855.原材料は魔獣
薬師アウェッラーナは、「後で買いに行くから」と必要な呪符のメモをロークに渡し、兄とクロエーニィエ店長と共に獅子屋を出た。兄アビエースは、アウェッラーナと手を繋ぎ、凄い恰好のクロエーニィエ店長の後ろをおっかなびっくりついて行く。
細い通路の奥へ進み、店長が準備中の札をひっくり返し、魔法の道具屋「郭公の巣」の扉を開けた。
「それじゃ、お兄さん、お店番お願いしますね」
「ひぇっ? お、俺は漁師一筋で、店番ったって何をどうすればいいか……」
「お客さん来たら、奥に声掛けてくれるだけでいいですよ」
「えっ? それだけでいいんですか?」
兄が面食らう。
一枚板のどっしりしたカウンターの奥には、年季の入った戸棚と抽斗が並んでいるだけで、売り物が何なのかさえわからない。
クロエーニィエ店長は、二人をカウンターの中に招じ入れた。
「お兄さん、椅子、座っててくれていいですよ」
アウェッラーナが店長と一緒に奥の作業部屋に入ると、兄は情けない顔で二人を見送った。
店長が、カウンターと作業部屋を仕切る扉に楔を噛ませる。
「で、早速で申し訳ないんだけど、やって欲しい作業って言うのは、染料の抽出なの。経験ある?」
「いいえ。素材は何ですか?」
未経験の作業を頼まれ、途端に不安になったが、今更引き返せない。
クロエーニィエ店長は床の麻袋を示した。
「貝殻よ。これを砕いてこっちの瓶の水知樹の樹液と混ぜたら溶けるから、溶液から色素の成分だけ抜いて、このお皿に入れて欲しいの。廃液は別の素材の中間素材になるから、こっちの壺に溜めてちょうだい。どう? できそう?」
貝の袋は体格のいい大人が一人詰まっていそうなくらい膨らんでいた。
……でも、確かに、作業自体は簡単そうね。
「多分、できると思います。クロエーニィエさん、いつもどんな呪文で抽出してるんですか?」
「ちょっと待ってね。メモするから」
「これ、お借りしますね」
小さな革袋と木槌で、白と濃い紫の縞模様の貝殻を少しずつ割っては、広口のガラス瓶に入れる。
水知樹の樹液をガラス棒に少しずつ伝わせて注ぎ入れた。意外に少ない液で反応し、刺激臭に思わず目を細める。注ぐ手を止め、貝殻を追加してガラス棒でそっと掻き混ぜた。
割れた貝殻は、砂糖菓子を水で溶くように角が取れ、厚みが減り、形が完全に消えてなくなる。どろりと濁った液は何とも言えないドブ色だ。
……ホントにここから、染料を取り出せるの?
クロエーニィエがメモ用紙から顔を上げて喜ぶ。
「あ、もうそこまで進めてくれたの。たったあれだけでわかってくれるなんて、流石、薬師さんね」
「い、いえ、そんな……」
過分な褒め言葉と共に渡された呪文は、初めて目にするものだ。これとは別の紙に先程の手順も箇条書きで、わかりやすくまとめてある。
「全然知らない呪文でした。ありがとうございます」
「いいのよ。頼んだの、私なんだから」
クロエーニィエ店長が苦笑して、自分の作業の準備を始める。
アウェッラーナは頭の中で何度も呪文を復唱し、心に刻み込んでから魔力を乗せずに口の中で呟いた。単語の繋がりや抑揚に不自然なところがないかチェックしただけなので、何も起こらない。
貝殻を溶かした液は、貝を追加する度に色が濃くなり、今は青黒い。どことなく夜明け前の空を思わせた。
「何色が採れるんですか?」
「青に近い紫よ。この鱗蜘蛛の糸を染めて刺繍すれば、そこそこ魔力が強い人向けの【鎧】ができるわ」
「えっ? 【鎧】ってそんな素材だったんですか?」
意外な材料に驚く。
クロエーニィエは白銀の糸が巻き付いた棒をポンと叩いて言った。
「糸の素材も染料も、組合せは色々ね。刺繍糸が一種類じゃなきゃいけないって決まりはないし、身に着ける人の魔力や学派に合わせて仕立てるものなのよ」
「そうなんですか」
「この冬は、鱗蜘蛛の糸がいっぱい手に入ったから、助かっちゃう」
……存在の核を壊さないように手加減して鱗蜘蛛をやっつけるなんて。プロの駆除業者さんってホントに凄いのね。
強力な魔法で遠距離から存在の核を破壊すれば、一撃でこの世の肉体を灰に変え、安全に幽界に送り返せるが、それでは素材が手に入らない。
