842.アテが外れる
冷たい風に乗って美味しそうな匂いが流れてきた。
雀たちの囀りに起きだした街のざわめきが加わる。
ついさっき、サンドイッチを食べたばかりだが、パンや卵が焼ける匂いには惹かれるものがあった。
ロークは地下街チェルノクニージニクに降りる口実を思いついた。
「重ね着しても、外は寒いですね。バスの時間まで、お茶でも飲んでいませんか?」
「そうですね。どこが……」
「地下に降りてみましょう。中心街は地下にあるって書いてありましたよ」
冒険者カクタケアシリーズのファンフォーラムの情報だ。その程度なら、アーテル人にとって常識なのか、特に追及されなかった。
スキーヌムが先に階段をみつけ、地下に降りる。
移動販売店プラエテルミッサのみんなと一緒にチェルノクニージニクの宿に泊まった時にも、何度か使った出入口だ。ロークは知っているのを悟られないよう、スキーヌムの後ろを歩く。
煉瓦敷きの通路にも、パンの焼ける匂いが満ちていた。
……みんな、どうしてるかな?
レノ店長たちフラクシヌス教徒とは、ネモラリスの首都クレーヴェルの帰還難民センターで別れた。星の道義勇軍の三人と葬儀屋アゴーニには、ウーガリ古道で会えたが、他のみんなとはベンチに貼り付けた手紙が最後の遣り取りだ。
大半の店が営業時間外だ。扉やシャッターが閉まり、看板を引っ込めている。
……獅子屋さんの朝ごはん営業……どうにかして誘導できないかな?
スキーヌムは、壁や通路の装飾と一体化した呪文や呪印を物珍しげに眺めて、ゆっくり歩く。
ほぼ全てのシャッターに年始の休み予定が貼ってあった。
ざっと見たところ、年始は十日か十五日まで休むらしい。
大晦日の今日は、年内最後の営業日。早朝の通路には客よりも荷物を満載した台車を押す業者や、自分の店に急ぐ店主と従業員が多かった。
シャッターが上がり、看板が出る。
せっせと商品を並べ、開店準備に余念がない。アーテル本土と違って、従業員や通行人に湖の民が混じるが、誰もが緑色の髪を隠すことなく、堂々としていた。
スキーヌムは太い通路を道なりに進む。
ロークはどうにかして獅子屋に誘導したいが、上手い口実がみつからなかった。コートのポケットに入れたノートと手帳が、実際の重さ以上にずっしり心にのしかかる。
……何とかして、これをフィアールカさんに渡したいんだけどな。
いきなり呪符屋や郭公の巣につれて行くのは無理だ。
食堂の獅子屋なら、クロエーニィエが朝食で来ているかもしれない。
力なき民のローク一人よりも、旧王国時代から生きている彼の話を聞く方が、魔法使いにも色んな人が居るのがわかりやすくていいだろう。
……カッ飛び過ぎてて、ちょっと不安だけど。
「どこ見て歩いてんだッ!」
スキーヌムが、店から商品を抱えて出てきた男性とぶつかった。
声もなく尻餅をついたスキーヌムを助け起こし、大きな鞄を拾う。使用人が用意したサンドイッチと水筒だけにしては、やけに重い。先程まで自分のことで精いっぱいで気付かなかったが、そもそも日帰りでこんな大きな鞄を持ってきたのは何故なのか。
「危ねぇじゃねぇか、クソガキッ!」
「すみませーん、お邪魔しましたー」
ロークは店員に軽く頭を下げ、スキーヌムの手を引いて細い通路に駆け込んだ。おっかない店員から逃げるフリで、獅子屋へ急ぐ。
スキーヌムは、足がもつれて倒れそうになりながら必死について来る。下品な罵声を浴びせられたことが余程ショックなのか、酷く顔色が悪かった。
……マズいな。ホントにゆっくりできるトコで落ち着かせてあげないと。
ロークは、獅子屋の前で足を止めた。
小さな黒板に朝食のメニューが並ぶ。
木製の看板に文字はなく、きのこを咥えた二匹の魚が円を描いて煉瓦敷きの通路を見下ろす。久し振りに見た獅子屋の看板にホッとして、スキーヌムを誘導した。
「ちょっとびっくりしましたね。ここで少し休憩して行きませんか?」
スキーヌムは蒼白な顔で、声もなく首を縦に振った。
店内に入ると、スキーヌムの目が中央の立派な獅子像に釘付けになった。
ロークは空席を探すフリで、エプロンドレス姿のおっさんを探す。席が三分の二くらい埋まった店内に、魔法の道具屋「郭公の巣」のクロエーニィエ店長の姿はなかった。
時間帯のせいなのか、今日は家で食べたい気分なのか。
前者なら、昼食の時間帯まで粘れば何とかなりそうだが、後者なら、困ったことになりそうだ。
二人掛けの席に落ち付き、香草茶を注文する。
スキーヌムが手洗いに立った隙に、ホール係の娘を捕まえた。
「あの、すみません。今日、常連のクロエーニィエさんってもう来ました?」
「郭公の巣の店長さん?」
