849.八方塞の地方
日が高くなるにつれ、靄が薄らぐ。
見通しが利くようになり、村がはっきり見えると、葬儀屋アゴーニが首を傾げた。
「天気いいのに、誰も働いてねぇ」
「あっ、ホントだ。どうしたんでしょうね」
「何だかわかんねぇが、気ィ付けて行こう」
村を囲む石積みは腰の高さしかないが、石のひとつひとつに呪文や呪印が刻まれていた。
開け放たれた門の向こうに人の姿はない。
二階建の家が広場を囲んで建ち、そこから伸びる石畳の道に沿って平屋が並ぶ。どの家もきちんと手入れが行き届き、見える範囲の道や広場にゴミや雑妖など、ひとつもなかった。
葬儀屋アゴーニが、村を見詰めたまま囁いた。
「魔獣が出て避難したのか、疫病が出てみんな寝込んじまったのか、どっちだと思う?」
「えぇッ? どっちって……」
そう聞かれると、そうとしか思えなくなってくるから不思議だ。
……もうみんな食べられちゃったとか? いやいや、いやいやいや!
より酷い想像を慌てて打ち消し、門の外から控え目に声を掛ける。
「ごめん下さーい。旅の」
「何だ、あんたら?」
背後から不意に声を掛けられ、声も出ないくらい魂消た。
振り向くこともできずに固まっていると、声の主が前に回り込んだ。
初老の男性だ。日焼けした顔は皺深いが、髪はまだ緑々としている。胸に輝く徽章は【畑打つ雲雀】学派。誰もが思い描く「農家のおじさん」だ。
再び誰何され、アゴーニが答えた。
「俺らは移動放送局の手伝いのモンだ。大きい局が拾わねぇような細々した情報をニュースにしたり、歌や何かも流してんだ」
「あんた、葬儀屋なのにラジオの手伝いしてんのか」
農家のおじさんは、同族の胸元で朝日を受ける【導く白蝶】学派の徽章を見て、顔を顰めた。
葬儀屋アゴーニは、イヤな顔をされても気にせず、説明を続ける。
「移動放送で電波が届く範囲が狭いから、小さい村はまず、トラックが入れる道があるか、放送の要り用があるか、調べてからに……」
「見ての通り、ウチの村には電気がない」
年配の湖の民が言う通り、電柱は一本もなく、家々の屋根にも太陽光発電のパネルは一台も載っていない。多分、電話もないだろう。
「放送車にゃ発電機あっからそいつぁ心配ねぇ。それより、何でこんないい天気なのに誰も野良仕事してねぇんだ?」
「放送局のスポンサーに魔獣駆除業者はおらんか?」
「いや。残念ながら、国営放送とFMクレーヴェルの職員有志の放送なんだ。危なくて首都に居らンなくなったんでな」
「タダでやってんのか?」
農家のおじさんが目を丸くする。
レノはイヤな予感がした。
「まさか。燃料代もバカになんねぇのに。スポンサーは行く先々の街ン中にある店なんだわ、これが」
アゴーニが、顔の前でひらひら手を振って苦笑すると、農家のおじさんは食い下がった。
「これまで通った街で、駆除業者がスポンサーにならんかったか?」
「あの……もしかして……魔獣、出るんですか?」
レノが堪え切れなくなって恐る恐る聞くと、農家のおじさんは緑の眉を下げてこくりと頷いた。
「えぇッ? 何で開けっ放しって言うか、軍の詰所か警察に……!」
「若いの、落ち着け。大丈夫だ。【魔除け】と【一方通行】の敷石があるだろ。中から招かれん限り、村の敷地には入れんよ」
「それにあれだ。強い魔獣だったら、こんな木の門、あってもなくても一緒だわな」
アゴーニが辺りを見回し、レノもつられて周囲を窺った。何も居ないが、この静けさが却って不気味だ。
「軍も警察も、人手不足だの呪符泥棒で忙しいだの、こんな小さい村まで手が回らんとぬかしおった」
