858.正しい教えを
支援者マリャーナの邸宅は今日も静かだ。
窓からは穏やかな日差しを受けて輝くラキュス湖が見える。アミトスチグマの夏の都は、冬枯れの灰色から芽吹きと花々の色が溢れる春に衣替えしていた。
難民キャンプでは、呪歌【癒しの風】を歌える難民が増えた。軽傷ならこれで充分癒せる。
診療所に最低一人ずつ、難民の中から募った科学の医師、看護師、薬剤師、保健師などの医療者が固定配置になり、薬品類の寄付も増えたおかげで、セプテントリオーたち僅かな呪医の負担がかなり減った。
呪医セプテントリオーは、諜報員ラゾールニクとファーキル少年が、タブレット端末に細身の三脚を取りつけるのを壁際で見守る。
壁に刻まれた何種類もの防禦の呪文や呪印が、天井に点る【灯】の淡い光を受けて陰影を描き、染みひとつない純白の中で控え目に存在を主張していた。
端末のカメラを向けられているのは、何期もの経験を重ねたベテラン国会議員。九十歳を越えるラクエウス議員は、力なき民の常命人種にしては、かなりの高齢だが、木製の椅子に腰掛けた背筋はしゃんと伸びている。椅子の背には竪琴を入れた布袋が掛けてあった。
二人の準備が整った。
呪医セプテントリオーは、そっと一歩退がり、壁に背を預ける。
ラゾールニクが片手を挙げて合図を送ると、老議員は膝から今日の朝刊を取り上げ、一面をカメラに向けて話し始めた。
湖南経済新聞のアミトスチグマ本社版だ。
「ネモラリス共和国リストヴァー自治区選出の国会議員ラクエウスです。半世紀の内乱までは、ラキュス・ラクリマリス交響楽団の竪琴奏者として、ハルパトールと呼ばれておりました。今日は、キルクルス教の正しい信仰について、お話しさせていただきます」
老議員は、張りのある声で自己紹介を終えると、新聞を畳んで膝の上に戻す。録画の時期を示す小道具で、日付を見せるのが目的だ。
公人である彼は、呼称と素性を明かした上で本題に入った。
「若い皆さんには想像もつかんでしょうが、半世紀の内乱以前、分裂前のラキュス・ラクリマリス共和国では、キルクルス教の聖典が正しく解釈され、キルクルス教徒とフラクシヌス教徒はひとつの国の民として、平和に共存しておりました」
「それでは何故、半世紀の内乱が起きて、信仰で国が分かれたんですか?」
打合わせ通り、撮影者のラゾールニクが問い掛けた。
ファーキル少年の肩越しに見える端末の小さな画面で、老議員が口を開く。
「あの時代に突然、信仰の対立が始まったのでもなければ、力なき民のキルクルス教徒が一方的に迫害を受けたのでもありません」
「どう言うことですか?」
ラゾールニクがタイミングよく疑問の声を挟む。
「対立の根は、もっと前の時代、アルトン・ガザ大陸南部での独立戦争にまで遡ります」
「独立戦争……あぁ、歴史の教科書に載ってるアレですね。アルトン・ガザ大陸で、北部の国々からの植民地支配を断ち切る為に起こした戦争。南部の国って割と両輪の国が多かったと思うんですけど、当時のラキュス・ラクリマリス王国とどんな関係が?」
「うむ。ラクリマリス王国に限らず、ラキュス湖南・湖東地方の国々から、植民地側を助けようと、多くの義勇兵が戦いに加わったらしい。当時、既にキルクルス教と民主主義の制度などは、ラキュス湖畔にも伝わっておったが、今のような広がりはなかった」
「独立戦争後に広まったんですか?」
ラゾールニクの問いに、当時はまだ生まれていなかったラクエウス議員が頷く。
当時のことを覚えている長命人種の呪医セプテントリオーは、我知らず白衣の肩をさすった。
……あの頃は、私たちには関係ない、遠い世界の出来事だと思っていたのに。
「左様。アルトン・ガザ大陸の国々が独立を勝ち取り、共に戦った義勇兵は、勝利の喜びと共に民族自決の思想も持ち帰ったのだよ」
「何ですか? 民族自決って?」
