850.鱗蜘蛛の餌場
最初に戻ったのは、一人で行ったクルィーロだ。
レノは、幼馴染の無事な姿に心底、ホッとした。
ドングリ粉を混ぜたパン生地が、フライパンで香ばしい匂いを上げ始める。
「ついでに薬草と食べられる草も採ってきたんだ」
クルィーロが、手提げ袋から膨らんだビニール袋を幾つも出す。日持ちするよう、術で水抜きしてあった。薬師アウェッラーナとティスが受取って、トラックの荷台に片付ける。
アマナがクルィーロにぴったりくっついて聞いた。
「お兄ちゃん、何か変わったコトなかった?」
「ん? いや、別に。街の北東の方は林檎育ててる農家が多いってさ」
「誰に聞いたの?」
「野菜売った帰りの農家の人だよ。放送のこと話したら、天気予報の歌、聞きたいって言われた」
レノたちが行った村には、林檎の木はなかった。ずっと北の村だろう。
「道幅が足りてりゃ行けるけどよ」
運転手のメドヴェージが苦笑する。
ジョールチとパドールリクが【跳躍】で戻ってきた。アマナがパドールリクに飛びつく。
「お父さん、おかえりなさい」
「はいはい、ただいま」
パドールリクは娘を抱きとめ、息子のクルィーロに微笑を向ける。
レノは、ピナとティスをそっと窺った。二人は何でもない顔で昼食の準備を続けている。レノは運河の記憶を締め出し、フライパンで焼けるパンに意識を戻した。
大きなキャベツを抱えたジョールチが、簡単に首尾を報告する。
「南東の村は、是非来て欲しいと歓迎して下さって、歌詞のお代にくれました」
ピナが昼食のスープをかき混ぜながら、誰にともなく聞く。
「今からサラダにするのと、晩ごはんをキャベツスープにするの、どっちがいいかな?」
「俺、スープがいい!」
打てば響く勢いでモーフが答えた。メドヴェージがニヤついて何か言い掛けた所へ、葬儀屋アゴーニが戻ってきた。
レノが東へ目を向けると、丁度、FMクレーヴェルのワゴンも農道を引き返して来るところだ。
「嬢ちゃんたち、あの籠三つでジュース一本になったぞ」
「ありがとうございます。他のお店にも行って下さったんですか?」
ピナが恐縮すると、アゴーニは嬉しそうに言った。
「それがな、文房具屋の婆さんが、自分と孫で使うからっつって、ジュースくれたんだ」
「ケチ臭ぇ。籠三つで一本だけかよ」
籠の本体を編んだモーフが毒吐く。
アゴーニは、布袋から無言で瓶を掴み出した。
一リットル入りの立派なガラス瓶だ。
モーフだけでなく、ピナたち把手に布を巻いた女の子三人も目を丸くする。破格の高値にレノも驚いた。
アゴーニが瓶を袋に戻し、わざとらしく肩をさする。
「あー、重てぇ重てぇ」
「わかったよ、俺が悪かったよ、片付けとくよ」
少年兵モーフが布袋を引受け、荷台に上がる。
DJレーフとソルニャーク隊長が、FMクレーヴェルのワゴンから降りてきた。
「昼食後、市内に車を移動する」
「停めるとこ、見繕っといたぞ」
「助かる」
隊長は、葬儀屋に軽く頭を下げたが、理由は言わない。レノはイヤな予感がして、聞くのが怖かった。聞いてはいけない気配が、何となく場を支配する。
何とも言えない沈黙の中で食事を終え、ワゴンとトラックに分乗する。
アゴーニがメドヴェージの隣に乗り、四トントラックを駐車できる場所へ誘導した。荷台のレノたちには、どこをどう走ったかわからない。
着いた所は公園の多目的広場で、半分くらいがプレハブの仮設住宅で埋まっていた。
「警察と仮設の自治会長さんにはハナシ付けてあっから、心配すんな」
「ありがとうございます」
アゴーニの手際良さに、レノは色々な意味で頭が下がった。
メドヴェージとワゴンの二人がトラックの荷台に上がり、改めて村の報告が始まった。
ワゴンでヤーブラカ市東部の村に行ったソルニャーク隊長が、表情を変えずに言う。
「この付近に大型の魔獣が居る」