「はい。ちょっと頼みたい物があって」
「あら、知らないの? あの人、冬は毎年スクートゥムに材料狩りに行くから、あったかくなるまでお店はずっと休みよ」
「えっ? そうだったんですか?」
クロエーニィエの「見本」と同じエプロンドレス姿のホール係は、営業スマイルを浮かべて口調を改めた。
「何がご入り用ですか? 代わりのお店をご紹介しますよ」
仲介料が欲しいのだろう。
ロークは笑って誤魔化した。
「あ、大丈夫です。他にも心当たりのお店あるんで。そっちを当たります」
呪符屋の店主はぶっきらぼうだが、あぁ見えて意外と親切だ。
ファーキルが持っていたような飛ばしのタブレット端末は手に入らないが、どうにかして呪符屋からフィアールカに連絡してもらえれば、と期待を寄せる。
スキーヌムが戻るのを見計らったかのようなタイミングで香草茶が出てきた。
香りを味わい、顔色が少し戻ったところで聞いてみる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。すみません。色々珍しくて前を見ていなくてあんなことに……」
「いえ、それは俺も似たようなものですから。何か面白い物、ありました?」
しょげるスキーヌムに軽い調子で笑ってみせる。
スキーヌムは曖昧な顔で黙っていたが、そっと溜め息をこぼすように呟いた。
「雑妖が、居ませんでした。……どこにも」
「ん? ……あ、あぁ、そう言われてみれば……見掛けませんでしたね」
ロークは、たった今、気付いたフリをした。
地下街チェルノクニージニクが、腥風樹との戦いで築かれた要塞都市で、【巣懸ける懸巣】学派の術で幾重にも守られ、雑妖などを寄せ付ける筈がないと知っているが、おくびにも出さない。
スキーヌムが、ホール係の目を盗むように眼だけを動かして店内を見回す。
大抵の客は、呪文の染めや刺繍の入った服を着た力ある陸の民や湖の民だ。
何もない服の二人は、酷く場違いに見えた。
「ここは地下で、ずっと日が当たらないのに、どうしてこんなに清浄なんでしょう? 僕はルフスとイグニカーンスしか知りませんけど、地上の街だって、ビルの谷間とかにたくさん居るんですよ。なのに……」
「ネモラリスの街と同じ理由ですよ」
ロークは次の話に繋げる説明を思いついた。
淡い色の瞳が、眼鏡の奥から答えを求める。
「俺の地元……ゼルノー市は半世紀の内乱中、随分やられたらしくて、新しい建物が多いんです。それも【巣懸ける懸巣】学派の職人さんが足りないので、術で守られた建物ってあんまりないんですけど、ここは……」
ロークは獅子屋の天井を見上げ、柱伝いに視線を降ろして壁を見回した。
スキーヌムの目がそれを追う。
注意して見ると、木製の食卓や椅子の脚にまで、呪文の彫刻が施されていた。
「ここは、旧王国時代からそのままっぽいですから。建物を守る術がびっしり……何種類も、何重にも施されてて、要塞みたいになってるからですよ」
「要塞」
「街の人も魔法使いが多いから、その人たちの魔力で術が全部きちんと作動して、雑妖なんて近寄れませんし、涌いてもすぐ消えちゃうんですよ」
スキーヌムは、答えを噛みしめるように香草茶のカップに視線を向けた。
……ちょっと詳しく言い過ぎたかな?
「荷物、どうしてこんなに重いんですか?」
香草茶が冷めきらない内に聞いてみた。
ローク自身は、ファンドゥム家の使用人たちに怪しまれないよう、重ね着とポケット、ウェストポーチを最大限活用して手ぶらになって来た。
使用人が用意した弁当と水筒入りの手提げ袋と、途中で摘んだ蔓草の他は、何も持っていない。
神学校の優等生は、食卓に身を乗り出して囁いた。
「冬休みが終わるまで、光の導き教会でお世話になろうと思って……」
「えっ? それって……」
ロークは「家出」の単語を飲み込み、スキーヌムの目を見た。
冗談を言っているようには見えない。
そもそも、この優等生が冗談でそんなことを口にするハズがなかった。
☆レノ店長たちとは(中略)帰還難民センターで別れた……「655.仲間との別れ」参照
☆星の道義勇軍の三人と葬儀屋アゴーニには、ウーガリ古道で会えた……「657.ウーガリ古道」「658.情報を交わす」参照
☆ベンチに貼り付けた手紙が最後の遣り取りだ……「654.父からの情報」「696.情報を集める」~「698.手掛かりの人」参照
☆クロエーニィエの「見本」と同じエプロンドレス姿……「386.テロに慣れる」「414.修行の厳しさ」参照
☆地下街チェルノクニージニクが腥風樹との戦いで築かれた要塞都市……「382.腥風樹の被害」「384.懐かしむ二人」参照