「自分たちの民族のことは、自分たちの手で決める。ひとつの民族にひとつの国を……植民地支配から脱却する為の原動力となった思想だ」
見る者の理解を待つ沈黙。
ラゾールニクは、たっぷり三呼吸分待って質問した。
「でも、ラキュス・ラクリマリス王国は、陸の民と湖の民の共同統治で、フラクシヌス教の聖地があるから、逆にどの神様にもそれなりに信者が居ますよね? 岩山のスツラーシ様とか、誓いのクリャートウァ様とか」
「うむ。それだけではないのだよ。当時、神政を担っておった国王は、力なき民の多いアーテル地方の民に寛容で、キルクルス教の信仰も広く認められておった」
ラゾールニクが、わざとらしく聞こえない程度に驚いてみせる。
「えっ? じゃあ、人種も信仰もバラバラのとこに、民族自決の思想が入ってきちゃったんですね?」
「それでただちに諍いが始まった訳ではない。最初に押し寄せたのは、民主化の波だ。湖東地方の国々では多くの血が流れたが、ラキュス・ラクリマリス王国は、無血で共和制に移行した」
「どうしてです? 神政だったら、それこそ厳しく弾圧されそうな気がするんですけど?」
呪医セプテントリオーは、ラゾールニクが発した当然の疑問に固く瞼を閉じた。
……神政だからだ。
フラクシヌス教の信仰が守られ、ラキュス湖の水位が保たれるなら、政体は問わない。寧ろ、当時の国王は、無用の争いによって祈りが途切れ、水位の低下を招くことを恐れたのだろう。
キルクルス教の信仰を容認したのも、同じ理由だ。禁教に指定した結果、腹癒せにフラクシヌス教の神殿を破壊されるのを回避する為に採った慰撫策だ。
所詮、力なき民の祈りは、女神の涙“青琩”に何の力も与えず、ラキュスの水位に影響しない。彼らがどの神を信じようと無関係だからこそ、国王は敢えて寛容な態度を示し、国民の信を得る道を選んだ。
ラクエウス議員が簡潔に答える。
「陸の民のラクリマリス家も、湖の民のラキュス・ネーニア家も、民と争うのではなく、民と共に在ることを選んだのだろう」
「じゃあ、どうして内乱が起こったんですか?」
「ラキュス・ラクリマリス王国の共和制移行後、百年近くの時間を掛けて、民族自決の思想は尖鋭化し、信者団体を支持母体とする政党が乱立した。キルクルス教徒には、アーテル党の支持者が多かった」
「アーテル共和国の現政権、ポデレス大統領の所属政党ですね?」
「うむ。星の標は、元はそのアーテル党から派生した政治団体だった。党内の一派閥に過ぎなかったが、あまりにも過激で排他的な主張を繰り返す為、内乱以前に党籍を剥奪された。一時期、隣のラニスタ共和国に身を寄せておったが、内乱が始まるや、自分たちの主張こそが正しかったのだと勢いを得て戻ってきた」
呪医セプテントリオーは、初めて耳にした話にそっと瞼を上げた。
老議員が愛用の竪琴を抱えて語る。
「それまでは、キルクルス教徒とフラクシヌス教徒が結婚することさえあった」
「えぇッ? そんなコトできるんですか?」
「どちらの聖職者も、当時はそれを咎めることはなかった。だが、共和制百周年を迎える頃には、流血沙汰が日常茶飯事となり、百周年を讃える歌は完成しなかった」
節くれだった指が弦を撫で、最初の数小節を奏でて止まる。
「属性の異なる家族は引き裂かれ、或いは相争い、極一部は、信仰を隠して各地を逃げ惑った。星の標はますます尖鋭化が進み、その思想が世界に飛び火した為、内乱の末期には、大聖堂のあるバンクシア共和国からも、国際テロ組織に指定されるに到ったのだよ」
「今も、解除されてませんよね。確か、本部があるラニスタ共和国と発祥の地のアーテル共和国だけが、存在を認めてたような……?」
「その通りだ。星の標が主張する“魔法使いは絶対的な悪しき者である。故に、根絶やしにせねばならない”などと言うことは、聖典のどこにも記されておらん」
「えっ? そうだったんですか?」
ラゾールニクに限らず、フラクシヌス教徒の多くが意外に思うだろう。
