825.たった一人で
ネーニア島のトポリ市とネモラリス島北西部のヴィナグラート市は、地図上の直線距離は短い。だが、トポリ市の対岸に位置するギアツィント市と、ヴィナグラート市の間には、広大な森が横たわる。
かつては、術で守られた古い道が、ウーガリ山脈の麓を走っていた。ウーガリ古道は、半世紀の内乱で寸断され、山脈北部の大部分が通行不能だ。森には魔物や魔獣が多く、最短距離を横切る道路は建設できなかった。
陸路では、湖岸沿いの入り組んだ道を行かねばならず、かなり遠回りになる。
光福三号は小型の漁船で、いつもゼルノー市沖の陸が見える所で操業していた。
魔道機船は、燃料ではなく乗組員の魔力で動かす。どこかの港で休ませてもらえれば、湖上封鎖の影響で燃料が手に入り難くなっても、遠くまで行ける。
……理論上は、ね。でも、知らない水域まで行くかな? ピオンさんたちだって、レーチカで留まってたのに。
南のラクリマリス領へ逃れた僚船も、多くはネーニア島南東部に留まっている。繋留場所が足りないから、仕方なく南へ南へ追いやられたのだ。
「北部は湖上封鎖の影響を受けずに出漁できるので、魚の価格が安定しているのでしょう」
「え、じゃあどうしてパンも安……いや、まぁ、値上げはしてますけど……」
国営放送アナウンサーのジョールチは、話の腰を折ったレノ店長にイヤな顔ひとつせず、説明した。
「西グラナート市で、大型船が島を周っていると言っていましたよね。リャビーナ港から輸入した物が、比較的手に入り易いからだと思いますよ」
「どうして買いやすいの?」
「大きい街は、パン屋さん閉まってたのに」
アマナとエランティスが首を傾げる。ジョールチは東に目を向けた。
アウェッラーナは、ヴィナグラート市の東には葡萄畑が広がり、大粒の干し葡萄やジュースに加工して輸出しているのを思い出した。
「ここからじゃ、遠くて見えないけど、街の東に葡萄畑があってね。それが、外貨……えーっと、外国のお金持ちに人気で、高く売れるから、そのおカネで色々買えるんだよ」
「へぇー、スゴイねー」
エランティスが無邪気に感心する。
ヴィナグラート産の干し葡萄は、庶民の口には入らない高級品だ。
……ドーシチ市のお屋敷で出されたかもしれないけど、知らないんじゃわかんないわね。
「それで、街の名前が葡萄なんですね」
クルィーロが東に目を凝らして成程、と頷いた。
昼食後、アウェッラーナはレノ店長と共に水産加工場へと急いだ。
港の近くに【跳躍】許可地点がないので、門からは走るしかない。
二人は、奇異な目で見られながら、昼網の準備が進む港を駆ける。
レノ店長とどんどん距離が開く。
アウェッラーナは腕時計を見た。午後の始業まで、時間がない。遠ざかるレノ店長の背中を懸命に追い掛けた。
工場のシャッターを背に、男性が二人立っていた。
陸の民と湖の民だ。
まだ遠くて、顔はわからない。背格好は似ているような気がした。気が急くばかりで息が切れ、これ以上速くは走れない。冷たい風が喉に入り、何度もむせたが立ち止まらず、ひたすら足を前に出した。
湖の民が気付いて走り出す。
足を緩めたレノ店長の脇を駆け抜け、アウェッラーナに向かって来る。
レノ店長が引き返し、シャッター前の陸の民が頭を掻いて歩きだした。
アウェッラーナは、激しく咳込んで足が停まった。
こんなに走ったのは何十年振りだろう。
声を出そうとしたが、冷たい風を吸い込んで更に激しく咳込んだ。
「ラーナ、大丈夫か?」
懐かしい声に愛称を呼ばれ、返事の代わりに涙がこぼれる。
アウェッラーナは、何も言えなくなってその胸にしがみついた。兄は声もなく、日に焼けた太い腕でアウェッラーナを抱き締めた。
「アビエースさん、そのコ、妹さんで間違いないか?」
「はい、ありがとうございます。歳は近いんですけど、妹は長命人種で……」
インターホンの声の主に応える声が涙で揺れる。
「あー……まぁ、つもる話もあるだろうから、あんた、午後から休みでいいや。夕方、事務所に顔出して、これからどうするか教えてくれ」
「はい、ありがとうございます」
アウェッラーナも礼を言おうとしたが、嗚咽で言葉にならない。レノ店長が手の甲で涙を拭い、職員の後ろ姿に深々と頭を下げた。
「俺、アウェッラーナさんと一緒に避難してる椿屋のレノです。仲間のところでゆっくりしませんか?」
「妹がお世話になったみたいで、ありがとうございます」
「とんでもない! 俺たちの方こそ、アウェッラーナさんが居なかったら、何回死んでたか……」
「そんな大変だったのか?」
兄に両肩を掴まれ、アウェッラーナは涙を拭いながら頷いた。
レノ店長がやきもきする。
「日が暮れる前に戻って、会社の人に説明しなきゃいけないんですよね? 時間ないんで……」
「他の人はどこに?」
「外……トラック」
アウェッラーナがしゃくりあげながら辛うじて言うと、兄はレノ店長に続いて歩きだした。
漁港を抜け、下街を通り、防壁の外へ出る。
「外って、街の外なのか」
「街の中じゃ、焚火できるとこがないから」
「トラックで避難してるんです」
躊躇う兄の手を引いて言うと、レノ店長が補足してくれた。
国道を少し歩き、遠くに畑が見えたところで南へ逸れる。
先日の雪が少し残って歩き難い。枯れ草に覆われた緩やかな斜面を登ると、小さな雑木林が見えてきた。雑木林の西には、国道に繋がる砂利道がある。農村の住民にキノコ狩りで使う道だと教えてもらった。
焦って【魔力の水晶】を持って出るのを忘れたせいで、随分、時間を無駄にしてしまった。
漁で鍛えられた筈だが、兄は息切れしている。老いを思い知らされ、アウェッラーナは兄から目を逸らして言った。
「あ、でも、買出しと薪拾いで、お留守が多いんだったわ」
トラックはあるが、FMクレーヴェルのワゴンは街へ降りていた。
留守番は、女の子たちとパドールリク、国営放送のジョールチだ。
「あ、お兄ちゃん、早かったのね」
「その人、だあれ?」
ピナティフィダとエランティスが、書き物の手を止めて立ち上がる。大人二人とアマナも顔を上げた。
「兄です……」
他の身内がどうなったのか、怖くて聞けない。
再び涙が滲み、アウェッラーナはそれ以上言えなくなった。
レノ店長が代わりに説明する。
「夕方には一回、工場に戻んなきゃいけないんで、今は事情の説明と、これからどうすんのか、パパッと……」
「薪拾いのみなさんを呼んできます」
ジョールチがペンとバインダーを置いて雑木林へ走る。
「あ、そうだ。お茶! お茶淹れますね」
ピナティフィダとエランティスが荷台に飛び込んだ。
☆陸路では、湖岸沿いの入り組んだ道を行かねばならず、随分、遠回り……「721.リャビーナ市」参照
☆ピオンさんたちだって、レーチカで留まってた……「698.手掛かりの人」参照
☆僚船も、多くはネーニア島南東部に留まっている……「748.異国での捜索」「749.身の置き場は」参照、「633.生き残りたち」の件は「699.交換する情報」で教えてもらった。
☆大型船が島を周っている……「819.地方ニュース」参照




