836.ルフスの廃屋
掌にすっぽり収まる茶色の小瓶。表面には、黒いインクで力ある言葉が縦に書かれ、格子のように見える。
魔哮砲は【充魔の檻】の中で大人しくしていた。
魔装兵ルベルはベッドに浅く腰掛け、壁の時計を見上げた。時間まで、まだ十分近くある。
この行商人向けの宿には、窓がなかった。
ランテルナ島の地下街チェルノクニージニクの中でも、中心街から外れた所にあり、いつも静かだ。敵地でこんな穏やかに過ごすことに罪悪感が募る。
白い漆喰の壁を見詰めていると、ここがどこで、自分が何をしているのか、わからなくなりそうなのが怖かった。
手の中の小瓶には、ルベルの体温とは別のぬくもりがある。
真っ黒でぐにょぐにょ捉え処のない魔法生物に体温があることも、【従魔の檻】から中身の気配と体温が漏れることも、つい先程、知ったばかりだ。
ラズートチク少尉は、予定時刻きっちりにイグニカーンス基地から帰還し、今は隣室で仮眠を取っている。
ルベルも昨夜、ここから魔哮砲に指示を与え、長時間【索敵】を使って疲れ切っている筈だが、結局、一睡もできなかった。
不意に瓶が割れ、闇が溢れ出る。
ルベルの大柄な体躯が縮み、予備の小瓶に吸い込まれた。【従魔の檻】の底から見上げると、警備員の制服を来た青年が、蓋を閉めようとしている。
「待て! やめてくれ!」
叫びは声にならなかった。
跳ね起きたルベルは、大きく息を吐いて額の汗を拭った。
古ぼけたローテーブルの下から闇の塊が這い出し、主を窺うように伸び上がる。
「いや、何でもない。大丈夫だ……机の下で寝よ」
寝起きの頭が湖南語で言い、通じないことに気付いて、力ある言葉で命じる。魔哮砲は大人しく元の位置に戻った。
突然の動きに驚いただけなのだろうが、心配されたように思え、長期に亘る任務で神経がすり減っているのだと自覚させられる。
生地が劣化したソファに座り直し、部屋を見回す。
色褪せた壁紙がはがれ、その下の壁も黄ばんでいた。向かいのソファは無人。飾棚に残る絵皿には、埃などの汚れはない。
カーテンは朽ち果て、床で半ば土に還っていたが、窓ガラスは割れていない。伸び放題の庭木や茂み、雑草が、広い庭を囲む高い塀と共に目隠しになっていた。
侵入初日に【操水】で部屋全体を清掃し、雑妖は全て魔哮砲に食べさせた。屋敷全体を回り、ラズートチク少尉が魔物を片付け、ここを当面の拠点に定めた。
少尉の調べによると、この屋敷で乱心した使用人が主人一家惨殺事件を起こして以来、二十年近く放置されているらしい。
アーテルの首都ルフスの中でも高級住宅街の一角を占めるが、この一月余り、前の道路を徒歩で通る者は一人もなかった。
射し込む薄日の角度が、昼に近いと教える。
昨夜は、ルフスの南東に位置するベラーンス基地を破壊した。
これで三カ所目だ。
一カ所目のイグニカーンス基地を破壊した二日後、ラズートチク少尉はネモラリス憂撃隊と接触した。
作戦の翌日、少尉がカルダフストヴォー市内で連絡係の老婦人に話を付け、彼らの拠点に足を運んだのだ。
ラズートチク少尉は、単身でネーニア島西部に位置する北ザカート市に【跳躍】した。ザカート港に駐屯する防空艦ノモスに乗り込み、出て来た時には軍服に着替えていた。迷いのない足取りで廃墟を行き、破壊を免れた雑居ビルを訪う。
その拠点は、ルベルも知っている。
魔哮砲の捜索任務に着く間、北ザカート港に駐屯していた防空艦フーネラーレに身を寄せていた。
北ザカート市内を【索敵】で虱潰しに捜した際、武闘派ゲリラの拠点をみつけたのだ。アーテル本土の基地や警察署を襲撃し、集めた武器の倉庫を兼ねた訓練拠点として使っているらしかった。
一応、フーネラーレの艦長に報告した。引継ぎ漏れで、順番がひとつ前の哨戒兵から既に報告があり、正規軍の邪魔にならない限り放っておけと言われた。
去年の彼らは、団体名も統率も何もなく、ただ、アーテルに一矢報いたいとの思いで集まった素人集団だった。中には時々、森でとった獲物や木の実をザカート港の部隊に分けてくれる者も居た。
その彼らが、アーテル本土西部のアクイロー基地を壊滅させたと聞いた時には、耳を疑った。
……退役軍人が仲間になったのかな?
その後、「ネモラリス憂撃隊」と名乗るようになり、瞬く間に組織は膨れ上がった。
今はもう、防空艦フーネラーレと乗組員も、捜索任務で相棒だったムラークも居ない。
ムラークは、魔哮砲捜索任務で【索敵】に集中する間、無防備になる哨戒兵ルベルの背中を守る為に派遣された。
黒髪の力ある陸の民で、【急降下する鷲】学派の魔装兵。呼称は髪色に因んでムラーク。呼称の他は、見ればわかることしか知らない。
原隊、出身地、家族はどうしているのか、何故、軍に入ったのか。個人的なことは何ひとつ知らないのに、彼の不在がこんなにも背中を不安にさせる。
……作戦で一緒になったの、短い間だったのに。
今は、あの懐かしい声を聞きたくて堪らなかった。
脈絡なく、獲物を分けてくれたゲリラの人懐こい笑顔や、孫の仇を討つのを見届けて欲しいと言った老人の悲しみに満ちた微笑みを思い出す。
ルベルはゆっくり息を吐き、トレンチコートのポケットから【無尽の瓶】を取り出した。水を少しだけ起ち上げ、口に含む。その冷たさが体温と同じになるまで、乾いた舌に行き渡らせた。
☆ルベルも昨夜、ここから魔哮砲に指示を与え、長時間【索敵】を使って/一カ所目のイグニカーンス基地を破壊……「814.憂撃隊の略奪」~「816.魔哮砲の威力」参照
☆破壊を免れた雑居ビル……「367.廃墟の拠点で」「368.装備の仕分け」参照
☆魔哮砲の捜索任務……「393.新たな任務へ」~「396.橋と森の様子」「438.特命の魔装兵」「439.森林に舞う闇」参照
☆北ザカート市内を【索敵】で虱潰しに捜した際、武闘派ゲリラの拠点をみつけた……「304.都市部の荒廃」「321.初夏から夏へ」参照
☆アーテルに一矢報いたいとの思いで集まった素人集団……「441.脱走者の帰還」参照
☆森でとった獲物や木の実をザカート港の部隊に分けてくれる者も居た……「320.バーベキュー」「321.初夏から夏へ」参照
☆アクイロー基地を壊滅させた……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照
☆「ネモラリス憂撃隊」と名乗る……「618.捕獲任務失敗」参照
☆防空艦フーネラーレと乗組員も、捜索任務で相棒だったムラークも居ない……防空艦フーネラーレ「756.軍内の不協和」~「759.外からの報道」、相棒だったムラーク「523.夜の森の捕物」「536.無防備な背中」「547.ラジオの番組」参照
☆孫の仇を討つのを見届けて欲しいと言った老人……「309.生贄と無人機」参照




