843.優等生の家出
ロークはカップを口許に寄せ、かなり薄くなった香気を吸い込んだ。
……落ち着いて考えろ、俺。この計画の穴は何だ?
一口だけ啜ってカップを下ろし、心配する体で聞く。
「先方さんは、許可して下さったんですか?」
スキーヌムは弱々しく首を横に振った。ロークが眼鏡の奥を見詰めると、重い口を小さく開いてポツポツ計画を語る。
「でも、自治区の教会なら、事情を話せば泊めて下さると思って、着替えを少しと参考書代とかの貯金を現金で持って来たんです」
「光の導き教会には、その……スキーヌム君と同じ立場の司祭様がいらっしゃるんですか?」
「わかりません。でも、この島に居るくらいですから」
「光の導き教会は、島生まれの力なき民の受け容れ先ですよね? でも、本土の人たちにランテルナ島生まれであることを理由に差別されて、アパートとか貸してもらえないから、教会の周りに村を作って、バスで本土の会社に通勤してるんじゃありませんか?」
ロークはルフス神学校に留学した際、アウグル司祭にタブレット端末を与えられた。アーテル内部の視点から、改めて調べた「ランテルナ自治区」の姿を一気に捲し立てた。
スキーヌムの顔から再び血の気が引く。
神学校の優等生だけあって、ロークが言外に指摘した計画の穴と危険性に気付いたのだろう。ティーカップに両手を添えて俯いた。その手に滴が落ちる。
「では、僕はどうすれば……」
ロークは、家出少年がやっとの思いで絞り出した声に、頭をフル回転させた。
スキーヌムの能力、家庭環境、成育歴、そして、将来のこと。
……もし、俺がスキーヌム君と同じ立場だったら?
すっかりぬるくなった香草茶を半分飲んで、結論を声に出す。
「スキーヌム君って、ホントに聖職者になりたいんですか?」
神学校の優等生はびくりと肩を震わせた。
答える声はない。
ロークは残り半分をゆっくり飲みながら、反応を待った。
涙の滴は、ひとつふたつ落ちただけだ。
スキーヌムは眼鏡を外し、袖で目元を拭って顔を上げた。眼鏡越しに向けられた眼には、微かな怯えがある。
ロークは向かいのカップを見た。香草茶は全く減っていない。視線に気付いた家出少年は一気飲みして、カップを置くと同時に言った。
「他に選択肢があれば、違う道に進んだでしょう。でも、僕にはそんなこと、想像することも許されませんでした。ロークさんと出会って初めて色んな可能性に気付けたんです」
「もし、他の可能性が手に入るなら、それがどんな道でも、今の生活を全部捨てることになっても、そちらに進みたいですか?」
「犯罪とか、人を傷付けたりするのでなければ……でも、そんなの……」
ゲリラとして戦ったことのあるロークは、まだ覚悟が足りない気がしたが、彼の甘えは指摘せずに提案した。
「俺に心当たりがあるって言ったら、どうします?」
「どんな心当たりですか?」
食い付きの手応えを確認し、虚実取り混ぜて話を組み立てる。
「この街、チェルノクニージニクに知り合いの知り合いが居ます」
「えっ?」
スキーヌムは微かな声を立て、息を呑んだ。
驚愕に見開かれた目が、レンズの向こうからロークを窺う。
「ゼルノー市の市民病院に一人だけ湖の民の呪医が居ました。その呪医は、旧王国時代、ラキュス・ラクリマリス王国軍で軍医をしていて、腥風樹討伐任務でこの街に駐留していたそうなんです」
「そのお医者さんが、ここに避難しているのですか?」
ロークは首を振った。
「いえ、今はどこに居るか知りません。呪医から聞いた話を基に色々検索してから来ました。実はこのお店も、駐留当時、常連だったって聞いてました」
スキーヌムは店内を見回し、ロークに視線を戻した。その目に驚きはあるが、軽蔑や騙されたと気付いた様子は見られない。
「魔法を使えば、よく知っている場所には一瞬で行けます。国境なんて関係ありません」
「それは、魔法使いのゲリラに思い知らされました」
アーテル人のスキーヌムが声を落とす。
