821.ラキュスの水
ファーキル少年と諜報員ラゾールニク、ネモラリス建設業協会の青年が、新年の慈善コンサートの動画を公開して十日余りが過ぎた。
最も知名度の高い“真実を探す旅人”ことファーキル少年が公開した動画への反響が一番大きい。
ラクエウス議員には、何故、同じ動画で数万倍もの差がつくのか、皆目見当もつかないが、何はともあれ、あの歌が多くの人に広まったのは喜ばしかった。
クラピーフニク議員が、ファーキル少年と肩を寄せ合い、説明を受けていた。
「この動画の広告収入は、二カ月後にウェブマネーで支払われます」
「うぇぶまねー……?」
「インターネット上で取引できるおカネで、提携してれば、科学文明国のお店でも使えますし、現地の通貨にも両替できます」
「普通の外国為替みたいに交換レートが変動するの? それとも、固定?」
「変動しますよ。その辺は、マリャーナさんの方が詳しいですよ」
「そうだね。ありがとう。後で聞いてみるよ」
三十代半ばのクラピーフニク議員は、屈託なく笑って中学生の少年に礼を言った。
彼が、アミトスチグマの首都「夏の都」にあるマリャーナ宅に顔を出したのは久し振りだ。普段はラクリマリス王国で活動している。
マリャーナは商社の役員で、湖上封鎖が解消されなければ、貿易が滞って困ると言う理由もあって、ラクエウス議員らの活動に力を貸していた。彼らに住居と食事を提供し、活動拠点として使わせている。
戦争が長引けば、戦争当事国のネモラリス共和国とアーテル共和国、既に巻き込まれたラクリマリス王国だけでなく、周辺国にも更に悪影響が波及し、ラキュス湖南地方全体の不安定化に繋がる惧れがあった。
軍事介入すれば、あっという間に戦火が拡大してしまう。
フラクシヌス教団だけでなく、多国籍企業を中心に、直接の武力に依らずラキュス湖南地方に平和を取り戻す活動に協力する団体や個人は、ラウエウス議員が思うよりずっと多かった。
ラクエウス議員たちは、慈善コンサートの後、難民キャンプでも里謡「女神の涙」の楽譜を配布した。
FMパテンスがコンサートを生中継したが、難民キャンプでは電波が届かない。アンテナ車の手配がつかず、タブレット端末でも奥地では聴けなかった。
……儂らは、晴れた夜に空を見上げれば、聖者様の星を拝めるが、湖の女神を信仰する人々は、こんな内陸に押しやられたのでは心が弱ってしまうやも知れん。
ラクエウス議員はふと気になって、フラクシヌス教徒で主神フラクシヌス派のクラピーフニク議員に聞いた。
「そう言えば、難民キャンプには教会……いや、神殿がないのだが、よいのかね?」
「神殿には、祭壇が要りますからね」
返ってきた言葉は、答えになっているような、いないような、よくわからないものだ。キルクルス教徒のラクエウス議員は困惑し、沈黙した。
クラピーフニク議員が気付き、バツの悪そうな顔で説明する。
「あ、そっか。流石に神殿には入ったことありませんよね。王都の大神殿……スツラーシ様の岩山の奥には、女神の涙が安置されています」
「女神の涙……?」
里謡の題名だ。
「湖の女神パニセア・ユニフローラ様の【魔道士の涙】で、“青琩”とも呼ばれています。水を生み出す術が掛けられていて、ラキュス湖の水位を保って下さってるんです」
「ふむ……クラピーフニク君は、女神の涙を直接、拝んだことがあるのかね?」
ラクエウス議員は、女神の涙“青琩”をバンクシア共和国の大聖堂で祀られている聖者キルクルスの聖遺物のようなものだと解釈した。
フラクシヌス教徒の若手議員が苦笑する。
「僕は庶民で、魔力も弱いですからね。ラキュスの核に入れるのは、ラクリマリスの王族とラキュス・ネーニア家の人たちだけですよ」
「む? そうなのかね?」
「両家の墓所でもありますし、旱魃の龍の【涙】もあるので、自力で身を守れる人じゃないと、乾きにやられてしまうそうですよ」
「なんと……」
どこまでが事実で、どこからが統治の為の方便なのか。
キルクルス教徒の老議員には信じ難い話が飛び出したが、信仰を否定しかねない疑問は辛うじて飲み込んだ。
フラクシヌス教徒の中では、それが「真実」なのだ。
「それで、僕らがお参りできる神殿は、奥に祭壇があって、そこに【魔力の水晶】を奉納して祈りを捧げます」
「力なき民はどうするんだね?」
「魔力の器になる【水晶】を自分で作ったり、買ってきたりして、神殿の入口に置いて、力ある民の信者が魔力を籠められるようにします。勿論、力ある民と一緒に祭壇の前でお祈りできますよ」
