845.思い出の手袋
買出しと荷物の仕分けを終える頃には、夕飯時になっていた。
鶏と冬瓜のスープを啜った途端、どっと疲れが押し寄せる。獅子屋は、今年最後の食事を楽しむ人々で賑わっていた。
二人は静かにあたたかい食事を終え、隠れるようにそっと宿に戻る。
客室係のおばさんが部屋について来た。
何をするのかと思ったら【操水】で水瓶の中身を加温し、二人を丸洗いしてくれた。ついでにベッドに重ねた服も洗う。
「ありがとうございます」
「いいのよ、ゲンティウスに頼まれたからね。困ったことがあったら何でも言っとくれ」
ロークはもう一度礼を言い、早速、明日のお茶用のお湯を頼んだ。
「お安いご用さ。じゃ、よいお年を」
「よいお年を」
おばさんが出て行くのを待って、スキーヌムを見る。
案の定、蒼白になって固まっていた。
「魔法文明の国では、服を脱いで入るお風呂はなくて、魔法でお湯を沸かして、洗濯を兼ねて身体を洗うんですよ。俺も避難してる間、魔法使いの人たちに洗ってもらいました」
反応のないスキーヌムのコートを脱がせてフックに掛けた。
まだ呆然としている。
家出少年の肩を抱いてそっとベッドに座らせ、ロークはレジ袋に蔓草と水を入れた。袋の口を括って書き物机の脇に置き、パジャマに着替える。
重ね着して来た下着類をレジ袋にまとめて手提げに入れたところで、靴下の存在を思い出した。ウェストポーチとコートのポケットから引っ張り出して他と一緒にする。
することがなくなっても、スキーヌムは全く動いていなかった。
……温香茶だけじゃなくて、香草茶も買えばよかったな。
栄養しか考えなかったのを悔んだが、もう遅い。
スキーヌムの前に屈んで声を掛ける。
「明日、晴れだったら街の外へ出て蔓草を採ります。午後からは部屋で籠とか作ります。俺も避難中に教えてもらったんで、スキーヌム君も……」
「魔法使いに教えてもらったんですか?」
やっと口を開いたが、その目は正面のロークを見ていなかった。
「いえ、自治区の人です」
「えっ?」
やっと焦点を結んだ目にホッとして頬が緩む。
「リストヴァー自治区の人たちです。話せば長くなるので、今夜はもう寝ましょう。明日、説明しますよ」
スキーヌムの視線が下がり、硬い声が聞いた。
「その……手袋のことも?」
聞かれるまで【守りの手袋】を着けたままだと気付かなかった。誂えたようにぴったりで、身体の一部のような着け心地の良さが裏目に出た。
ロークは自分のベッドに腰を下ろしてスキーヌムを見る。
神学校の優等生の目は、微かに怯えていた。
「確かにこれは【守りの手袋】って言う魔法の品です。でも、俺は力なき民なんで、魔法の効果を発動できません」
「どうして、そんな物を着けているのですか」
ルフス神学校に留学中の「ネモラリスのキルクルス教指導者候補」が、効果のない魔法の品を身に着けている。
何重にも矛盾して、スキーヌムでなくとも首を傾げたくなるだろう。
……そう言われてみれば、あの移動販売店って説明が難しい集まりだったよな。
今、彼らはどこでどうしているのだろう。レーチカでベンチ裏に手紙を貼った遣り取り以後、彼らの行方も安否も何もわからなくなっていた。
ロークは片方だけの手袋を撫で、スキーヌムの目を見て答える。
「俺にとっては魔法の品じゃなくて、思い出の品だからです。一緒に避難した人たち、働いた人たち、俺を助けてくれた人たち……大勢の人との思い出が詰まってるんです」
まだ、アクイロー基地でネモラリス人の有志ゲリラと共に戦ったことまでは明かせない。あの時も一度、知らない間にロークを守ってくれた。
「ロークさんは、冬休みが終わっても神学校に戻らないつもりなんですか? 僕なんかに付き合って将来を棒に振るなんて、そんなの、いけません」
「将来も何も、この戦争が終わらない限り、俺たちネモラリス人には、未来なんかありません」
「あっ……」
スキーヌムが、失言に気付いて俯く。
ロークは意識して声音を和らげ、世間知らずの神学生にラキュス湖地方の現実を突きつけた。
「アーテル軍は、ラクリマリス領に腥風樹を放ちました。今は国王が止めていますが、国民の怒りを抑えきれなくなって王国が参戦すれば、周辺のフラクシヌス教国も聖地を守る為に起ちます」
