817.浮かばない案
西グラナート市は、ネモラリス島北西部ヴィナグラート湾の北端に位置する。
小さな港町にも、キルクルス教の教義は無味無臭の毒薬のように漂っていた。
何気ない励ましや、平和を願い希望を語る言葉に織り込まれ、かなり意識して聞かなければそれとわからない。
ソルニャーク隊長たちから祈りの詞を教えられたが、クルィーロは、もう何を聞いても怪しいような気がして、余計にわからなくなってしまった。
「雲の切れ間からさぁっと光が射すみたいに、何か名案を思い付ければいいんだけどねぇ」
「あぁ、丁度あんな感じ?」
「ホントにねぇ」
陸の民のおばさんたちが立ち話をする。
クルィーロは一人が指差した方を見た。
北の空全体が薄く曇り、幾つか分厚い雪雲も漂う。ほんの僅かな隙間から、水平線の辺りに光が落ちていた。
……“一条の光 闇を拓き”か。
クルィーロは「すべて ひとしい ひとつの花」の一節を思い出し、心の中で歌いながら船着場へ向かう。
街のどこを見ても、例年のような新年の晴れやかさはなかった。
東西のグラナート市が、ヴィナグラート湾の北端で湖水を挟んで向かい合う。
チケット売り場には、船会社別で運休のお知らせが貼られ、掲示板が埋め尽くされていた。ダイヤ変更のお知らせが、売り場の壁で風に翻る。
人とバイク、自転車を運ぶ小型フェリーは通常通り運行してるが、トラックが乗れる大型フェリーは、十日で一便に減っていた。
時刻表を見ると、以前は毎日複数の船が出入りしていたが、今は船名の横に「運休」の文字が貼られ、運行している大型船は一隻だけだ。
クルィーロは手帳に書き写し、チケット係に声を掛けた。
「次、車が乗れる船っていつ来ますか?」
「今朝出たとこだからな。天気がよけりゃ、島一周して十日で戻って来るよ」
チケット係は、面倒臭そうに答えた。
「クレーヴェルにも行くんですか?」
「あぁ、荷物のコンテナも運ぶからな。人はその手前の漁港で降ろされるぞ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
クルィーロは、観光客向けの案内板を見て、神殿に向かった。
湖の女神パニセア・ユニ・フローラを祀る神殿は、前庭の半分が仮設住宅のプレハブで埋まっている。参拝客は湖の民が多いが、仮設住宅を出入りするのは陸の民が多いようだ。
神殿に入ろうとする神官を捕まえ、手短に用件を告げた。
「すみません。臨時放送の告知を貼らせていただきたいんですけど、どなたに許可をいただけばいいんでしょう?」
「臨時放送……ですか?」
「FMクレーヴェルです。明後日なんですけど……」
クルィーロは大判封筒から、ピナティフィダたちが手書きしたポスターを出した。
参拝客が集まって来る。
「FMクレーヴェル?」
「首都からこんなとこまで、電波届くのか?」
「いえ、移動放送車なんです」
白髪混じりのおじさんが、緑の眉を下げて質問を重ねる。
「でも、FMじゃあ、難民キャンプのニュースはやらんよな?」
「俺、告知の手伝い頼まれただけなんで、詳しいコトはわかんないんですけど、難民キャンプのハナシも少しあるっぽいコト言ってましたよ」
「ホント? ウチの親戚がどうしてるかわかるかしら?」
「えっ? 俺、わかんないです。ポスター貼るの頼まれただけなんで……」
いつの間にか人垣ができ、クルィーロは湖の民から質問攻めにされた。答えられないことの方が多く、困り果てて神官を見る。
巻き込まれた神官は一瞬、迷惑そうに眉を顰めたが、助け船を出してくれた。
「内容は、聞けばわかるでしょう。明後日の午後三時から……市内なら、どこでも聞こえるのですか?」
「いえ、移動放送車は出力が小さいそうなんで、街の北西だけってコトでした。この神殿だったら、窓開けてればちゃんと聞こえると思います」
「それ、ここに貼ってくれんのか?」
人垣から声が掛かり、湖の民の神官はすっかり諦めた顔でポスターを一枚引き取った。
「神殿の掲示板は役所のお知らせでいっぱいなので、仮設住宅の方になると思いますが、上と相談してみます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
公園の仮設住宅では、集会所にしかラジオがないから、と集会所の掲示板に貼らせてくれた。
「回覧板も回して、みんなが聞けるようにします」
「朝に到る希望の星みたいで、ありがたいです」
「そうそう。希望の星を見失わなければ、必ず朝の光を迎えられますもんね」
「いえ、そんな、こちらこそ助かります。……希望の星を見失わなければ、必ず朝の光を迎えられるって、イイ言葉ですね」
クルィーロが持ち上げると、ボランティアの青年は、照れ臭そうに麦藁色の頭を掻いて笑った。
「僕が考えたワケじゃないんですけどね」
「えっ、じゃあ、誰が考えたんですか?」
……そいつが、隠れキルクルス教徒か、接点ある奴ってコトだよな?
「さぁ? 誰が考えたかまでは知らないんですけど、ボランティアのみんなが言ってるから、僕も何となく……」
「誰が考えたかなんて、どうでもいいじゃない。もうちょっと頑張ろうって思えるもん」
青年とよく似た少女が明るく笑い、クルィーロもつられて頬を緩めた。
とぼけているのか、本当に知らないのか。
知ったところで、クルィーロにはどうにもできない。ただ、この西グラナート市にも、秘かにキルクルス教が蔓延しているのは、確認できた。
彼らは、悪いことを言っているワケではない。
……これ、否定したら、こっちが悪モンになりそうだよな。
クルィーロは、悶々とした気持ちを隠して礼を言い、仮設住宅を出た。
案内板で次の行き先を小学校に決めたが、足が重くなったような気がした。
人々に希望を与えるスローガンを正面から否定せず、キルクルス教の教えに人々の気持ちが傾かないようにするには、どうすればいいのか。
……今はまだ、雰囲気だけだけど、その内ちょっとずつ教えを説いて、信者を増やすんだろうからなぁ。
ソルニャーク隊長たちを見る限り、キルクルス教徒「だから」悪いと言うワケではなさそうだ。ただ、封印の地に近いこの地域で、その教えを厳格に守れば生きてゆけない。況してや、それを他人に押し付けて命を捨てさせるなど、論外だ。
葬儀屋アゴーニが持ち帰った情報では、既にこの小さな地方都市にも、星の標の支部が根を降ろしていると言う。星の標の過激で偏った解釈が広まれば、どうなるのか。
……じゃあ、こっちもさりげなくフラクシヌス教の教えを広める? いやいや、みんな元々フラクシヌス教徒だし、堂々と信心すればいいんだ。
それでは、どうすればいいのか。
神殿、仮設住宅、学校、個人商店、スーパーマーケットにポスターを貼ってもらえたが、名案は浮かばなかった。
☆キルクルス教の教義……「773.活動の合言葉」参照
☆何気ない励ましや、平和を願い希望を語る言葉に織り込まれ……「783.避難所を巡る」参照
☆葬儀屋アゴーニが持ち帰った情報……「808.散らばる拠点」参照