ファーキル少年が説明に頷き、ラクエウス議員にタブレット端末を向けた。
「これは……?」
「一般的な神殿の間取図です。入口のとこで【魔力の水晶】が山盛りになってて、力ある民の人はそれをひとつ取って奥まで行って、廊下を歩いてる間に貯まった魔力を祭壇に捧げるんです」
ファーキル少年は、端末をつついて画像を切替えた。
石造りの祭壇に幾つも【灯】が点され、その後ろの泉が淡く輝く。
クラピーフニク議員が画面を覗いて解説した。
「女神の祭壇は湖水を引いてるんです。人工の池を作ってあって、祭壇と池の底に【吸魔】の魔法陣が組込まれています」
魔術に疎いラクエウス議員には、後半がわからなかった。
「捧げられた【水晶】の魔力を大神殿の女神の涙に注ぐ仕組みです。えぇっと、要するに神殿は、女神の涙に信者の魔力を集める大掛かりな設備なんで、作るのが大変なんですよ」
「祭壇も、石に呪文を彫ったりとかして、すぐできないですし」
ファーキル少年が遠慮がちに言い添えた。主神フラクシヌスの神殿も、湖水を引いた池がないだけで、同じ仕組みなのだと言う。
「聖職者は魔術的な設備のメンテナンスがあるので、そう簡単に神殿を放棄して避難できません。地域の信者が一人も居なくなったら、それこそ、命ある限り魔力を注ぎ続けないと、ラキュス湖の水位がまた下がってしまいます」
「なんと……それで、難民キャンプには一人も聖職者が居らんのかね」
ようやく理由がわかり、ラクエウス議員は納得した。同時に、難民キャンプに身を寄せる人々の不安と、ネモラリス憂撃隊に加わりたくなる気持ちも理解し、背筋が凍った。
「確かに、半世紀の内乱中、ラキュス湖の水位が下がったと言う話は耳にしたよ。年を追う毎に低下が進んで……」
「内乱の末期には、元の四十センチくらい下がってたって、周辺国の観測結果が残ってますよ」
ファーキル少年がグラフを表示させた。ラキュス湖南・湖東地方の各国の公的機関が公表した記録を使い、ファーキル少年がまとめたものだ。
「今回も、アーテル軍の空襲で、たくさんの神殿が破壊されました。クブルム山脈に近い都市は立入制限で住民が居なくなっています」
「では、その分、魔力が不足して……」
フラクシヌス教徒の議員に改めてその意味を教えられ、ラクエウス議員は血の気が引いた。
クラピーフニク議員が重い声で続ける。
「聖職者は国内の無事な神殿に異動しましたが、難民キャンプとテント村には、十万近い人々が身を寄せています」
「国内とラクリマリスに居る人たちは、お参りできますよ」
「でも、キルクルス教国として独立したアーテルや、最近、内戦の和平で湖東地方にできたキルクルス教の新興国、ディケアみたいに内戦でキルクルス教徒が勝ったところは、フラクシヌス教の神殿がなくなっていますからね」
ファーキル少年が明るい声で言うと、若手議員は折れ線グラフに厳しい目を向けた。
観測地点別に色分けされた線は、昨年までの百年間の水位の変化を示していた。
半世紀の内乱から六年目に低下が始まり、四十二年目にも大きな低下がある。内乱終結後、数年間は横這いで、その後は少しずつ上がってきた。
直近の十年間に僅かな低下が見られた年もあるが、翌年にはやや持ち直している。しかしそれも、昨年の低下で帳消しだ。
百年を通して見ると、ラキュス・ラクリマリス共和国で勃発した「半世紀の内乱」以前と昨年では、三十センチ余り下がっていた。
「でも、難民キャンプにフラクシヌス教の神殿を建立すると、『アミトスチグマ政府は、難民を森林の開拓民にして、帰らせないつもりなんだ』って思われて、却ってよくないので……」
「ふむ……難しいものだな」
それ以外にも、頭の痛い問題がある。
クラピーフニク議員が溜め息混じりに端末を操作した。
☆フラクシヌス教団だけでなく、多国籍企業を中心に、直接の武力に依らずラキュス湖南地方に平和を取り戻す活動に協力する団体や個人……「285.諜報員の負傷」「424.旧知との再会」「440.経済的な攻撃」「588.掌で踊る手駒」参照
☆ラキュスの核……「684.ラキュスの核」参照
☆【魔力の水晶】を奉納して祈りを捧げます……「542.ふたつの宗教」「543.縁を願う祈り」参照
☆内戦の和平で湖東地方にできたキルクルス教の新興国、ディケアみたいに内戦でキルクルス教徒が勝ったところ……「751.亡命した学者」「752.世俗との距離」参照
☆アミトスチグマ政府は、難民を森林の開拓民にして、帰らせないつもりなんだ……「729.休むヒマなし」「737.キャンプの噂」「768.非現実的な噂」参照




