860.記された呪文
ラゾールニクがタブレット端末をつつき、針子の二人に声を掛ける。
「二人ともお疲れさん。鎮花茶頼んどいたから、食堂行っといで」
「無理を言って済まなんだ」
ラクエウス議員が心底、申し訳なさそうに頭を下げた。若い娘二人は恐縮し、無理に笑顔を作って「大丈夫です」と言い残して出て行く。
「聖典、しばらく借りるね」
ラゾールニクが扉を閉め、セプテントリオーはサロートカが座っていた席に腰を降ろした。
三脚に支えられた端末の角度は変わらない。
上着の袖に刺繍された呪文と聖典、首から提げた【青き片翼】学派の徽章だけが画面に収まる筈だ。
ファーキル少年の合図に頷き、呪医セプテントリオーは話し始めた。
「こちらは、キルクルス教の聖典です」
「一般信者用ではなく、星道の職人用で、聖典の深い部分、星道記まで載っておるものだ」
斜め前に座ったラクエウス議員が言い添える。議員の傍らには大判の封筒があった。
呪医セプテントリオーは、この場で唯一人のキルクルス教徒の目を見て、聖典を開いた。栞を挟んだページで手を止める。
聖典をラクエウス議員の方……端末のカメラの方へ向けて、一点を指差す。
ラクエウス議員が共通語で書かれた祈りの詞を読み上げた。
一呼吸置いて、湖南語に訳す。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
「力ある民のみなさんは、常識としてご存知だと思いますが、【魔除け】の呪文の共通語訳です。今、ラクエウス先生は、湖南語話者のみなさんにもわかりやすいように翻訳して下さいました」
「この辺りでは毎週の礼拝が、湖南語で行われておりますのでな」
呪医セプテントリオーが、力ある言葉に魔力を乗せ、改めて【魔除け】の呪文をゆっくり唱える。淡い真珠色の光が、術者を中心に波紋のように広がった。半視力の眼には映らない光が、白い室内いっぱいに満ちる。
ここは、アミトスチグマの支援者マリャーナ宅の一室で、元々雑妖一匹居ない。効果を示せない光が、壁に施された同じ呪文と共鳴し、輝きを増した。
同様に次々とページを開いては、呪文の共通語訳を指摘する。
星道記の縫製職人向けのページに辿り着いた。
「この図面は何ですか?」
「司祭の衣の型紙だ」
ラクエウス議員の簡潔な答えに驚いてみせる。
「えっ? しかし、これは……この、刺繍の指示は」
「どうしたと言うのだね?」
「私が今、着ているのと同じ【魔除け】と【耐衝撃】【耐暑】【耐寒】の呪文と呪印ですよ? よろしいのですか? 確か、キルクルス教では魔術はダメなんですよね?」
呪医セプテントリオーは、袖に施された刺繍と型紙を交互に指差した。
誰がどう見ても同じだ。
司祭の衣は布と糸の指示が白一色で、この通りに作れば、遠目には刺繍の存在がわからないだろう。
セプテントリオーがマリャーナに用意してもらった服は、生成りの生地で、術別に糸の色を変えて呪文と呪印を刺してあり、とても華やかでわかりやすかった。
ラクエウス議員が、如何にも困ったと言いたげな声音で言う。
「それを聖職者ではない儂に言われてもな」
「では、これは湖南地方独自のデザインなのですか?」
「何故そう思うのだね?」
「三界の魔物の封印の地に近く、一般の魔物や魔獣も多いからですよ」
……わざとらしく聞こえないように言えているだろうか?