必要な部位を残して倒すにはどう戦えばいいのか。
薬師のアウェッラーナには、想像もつかなかった。
……感心してる場合じゃなかった。
与えられた仕事に意識を向け、力ある言葉に魔力を乗せた。
「お疲れ様。お昼にしましょ。いっぱい頑張ってくれたし、好きなもの頼んでちょうだいね」
アウェッラーナの前には、青に近い紫の粉が山盛りになった平皿があった。貝殻は、それでもまだまだ大量に残っている。
クロエーニィエは、火の雄牛の角と種類のわからない植物の根を溶かして赤色染料を作っていた。青に近い紫の粉を【操水】で掬い取り、保存用の瓶に移す。大きな瓶が二本いっぱいになり、余りは皿に戻された。
「店長さん、誰も来ませんでしたよ」
退屈しただろうに、兄はそんな素振りは微塵も見せず、郭公の巣の経営を心配した。
クロエーニィエ店長は笑顔で応じ、外へ促す。
「ウチは受注生産がメインだから大丈夫よ」
獅子屋に着くと、ロークと同級生の少年が本日のオススメ定食を食べているところだった。
「相席いいかしら?」
クロエーニィエ店長が可愛く聞く。ロークは二つ返事で応じたが、同級生の少年は明らかに嫌悪感を押し殺し、こめかみをヒクつかせた。
だが、店長と兄がさっさと座ってしまったので、アウェッラーナも腰を降ろした。
「そうそう、これ、忘れない内に渡しとくわ。鱗蜘蛛の効率いい倒し方」
装飾過多なエプロンのポケットから封筒を取り出し、食卓に置く。花柄の封筒に封緘はない。
「今、読んでみていいですか?」
「どうぞ」
アウェッラーナは、意外に達筆なメモにさっと視線を走らせた。
……確かに、こんなの危なくて素人がしちゃダメだわ。
頷いて封筒に戻し、鞄に仕舞う。
「ありがとうございます。実行できる人がすぐみつかるか……」
「あ、あのっ、本当に魔法使いの人でも、倒せないんですか?」
不意に掛けられた問いに、ギョッとして顔を上げた。
前のめりだった神学生の少年が赤くなって座り直す。
アウェッラーナは、どう言うつもりなのかと神学生の隣を見た。
ロークが申し訳なさそうに説明する。
「スキーヌム君は、魔法使いの人たちの暮らしに興味を持ってて、最近、ずっとこんな調子なんです」
「私も色々聞かれたわ。騎士だった頃、キルクルス教徒も助けたのか、とか」
クロエーニィエが苦笑する。
……ずっとここに住むんなら、色々知りたいわよね。神学生ってコトは、家族に聖職者が居るのかな? ネモラリスの隠れ信者や星の標をどう思ってるか、後で聞いてみよう。
襟の中から銀の徽章を引っ張り出して答える。
「そうね。例えば私は【思考する梟】学派の薬師だから、魔法でお薬を作って病気や怪我は治せるけど、魔物や魔獣と戦うのは無理ね」
「では、もし、出会ってしまったら……」
「弱いモノなら服の【魔除け】で私に近付けないし、それが無理でも呪文を唱えるのが間に合えば、【跳躍】で逃げられるし、大抵の街は、カルダフストヴォー市の防壁やこの地下街の通路みたいに、色々な防禦の術が掛かってて、外からは魔物とかが侵入できないから、力なき民でも心配しなくて大丈夫よ」
神学生のスキーヌムは、淡い色の瞳でアウェッラーナを見詰めて何度も頷きながら聞いた。何故か、最後の一言でロークが微妙な顔をする。
……あれっ? 私、何かヘンなコト言った?
疑問を口にする前に質問された。
「薬師さんは、お薬を作る魔法だけ勉強したんですか?」
「いいえ、家事とかに使う【霊性の鳩】学派は、魔法使いなら常識として、みんな少しずつ使えるように勉強するし、私は他にも怪我を治す【青き片翼】学派、病気を治す【白き片翼】学派、それに実家が漁師だから、【漁る伽藍鳥】学派も少しずつ教わったわ」
「徽章のコトは、こないだ教えたげたとこだし、憶えてるわよね?」
クロエーニィエ店長に聞かれ、スキーヌムが「はい」とイイお返事をする。
店長が注文した森のオムレツ定食と、兄妹の湖の日替わり定食が来て、話が中断した。
☆必要な部位を残して倒す……「479.千年茸の価値」参照
☆本当に魔法使いの人でも、倒せない……「414.修行の厳しさ」、プロの軍人でも学派が違えばこのザマ「609.膨らむ四眼狼」参照




