824.魚製品の工場
移動販売店見落とされた者の一行が、湾の最奥に位置するヴィナグラート市に到着したのは、一月の末だった。
薬師アウェッラーナが天を仰ぐ。
鈍く曇った空は、今にも雪が降りだしそうだ。
……あれからもうすぐ、一年になるのね。
視線が足下に落ちる。
重い泥の中を歩くような日々だったが、過ぎてしまえばあっと言う間だった。振り返ろうにも、毎日を生き延びるのに必死で、どうやって過ごしたのか記憶があやふやな日々の方が多い。
光福三号で出漁した身内とは、丸一年会えなかった。帰還難民センターの【明かし水鏡】で、生きているのがわかっただけでも有難いが、どこでどうしているか、全く手掛かりがない。
……このまま、一生会えないなんてこと、ないよね?
一族の中でアウェッラーナだけが長命人種だ。
叔父のファウトールはとっくに老人で、兄夫婦と従兄夫婦も、あと数年で年金を受け取る年齢になる。甥と従兄の息子は働き盛りで、アウェッラーナよりもずっと年下だが、外見は倍くらい年上に見える。
戦争から生き延びても、百年足らずの時間が彼らの命を奪ってしまうのだ。
のんびりしていられないが、雪が降れば、捜しに行こうにも移動が難しくなる。そう思うと居ても立っても居られなくなるが、焦燥に駆られるばかりで、どうすれば行方を掴めるのか、名案は浮かばなかった。
……こうやって、地道に尋ねて歩くしかないのね。
いつもと同じ結論に到り、薬師アウェッラーナは顔を上げて港への道を急いだ。隣を歩くレノ店長も、マフラーの上に出た目が暗く沈んでいる。
湾の奥は、湖水を渡る北からの風が岬や小さな半島で遮られ、穏やかに凪いでいた。
漁は未明から夜明けに掛けて行われる。
昼食にはまだ遠いが、水揚げから数時間経つ今は、漁港に喧騒はなく、人々は静かに働いていた。
緑色の髪をきっちりまとめたおかみさんが、開いた魚を手際よく干し網に並べる。
「こんにちは」
「こんにちは。干物欲しいのかい? あっちの工場に売店があるよ」
アウェッラーナが声を掛けると、おかみさんは手を休めずに顎をしゃくった。
「ありがとうございます。それと、人も捜してるんですけど、ネーニア島のゼルノー漁協の光福三号って言う船、みかけませんでしたか?」
「ゼルノー市から避難した身内を捜してるんです」
おかみさんは、湖の民の少女と陸の民の青年の組合せを不思議そうに見た。
「私たち、家が近くて、ウチの船で一緒に避難したかもって……」
「あぁ、ご近所さんかい。そこの工場、逃げてきた人も何人か働いてるけど、どっから来たかなんて知らないよ」
「ありがとうございます。そこの工場ですね」
レノ店長が軽く頭を下げて駆けだす。アウェッラーナは、早口に礼を言って追い掛けた。
案内の看板に従って、工場の裏手に回る。
売店には、干物や燻製、缶詰、小魚や魚卵の瓶詰、塩辛など、たくさんの加工品が所狭しと並び、湾内だけでなく、かなり北まで船を出すのか、アウェッラーナがみたことのない魚もあった。
「魚は割と普通の値段なんだな」
レノ店長が呟く。
値札には、現金価格と交換品の例が併記してあるが、どちらも戦争前のゼルノー市と大差なかった。
工場の裏にある売店は大通りに面し、そこそこの客で賑うが、みんなのんびり品定めしている。ギアツィント市までの道中で見たような殺気立った客は、一人もいなかった。
二人は、なるべく安い缶詰と瓶詰を十三個ずつ買物籠に入れた。流石に買い占めるのはどうかと思い、取敢えず、一人一個ずつだ。
「あら、いっぱい買ってくれるのね。ありがとう」
レノ店長が品出しの係に笑顔を返す。
「頼まれ物なんです。……それと、ここの工場に避難してきた人が働いてるって聞いたんですけど、出身地とかご存知ありませんか?」
「空襲で生き別れになった身内を捜してるんです」
「あらあら……あたしじゃわかんないから、お買物の後で事務所の方へ行ってご覧」
品出しの係は心底、同情した顔で言い、仕事に戻った。
買物を終え、漁港側の事務所に回る。
工場の入口は大型のシャッターで、水揚げした魚を搬入する時以外は下ろしてあった。その横の通用口は狭い扉で、こちらも閉まっている。
アウェッラーナは、レノ店長と顔を見合わせて頷くと、呼び鈴を押した。ずっと遠くでブザーの音が微かに聞こえる。
ややあって、男性の声が応えた。
「恐れ入りますが、干物をお求めでしたら、売店へ回って下さい」
「あ、いえ、お忙しいのにすみません。人を捜してるんです。こちらで、ネーニア島から避難してきた人が働いてるってお伺いして……」
アウェッラーナは、インターホンを切られない内にと早口で捲し立てた。
「お嬢ちゃんの名前は? 誰を捜してるんだ?」
客ではないとわかった途端、横柄な物言いに変わったが、それでも一応、従業員に聞いてくれるつもりらしい。
アウェッラーナは勢い込んで答えた。
「ゼルノー漁協所属の光福三号、船長アビエースの妹アウェッラーナです。兄のアビエースと兄嫁のプルーヴィア、甥のアルンドー、従兄のヘロディウスと妻のイリス、その息子のナウタ、それと叔父のファウトール、全部で七人、みんな湖の民で【漁る伽藍鳥】学派です」
「俺は、ゼルノー市スカラー区の椿屋って言うパン屋の長男、レノです。ひょっとしたら母のファリナも一緒に避難してるかもしれません。母は、力なき陸の民です」
「ウチで雇った避難民は、男ばっかり三人だけで、みんな湖の民だ」
「ゼルノー市の人が居たら、身内の手掛かりを知ってるかもしれないんで、聞くだけ聞いていただけませんか?」
「お願いします!」
二人の必死の頼みに返された声は、明らかに面倒くさそうだった。
「今、仕事中なんでな。昼休みにちょっと聞いてみるから、えーっと船長の妹の……?」
「アウェッラーナです」
「それと、椿屋のレノです」
「アウェッラーナとレノ、な。知り合いかどうか聞いてやっから、一時ちょっと前に出直してくれ」
「ありがとうございます。お忙しいところ、お邪魔してしまってすみませんでした」
「よろしくお願いします」
手っ取り早く追い返す為の断り文句かもしれないが、二人は一縷の望みを託して水産加工場を離れた。
大通りに出て案内板の前で足を止めると、愚痴めいた言葉が転がり出た。
「何だか……疲れちゃいましたね」
「俺もです。今、十一時前……何だかビミョーですね。そこのパン屋さんだけ覗いて、戻りませんか?」
「そうですね。缶詰、重いでしょうし」
レシートの裏に買わなかった品の値段をメモして、通りの向かいにあるパン屋に行った。
小麦価格の高騰で値上がりしているが、材料を仕入れて営業できるだけ、まだいい方だ。値上げ幅も、レーチカやギアツィントのように数十倍と言うことはなく、十倍足らずで済んでいた。
「いや、それでも冷静に考えたら、とんでもない値段だよな」
「何だか感覚がおかしくなりそうですよね」
すごすご店を出た二人と入れ違いに、身形のいい客が入った。
☆あれからもうすぐ、一年になる……第一章 二月一日
☆一族の中でアウェッラーナだけが長命人種……「002.老父を見舞う」参照