アゴーニが樽から水を起ち上げて沸かし、香草の束を突っ込んで掻き回す。濃く煮出した香草茶を鍋に注ぎ、出涸らしも入れた。
清涼な香りが荷台に満ち、声も出ない程の恐怖と驚愕が薄らぐ。
クルィーロが、隊長とレーフに怯えた目を向けた。
「何が出たんですか? 数は? 軍や警察は何を……」
「ひとつずつ順に説明する。落ち着いて聞いて欲しい」
ソルニャーク隊長がみんなを見回す。
ティスがピナにしがみつき、ピナはレノの手を痛い程強く握った。アマナはパドールリクの膝の上で青褪め、クルィーロのマントの端を掴む。
少年兵モーフは、アクイロー基地襲撃作戦に加わった際、魔獣の脅威を間近で見たのだろう。共に戦ったソルニャーク隊長の言葉を硬い表情で待っていた。
「鱗蜘蛛が、恐らく一頭だけだろうとのことだ。五日前に羊が数頭、行方不明になり、四日前には牛が襲われるのを村人が目撃した。その時点で軽トラ並の大きさだったが、今のところ人間の犠牲者は出ていない」
「俺らが行ったとこは、三日前から家畜が食われたっつってたな」
アゴーニに目を向けられ、レノは言葉もなく頷いた。
ピナの手に力が籠もる。レノは妹の手を握り返した。
「あっちの村の奴が、軍と警察に掛け合ったけど、人手不足だからっつってすぐには来てもらえんらしい。業者にも断られたそうだが、そっちは報酬の件もあるからなぁ」
「東の村も同様だ。業者は人手不足と呪符や呪具の高騰を理由に、高額の料金を提示したらしい」
「あぁ、それで村長が近所の村へ相談に行ったのか」
アゴーニが納得顔で、ソルニャーク隊長に頷いた。
隊長と一緒に行ったレーフが、溜め息混じりにこぼす。
「農村がやられたら、次は街が危ないし、食糧の供給だって止まるのに……」
「公的機関が動けないとなると、民間ではどうしてもそうなってしまうでしょうね。農家の人たちが困っているからと言って、装備や駆除担当者の治療費が無料になる訳ではないのですから……」
パドールリクがアマナの背中を撫でながら、荷台の外へ険しい視線を向けた。
公園の隣は平屋の民家で、その隣がヤーブラカ南署だ。
警察署のすぐ近くで呪符泥棒は出ないだろうが、今はそれどころではなかった。
……この街を離れる時、トラックはともかく、ワゴンが襲われたらひとたまりもないよなぁ。
今の話をまとめると、この辺りに数日前から魔獣が姿を現した。種類は鱗蜘蛛。既に家畜を襲って大型化が進み、軽トラックくらいに育っているらしい。
レノは、北ザカート市の拠点でゲリラの呪符職人に教わったことを思い出した。
アクイロー基地襲撃作戦では、彼が作った【召喚符】で魔物を呼び出した。
その中に鱗蜘蛛も含まれていた。
ハエトリグモに似た外見で、毒があり、巣を作る赤いモノと作らない暗灰色のモノが居る。糸は呪符や呪具の素材になるらしい。この世に現れた直後は実体のない魔物だが、この世の生き物の血肉と魔力を糧に実体を得て、魔獣化する。
肉食で、特に血があたたかい生き物を好んで食べるらしい。
「動きが早くて身体の何倍もの高さを跳べるから、なかなか攻撃が当たらないし、当たっても、胴体を鉄の鱗が覆ってるから、やっつけるのが難しいって……」
呪符職人が嬉しそうに語った話を口に出すうちに声が震え、レノは片手で肩をさすった。
ソルニャーク隊長が宙を見詰めて言う。
「私も以前、あれが人を襲うのを見たことがある。襲われたのは力なき民の部隊だったが、銃で撃たれても平気だった。建物への被弾に構わず、戦車砲も撃っていたが、全く無傷に見えた」
「その部隊の人は、どうなったんです?」
老漁師アビエースが額の汗を袖で拭って聞く。
隊長は首を横に振り、静かな声で答えた。
「わかりません」
「あ、あぁ……そ、そうですよね。どうなるか見てたら、あなたも今頃ここには……」
……戦車砲も効かなかったって?