「えっ? ここも呪符泥棒が出るんですか?」
「何だ、他所も出ンのか?」
レノと村人は、驚いて顔を見合わせた。
……いやいや、こんなとこで立ち話してる場合じゃない。早く帰……って言うか、逃げないと。
「軍と警察が動かん分、業者に皺寄せが行って、人手も呪符も足りんでな。それで地方の切り捨て。八方塞もいいとこだ」
「カネ払っても来ねぇってのか?」
「あぁ、まぁ、俺らも別に大金持ちって訳じゃないが……あんたら、どっか他所の業者を紹介してくれんか?」
言葉を濁した村人が、縋るような目で二人を見る。
……そう言われてもなぁ。
唯一の心当たりは、警備員オリョールたちだが、アーテル本土への攻撃で忙しい彼らがこんな所まで来る筈もなく、レノもネモラリス憂撃隊とは二度と関わりたくなかった。
武闘派ゲリラの拠点に【跳躍】できる葬儀屋アゴーニも同じ気持ちなのか、苦り切った顔で聞く。
「どんな魔獣だ? その辺がわかんなきゃ、心当たりもへったくれもねぇぞ」
「鱗蜘蛛だ。家畜が何頭もやられて……」
アゴーニが顔を引き攣らせる。
「おいおい、どんな大物なんだ?」
「乗用車みたいにでかいのに、ぴょんぴょん跳ねてすばしっこくて、俺たちゃ逃げるだけで精いっぱいで……」
「人間は、まだやられてねぇのか?」
「人を食ったら精がついて、ますます強くなるからな。みんな家に引き籠ってるよ」
おじさんが村に目を遣る。
道も畑も全く荒れていない。魔獣が出たのはつい最近だろう。
レノは、今にもその巨大な蜘蛛が現れるのではないかと気が気でなかった。
「いつ頃から、何頭出たんだ? 近所の村は平気なのか?」
「三日前、多分、一頭だけだ。勿論、近所の村と街には初日に連絡したし、今も村長が隣村へ相談に行ってる」
アゴーニが気味悪そうに辺りを見回した。
門の奥の村には人の気配がなく、畑には雲雀の一羽も居ない。
死んだように時が止まった畑の上を生ぬるい風が吹き渡った。
「昨日と一昨日は、軍と警察と業者にも掛け合ってくれたけど、ダメで、俺もさっき思い切って業者んとこ行ってみたんだが、今日は定休日だったから帰ってきたんだ」
農家のおじさんが肩を落とした。
村の近くは野菜畑で、春キャベツが丸々している。今の時期はモンシロチョウが飛び交う筈だが、一頭も居ない。顎を撫でて唸る葬儀屋アゴーニの胸で【導く白蝶】学派の徽章が揺れた。
「鱗蜘蛛、一頭か……」
レノは、アクイロー基地襲撃作戦の話を思い出して身震いした。
小柄な呪符職人が【召喚符】を作り、オリョールたちはアーテル軍の基地内で異界から魔物を呼び寄せ、【魔道士の涙】を与えて実体化させた。その内の一枚が、鱗蜘蛛を呼ぶものだったと言う。
この世の肉体を得た魔獣は、普通の武器でも倒せる筈だが、アーテルの正規軍では全く歯が立たなかったらしい。
アーテル軍の下級兵士は、オリョールたち武闘派ゲリラが引き揚げた後、ランテルナ島の魔獣駆除業者に泣きついたらしいが、魔法戦士の到着までに何人が食われたのか。
……魔法使いったって、戦いの術を知らなきゃ無理だよな。
下手に立ち向かって村人が食われれば、魔獣を強くしてしまう。
専門家が駆除するまで、安全な場所で息を潜めているしかない。
「買出しに行こうにも【無尽袋】はべらぼうに値上がりしてるし、もう、野菜の旬が過ぎる前なんざ贅沢言わんから、備蓄を食い尽くす前に何とかしてもらいたいんだがなぁ」
農家のおじさんは、辺りを忙しなく見回しながら言う。
……ここに居るのは怖いけど、村長の留守中に他所者を入れるのはダメってコト?