何か言い掛けたスキーヌムが、何も言えずに項垂れる。
「アーテルとキルクルス教の信仰が勝つ未来なんて、甘い夢なんですよ」
アーテル共和国政府の情報操作の中、何をどのように報道して、スキーヌムが無数の情報の中からどれに接してきたのか、知る由もない。だが、彼自身は、この戦争の影響を肌で感じたことはない筈だ。
フィアールカたちの工作で小麦価格が暴騰しても、神学校やスキーヌムの実家の食事には、当たり前のように毎日、パンが出ていた。
パンを買えなくなった市民が暴動を起こし、たくさんの中小企業や個人商店が潰れ、多数の死傷者や自殺者が出ても、彼らにとっては別世界の些末事に過ぎない。
スキーヌムが俯いたまま、膝で拳を握った。
「俺はラキュス湖地方に平和を取り戻す為に活動します。スキーヌム君を連れ出したのは、ついでです。魔力を持っているだけで存在全部を否定する必要なんてありません。別の視点を持って、この先どうするか、よく考えて下さい」
ロークは、蝋燭も何もない燭台に点された【灯】にカバーを掛けてベッドに潜った。
「あけましておめでとうさん。じゃ、お湯、置いとくね」
「おめでとうございます」
宿のおばさんは約束通り、お湯を持ってきてくれた。
書き物机に【保温の鍋敷き】を置き、二人分にしては大きいティーポットとマグカップをふたつ残して出て行く。
昨日買った温香茶のティーバッグをポットに入れた。
スキーヌムはこちらに背を向け、起きて来ない。
ロークは身支度を済ませ、一人でクッキーを食べて温香茶を飲んだ。朝食を終えてもまだ、スキーヌムは動かない。手提げ袋にレジ袋を入れ、彼を起こさないようにそっと外へ出た。
新年の地下街チェルノクニージニクは、ひっそり静まり返っていた。
人通りの絶えた煉瓦敷きの通路をロークの靴音だけが、通り過ぎる。
階段を駆け上がった空は、雲ひとつなく澄んでいた。
白い息を後ろに流し、西門へと急ぐ。
門に近付くにつれ、通行人が増えた。
どの顔も晴れ晴れとして、ロークとは反対方向に向かう。
……新年の祈りか。
夜明けの湖水に祈りを捧げ、湖の女神パニセア・ユニ・フローラに一年の息災と良縁を願った人々が、家路を辿る。
ロークは人の流れに逆らって防壁の外へ出た。
古びた石畳に囲まれた畑の脇を通って、西の廃港まで行く。
今日は釣り人の姿はなく、ローク一人で崩れた建物に絡んだ蔓草を毟り採った。
……モーフ君、どうしてるかな?
ロークに蔓草細工の作り方を教えてくれたのは、星の道義勇軍の少年兵だ。彼らが安全な場所に居るか、ちゃんとした食事にありつけているか気掛かりだが、今のロークには知る手段が全くなかった。
☆リストヴァー自治区の人たちです。話せば長くなる……「224.見習うべき事」「225.教えるべき事」参照
☆ルフス神学校に留学中の「ネモラリスのキルクルス教指導者候補」……「803.行方不明事件」参照
☆レーチカでベンチ裏に手紙を貼った遣り取り……「654.父からの情報」「696.情報を集める」~「698.手掛かりの人」参照
☆俺にとっては魔法の品じゃなくて、思い出の品……「283.トラック出発」参照
☆アクイロー基地でネモラリス人の有志ゲリラと共に戦った……「459.基地襲撃開始」参照
☆アーテル軍は、ラクリマリス領に腥風樹を放ちました……「490.避難の呼掛け」「498.災厄の種蒔き」~「500.過去を映す鏡」参照
☆今は国王が止めていますが、国民の怒りを抑えきれなくなって王国が参戦すれば、周辺のフラクシヌス教国も聖地を守る……「516.呼掛けの収録」、「161.議員と外交官」「314.ランテルナ島」「353.いいニュース」「449.アーテル陸軍」「458.戻らない仲間」「489.歌い方の違い」参照
☆アーテル共和国政府の情報操作の中、何をどのように報道……「766.熱狂する民衆」参照
☆フィアールカたちの工作で小麦価格が暴騰……「285.諜報員の負傷」「424.旧知との再会」「440.経済的な攻撃」「588.掌で踊る手駒」参照
☆パンを買えなくなった市民が暴動……「440.経済的な攻撃」参照
☆たくさんの中小企業や個人商店が潰れ、多数の死傷者や自殺者が出て……「265.伝えない政策」「800.第二の隠れ家」参照