動画の視聴者に聞かせる為の不自然な問答を重ねながら、呪医セプテントリオーは不安になってきた。
ベテラン国会議員のラクエウスは、ラジオの政治番組での公開録音や、議事録に残す為の質疑で慣れているからか、自然に受け応えしているが、セプテントリオーは、慣れないことばかりで、声が硬くなりがちだ。
「魔法の服とて、我々、無原罪の清き力なき民が着たのでは、魔法の効果はなかろう?」
「えぇまぁ、そうですが……」
「どうしたね? 言いたいことがあるなら、はっきり言い給え」
言い淀んでみせるセプテントリオーにラクエウス議員が身を乗り出す。
「そうですか? 申し上げますよ? この辺りの陸の民は、力ある民と力なき民の混血が進んでおりますので、純粋な力なき民は、一人も居ないと言っても過言ではありません。ですから……」
「何だ、そんなことかね。この地にキルクルス教が伝来して二百年余り、無原罪の清き民の信徒同志で婚姻を重ねた家系は多いのだよ」
ラクエウス議員が笑って受け流す。
「しかし、昔、近所に住んでいた陸の民の夫婦は、妻はフラクシヌス教徒でしたが、夫はキルクルス教徒でしたよ?」
「確かに内乱前は、異教徒との婚姻も許されておったが、実際、そんな夫婦は少数派だった。それとも、ご近所さんはみんな異教徒の夫婦だったのかね?」
「いえ、しかし……」
「あなた方、湖の民の長命人種ならばいざ知らず、我々力なき民の常命人種にとって、二百年の積み重ねが何世代になると思っておるのだね?」
呆れ気味の名演技に、一呼吸置いて質問する。
「ラクエウス先生は、雑妖をご覧になられたことがありますか?」
「勿論あるとも。視えなければ危なくて仕方がない」
「そうですよね。このラキュス湖畔の多くの国々では、霊視力を持つ人が圧倒的な多数派で、霊質が視えず、物質しか見えない半視力の人々は、ほんの僅かです」
セプテントリオーは、動画の視聴者に聞かせる為、当たり前のことを説明する。
「大半の国では、一時的に他の人から霊視力を借りる【刮目】などの術を受ける為に、公的扶助があります」
「うむ。半視力の人々は社会的な弱者だからな。救済措置は、我が祖国ネモラリス共和国でも、その前身のラキュス・ラクリマリス共和国の時代から、変わらず続いておるよ」
呪医の言葉を受けて老議員が自然に補足する。
「はい。それは、それ以前のラキュス・ラクリマリス王国の時代からも、数千年来、変わっていません」
「魔術のことはとんとわからんが、治せないものなのかね?」
「はい。“霊質が視えない眼”は、先天的なものなので、どの系統の術でも治療できません。半視力の人たちは、生涯に亘って、霊視力の補助を受けなければ、この地で生き延びるのが非常に困難になります」
「ふむ。そんなこと、ラキュス湖畔に住まう者なら、みんな常識として知っておるよ。視えなければ、この世の肉体を持たぬ雑妖や魔物に襲われてしまうからな」
老議員の声は如何にも、何を今更と言いたげだ。
……名演技だな。
セプテントリオーは感心して続けた。
「力ある民には、半視力が一人も居ません。私たち湖の民は勿論、あなた方、陸の民でも、長命人種と常命人種の区別なく、魔力を持つ者は全て、霊視力を備えています」
「ふむ。それも誰だって知っておるよ。半視力の子は力なき民にしか産まれん」
「つまり、逆に、力なき民であっても、霊視力を持つ人の家系には、将来、隔世遺伝で力ある民の子が産まれる可能性があると言うことなのです」
視聴者に理解が行き渡るよう、たっぷり数秒待って話を続ける。
「ですから、キルクルス教の聖職者にも、それと知らず、魔力をお持ちの方がいらっしゃるかも知れません」
呪医セプテントリオーの話が終わると、ラクエウス議員の節くれだった指が司祭の衣の型紙をなぞった。
一呼吸置いて声を絞り出す。
「まぁ、儂の子は内乱中にみな亡くなったから、儂の家系はこれで終わりだよ。しかし、君の言う通り、隔世遺伝による悲劇は、実際にあちこちで起きておる」
老議員は、封筒から新聞を一ページ取り出し、作業机に広げた。余白の日付と新聞社名を指差す。
「これは湖南経済新聞のアーテル版だ」
約十年前の紙面は茶色く変色していた。経済関連の内容ではないので、扱いはそれ程大きくないが、社会面のトップ記事だ。
星の標 市民広場で魔女を浄化
見出しの下に配置された大きな写真には、群衆が取り巻く中、柱に縛られ生きながら焼かれる女性の姿があった。
ファーキル少年がタブレット端末を操作する。
本文を読みやすいよう、望遠機能を使ったのだろう。
彼女の一人息子が、内乱時代の防空壕跡へ遊びに行き、【魔力の水晶】をみつけた。それがきっかけで、その子に魔力があることが判明。母親が星の標に捕えられ火炙りにされた――と言う趣旨だ。
当時五歳だった一人息子自身がどうなったのか、この記事だけではわからない。
湖南経済新聞社は、両輪の国であるアミトスチグマに本社を置く。
記事の論調は中立で、主観を交えず、「よくある事件」として出来事のみが記されていたが、写真の人々が、広場の中央で燃える炎を見詰める顔は、どれも誇らしげで、喜びに満ちていた。
☆聖典の深い部分、星道記……「554.信仰への疑問」参照
☆隔世遺伝で力ある民の子が産まれる可能性……「431.統計が示す姿」「432.人集めの仕組」「590.プロパガンダ」「812.SNSの反響」「753.生贄か英雄か」参照
※ オルラーン家では、クルィーロだけが力ある民……「139.魔法の使い方」「590.プロパガンダ」
☆隔世遺伝による悲劇……「511.歌詞の続きを」「795.謎の覆面作家」参照
☆よくある事件……「810.魔女を焼く炎」参照