レノは、微妙な気持ちで葬儀屋アゴーニに目配せした。
「じゃあ、誰か心当たりがないか、聞いてみるわ。邪魔したな。水の縁が繋がって、早く業者がみつかるように祈っといてくれや」
「ありがとう。あんたらも気ぃつけてな」
アゴーニは農家のおじさんに頷くと、レノの手を掴んで【跳躍】の呪文を唱えた。
車を停めた遊休地に戻った途端、レノは膝から力が抜けてへたり込んだ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「大丈夫?」
ピナとティスが、トラックの荷台から飛び降りて駆け寄る。妹たちを心配させまいと笑顔を作ろうとしたが、頬が引き攣っただけで上手く行かなかった。
葬儀屋アゴーニが遊休地を見回す。
「流石にまだ、他の連中は戻ってねぇか」
「アゴーニさん、何があったんですか?」
ピナの不安な声にみんなも荷台から出てきた。
薬師アウェッラーナが、清涼な香りを漂わせたマグカップをそっと差し出す。受取ろうと伸ばした手は、情けないくらい震えていた。
「私、持ちます」
ピナが代わりに受取って、レノの鼻先に寄せる。
薬効のある香りでやや落ち着きを取り戻し、あまりの情けなさにこぼれそうになった涙も引っ込んだ。
「何があったんだ?」
「ん? あぁ、野宿は危ねぇってわかったんだ」
メドヴェージは、アゴーニの中途半端な答えに首を傾げてレノを見下ろした。少年兵モーフが、レノとアゴーニを交互に見ながら、編みかけの籠を手の中でこねくり回す。
葬儀屋アゴーニは、老漁師アビエースと目が合ったが、何も言わなかった。
……みんなが戻る前に言うのは避けたいんだろうな。
レノはメドヴェージから目を逸らし、震えが治まった手でカップを受け取る。ピナとティスのホッとした顔に、今度は笑顔を返せた。香気を深く吸い込んで立ち上がる。
「昼ごはんの後、車を市内に移動しましょう。理由は、みんなが揃ってから説明します」
「ん? あぁ、急ぎでないなら、二度手間ンなるからな」
メドヴェージが独り言のフリでモーフに言い聞かせる。少年兵モーフは「隊長、早く帰って来ねぇかな」と呟いて荷台に戻った。
レノは今すぐにでも、防壁の内側へ行きたかったが、調査に行ったクルィーロたちを置き去りにする訳にはゆかない。
アウェッラーナに香草茶の礼を言い、妹たちと一緒に【魔除け】が施された荷台に上がる。
「俺ぁちょっと街に行ってくらぁ。そろそろ紙、足んなくなってきたろ?」
「ありがとうございます。これ、紙代の足しにして下さい」
ピナが蔓草細工の買物籠を葬儀屋に渡す。
アゴーニは布を巻いた把手を腕に通し、籠を三つ持って行った。
……定休日じゃない魔獣駆除業者を探しに行ってくれるのか。
葬儀屋アゴーニの落ち着きは、商売柄なのか、魔法を使える湖の民だからか、数百年の時を過ごした長命人種だからか。レノは、我が身の情けなさに落ち込んだ。
☆軍と警察が動かん……「635.糸口さえなく」参照
☆アクイロー基地襲撃作戦……「460.魔獣と陽動隊」参照
☆アーテル軍の下級兵士がランテルナ島の魔獣駆除業者に泣きつく……「519.呪符屋の来客」「520.事情通の情報」参照
☆【魔除け】が施された荷台……「167.拓けた道の先」参照




