしの老婆。気前がいい。
リストヴァー自治区の団地地区で、仕立屋を経営している。
アミエーラの祖母の親友。ずっとお互いに助け合ってきた。
◆少年兵 モーフ
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の少年兵。十五~十六歳くらい。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
アミエーラの近所のおばさんの息子。祖母と母、足が不自由な姉とモーフの四人家族。
父は、かなり前に工場の事故で亡くなった。
以前は工場などで下働きをしていた。自分の年齢さえはっきりしない。
貧しい暮らしに嫌気が差し、家出してキルクルス教徒の団体「星の道義勇軍」に入った。
呼称のモーフは「苔」の意。
◆隊長 ソルニャーク
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍・第三小隊の隊長。モーフたちの上官。おっさん。
知識人。冷静な判断力を持つ。
キルクルス教徒だが、狂信はしていない。自爆攻撃には否定的。
陸の民らしい大地と同じ色の髪に、彫の深い精悍な顔立ち。
空を映す湖のような瞳は、強い意志と知性の光を宿している。
呼称のソルニャークは「雑草」の意。
◆元トラック運転手 メドヴェージ
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一兵士。おっさん。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
以前はトラック運転手として、自治区と隣接するゼルノー市グリャージ区の工場を往復していた。
仕事で大怪我をして、ゼルノー市ジェリェーゾ区にある中央市民病院に入院したことがある。
呼称のメドヴェージは「熊」の意。
◆市民病院の呪医
湖の民の男性。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
ゼルノー市立中央市民病院に勤務する唯一の呪医。
【青き片翼】学派の術を修め、主に外科領域の治療を担当。