「聖者キルクルス様は、魔術の使用を禁止なさっておらん。魔法使いを根絶やしにせよなどともおっしゃっておらん」
「えぇッ? キルクルス教徒の人も、魔法、使ってもいいんですか?」
ラゾールニクが、動画の視聴者を代弁して、驚きを口にした。
「聖者様が禁じたのは、三界の魔物を生み出した術のような、人の手に余る“悪しき業”だけだ。その証拠に星道の職人や聖職者に与えられる聖典には、【魔除け】など人々を守る魔法が、力なき民にも使える形で記されておる」
「ホントにそんなコト書いてあるんなら、どうして聖職者の人は、それを見せて星の標の人たちを止めないんです?」
ラゾールニクが、誰もが抱く疑問を口にする。
ラクエウス議員は、ひとつ溜め息をこぼして顔を上げた。
「星の標の排他性と、闇の中で針の穴から射す光に縋るような視野狭窄……他のことを考えられない真面目で一途な信仰と、極度に尖鋭化が進んだ思想。このふたつが、星の標に正しい信仰を説いた司祭を何人も葬ってきたのだよ」
「コトバ通じないってコトですか?」
老議員が忌々しげに頷く。
「リストヴァー自治区でも、アーテル共和国でも、今となっては星の標を正せる者など一人も居らんよ。大聖堂でさえ、世俗のバンクシア政府が国際テロ組織に指定するに留め、正式には破門を言い渡しておらんくらいだ」
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「心を強く持って、星の標の思想に染まらぬことだ」
ラクエウス議員が続けて共通語で何か言う。
呪医セプテントリオーには、共通語なのはわかったが、意味まではわからなかった。
ラゾールニクが力ある言葉を唱える。
「それって、“日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る”……【魔除け】の共通語訳ですよね? どうして……?」
「聖典に記されておる祈りの詞だ。嘘だと思うなら、聖典を確めてみるがいい」
ラクエウス議員が、挑むような目で端末を睨み、証言は終わった。
☆対立の根は、もっと前の時代、アルトン・ガザ大陸南部での独立戦争にまで遡ります……「370.時代の空気が」参照
☆何ですか? 民族自決って?……半世紀の内乱中「059.仕立屋の店長」「220.追憶の琴の音」「240.呪医の思い出」、半世紀の内乱前の歴史的経緯「370.時代の空気が」「585.峠道の訪問者」参照
☆ラキュス・ラクリマリス王国は無血で共和制に移行した……「059.仕立屋の店長」「370.時代の空気が」参照
☆呪医セプテントリオー/神政だからだ……「685.分家の端くれ」参照
☆ラキュス湖の水位……仕組み「534.女神のご加護」「542.ふたつの宗教」「821.ラキュスの水」、中心部の様子「684.ラキュスの核」、低下の話「534.女神のご加護」「536.無防備な背中」「585.峠道の訪問者」参照
☆所詮、力なき民の祈りは、女神の涙“青琩”に何の力も与えず、ラキュスの水位に影響しない……「542.ふたつの宗教」「588.掌で踊る手駒」参照
☆キルクルス教徒とフラクシヌス教徒が結婚……「059.仕立屋の店長」「220.追憶の琴の音」「295.潜伏する議員」参照
☆百周年を讃える歌は完成しなかった……「220.追憶の琴の音」「275.みつかった歌」参照
☆聖者キルクルス様は、魔術の使用を禁止なさっておらん。魔法使いを根絶やしにせよなどともおっしゃっておらん……「483.惑わされぬ眼」「557.仕立屋の客人」参照
☆星道の職人や聖職者に与えられる聖典……「554.信仰への疑問」「555.壊れない友情」「582.命懸けの決意」「629.自治区の号外」「744.露骨な階層化」参照
☆星の標に正しい信仰を解いた司祭を何人も葬ってきた……「557.仕立屋の客人」参照