「呪医の知り合いの騎士が軍を辞めて、ここで道具屋さんをしてるそうです」
「呪医とその店長は、長命人種なんですね」
ロークは頷き、蔓草を詰めた手提げ袋を持ち上げた。
「蔓草細工を買取ってもらえないかと思って採ったんです」
「ロークさん、初めからそのつもりで?」
スキーヌムの家出は想定外だったが、最初から気付いていたフリで通す。
「だって、夕飯に間に合うように帰るのに、大荷物で不自然だったから……俺の勘違いなら、それでいいかと思って黙ってました」
「僕に魔法使いの街を見せようと思ったのは、どうしてですか?」
「魔力があるせいで存在を丸ごと否定されるなんて、馬鹿げてると思ったからです。俺は身近にずっと魔法使いが居たから、魔力があってもなくても関係なく、いい人も居れば、悪い人も居るって知ってます」
「僕に、それを教える為に?」
スキーヌムの目に涙が滲む。
頷いてみせると、神学校の優等生の目から大粒の涙がこぼれた。眼鏡を外してハンカチを目頭に押し当て、嗚咽を押し殺す。
ロークは畳みかけた。
「本当に力なき民が“無原罪の清き民”で善人しか居ないなら、アーテルには警察と裁判所と刑務所なんて必要ないでしょう。でも、俺が来てからほんの何カ月かの間もずっと、アーテル本土の力なき民が起こした凶悪事件や、いじめのニュースを目にしない日はありませんでした」
スキーヌムが声もなく頷く。
ロークはホール係を呼び止め、鎮花茶と香草茶を注文した。
二杯目のお茶で気持ちを落ち着け、現金で支払いをして店を出る。
昼営業の店はすっかり準備を整え、歳末の買出し客で地下街の通路はごった返していた。スキーヌムは、迷わず進むロークに黙ってついて来る。
狭い通路の奥に足を運んだが、クロエーニィエの魔法の道具屋「郭公の巣」は、ホール係が言った通り、扉に休業のお知らせが貼ってあった。
「春になったら開けますって、そんな……」
スキーヌムが言葉と顔色を失う。
確めに来ただけのロークは、彼の細い肩を叩いて促した。
「もう一軒、教えてもらったお店があります。元騎士じゃありませんけどね」
スキーヌムがはぐれずついて来るのを確認しながら、さっき組立て直した予定通り、呪符屋に連れてきた。
「先に、俺一人で話しますから、ここで待ってて下さい」
家出少年は素直に頷き、呪符屋の壁にもたれた。
ロークは扉を細く開けて、隙間に身体を滑り込ませる。後ろ手に閉めて顔を上げると、誰も居なかった。
カウンターに身を乗り出して声を掛ける。ややあって、奥から聞き覚えのある声で返事をされ、ホッとした。
「ん? あんた、フィアールカの客の……」
「はい。ロークです」
ほんの少し顔を合わせただけで、殆ど言葉を交わさなかったのに覚えられていた。呪符屋の店主の記憶力に驚いたが、それなら話は早い。
「確か……王都に跳んだんじゃなかったか?」
「はい。その節はお世話になりました。王都からクレーヴェルに渡ったんですけど、事情があって」
「クーデターか」
「はい。それもありますけど、俺、今は一人でルフスに住んでるんです」
「何? まぁ詮索はせんが、呪符が要るのか?」
店主がお茶の用意を始めるのを止めて言う。
「取次料はお支払いします。フィアールカさんにお伝えしたいことがあるんで、連絡してもらえませんか?」
「すまんな。最近、滅多に顔を見せんもんで、今どこに居るかわかんねぇんだ。開戦からこっち、ラクリマリスに渡りたがる奴が減ったからな」
「それじゃあ、いつ来られるかもわかりませんよね」
先に仲介料だけ取って後で知らん顔するようなことはない。
相変わらず、この店主は子供相手でも良心的な経営方針だ。
「じゃあ、しばらくこの街で待たせてもらいます。それともうひとつ、お願いがあるんですけど」
「何だ?」
ロークは少し気が引けたが、他に頼れるところがなかった。
☆アウグル司祭にタブレット端末を与えられた……「742.ルフス神学校」参照