レノは、アクイロー基地の惨状を想像して目眩がした。道理で、拠点に戻ったゲリラが少なかった筈だ。
その現場に居た少年兵モーフは、落ち着いた様子で大人たちの話を聞いていた。
「駆除してくれる人の手配、役所が税金で何とかしてくんないのかな?」
クルィーロが、抱えた膝に顎を乗せて呟いた。
国営放送のジョールチが、荷台の床に原稿が落ちているように言う。
「ネモラリス政府は、戦費が財政を圧迫しています。湖上封鎖だけでなく、各産業で業務の休止が相次ぐ影響もあり、外貨を獲得できません。ネーニア島を中心に農業生産が落ち込み、外貨の大半は食糧と医薬品の輸入に充てられています」
「食べ物、ご近所さんの国は寄付してくれないの?」
アマナの細い声が聞く。
みんなで平和を願う歌を歌った。ファーキルがその動画をインターネットに公開して、莫大な広告収入が発生したが、彼は今、アミトスチグマで活動している。
その動画がきっかけで、周辺国だけでなく、遠方の国々からも寄付が集まった。
それは全て、インターネットで世界と繋がる国連難民高等弁務官事務所や国際的な難民支援のNGO、難民キャンプを運営するアミトスチグマ政府やそれを支援する湖南経済新聞社などの地元企業、フラクシヌス教団やアミトスチグマのボランティア団体に対してだ。
インターネットの設備のないネモラリス共和国には、インターネットを介した支援は届き難い。
アナウンサーのジョールチは、小学生にもわかりやすいよう、一言でまとめた。
「寄付は、難民キャンプに集まってるからね」
「そっか。そうよね。ニュースで『難民の女の子が詩を書きました』って言ってたから、そっちに行くよね」
アマナが中心になって作詞した当時は、少しでも平和の為にとの思いが強かった。今は、戦争の間接的な影響で、大勢の命が危険に晒されている。それを目の当たりにしながら、何もできない悔しさに唇を噛む。
食糧不足と、除雪や魔獣の駆除さえままならない資金不足。
空襲で人が減ったネーニア島の街は、防壁を維持する魔力が不足しがちだ。住民を集約してどうにか凌いでいる。
あの動画の広告収入や寄付が、一部でもネモラリス共和国に届いていたなら、苦しむ人はもっと少なくて済んだだろう。
……こうやって、魔獣の餌場みたいになってるとこって、あっちこっちにあるんだろうな。
荷台に集まった十四人の中に、魔獣と渡り合える魔法戦士は一人も居なかった。
☆運河の記憶……「061.仲間内の縛鎖」~「071.夜に属すモノ」参照
☆私も以前、あれが人を襲うのを見た……「460.魔獣と陽動隊」「465.管制室の戦い」参照
☆みんなで平和を願う歌を歌った……「280.目印となる歌」参照
☆ファーキルがその動画をインターネットに公開して、莫大な広告収入が発生した……「324.助けを求める」参照
☆その動画がきっかけで、周辺国だけでなく、遠方の国々からも寄付が集まった……「290.平和を謳う声」「291.歌を広める者」参照
☆それは全て、インターネットで世界と繋がる(中略)団体に対してだ。……「325.情報を集める」参照
☆除雪や魔獣の駆除さえままならない資金不足……「831.解放軍の兵士」参照
☆空襲で人が減ったネーニア島の街は、防壁を維持する魔力が不足しがち……「190.南部領の惨状」参照




