815.基地への移動
飲み屋街の灯が落ちた。
酔客と夜の商売の者たちが、新年を祝って騒ぐのをやめ、店から吐き出される。
人通りが完全に絶えるのを待って、夜の闇より深い漆黒が動きだす。
細心の注意を払い、LEDの街灯が作りだす不自然に濃い影の中を這わせる。魔哮砲は、ルベルが術で固定した【花の耳】を介して与える命令に従い、アーテル本土の街を移動した。
日付が変わったこんな時間でも、時折、車のライトが通りを照らす。
形を変えた影の中で、変わらぬ闇が露わになった。花弁型の呪具が光を反射し、冷や汗をかく。防犯カメラの目は路地裏までは届かない筈だと自らを励まし、改めて前進の命令を与える。
【索敵】の視界の端、雑居ビルの屋上に人影があった。
つかず離れずの距離を保ってついて来るのは、ラズートチク少尉だ。不測の事態に備え、魔装兵ルベルの【索敵】と、使い魔となった魔哮砲とは別の視点から、周囲を警戒する。
魔哮砲が這った道からは、雑妖が姿を消す。自ら飛び込むように闇の塊へ引き寄せられ、吸収された。既に満腹以上に給餌したが、それでも魔哮砲は食べるのをやめない。
……食欲とは関係ないのかな?
魔装兵ルベルは【使い魔の契約】を結んだ今も、この魔法生物の仕様を殆ど教えられなかった。そんなことを考える間も、雑妖が蠢く闇に触れ、溶け崩れて吸収される。
キルクルス教徒だけが住むこの街は、日の光以外に雑妖を祓う手段がなく、夜の道は足の踏み場もなかった。
数時間前まで居た通行人は、物質しか見えない半視力が多いのか、タブレット端末に夢中だからか、全く意に介さなかった。
どこを向いても雑妖の居ない道はない。
ルベルは、魔哮砲が目的地に着く前に吐かないよう、祈る思いで東へ急がせた。
雑居ビルが立ち並ぶ区画を抜け、小さな民家やアパートの街区に入り、路地裏を這わせる。
襟に着けた【花の耳】に力ある言葉の囁きが届いた。
魔哮砲の聴覚が、後ろを歩く微かな靴音を捉え、使い魔の主であるルベルに届ける。【索敵】の目に人の姿はなく、足音だけがついて来る。【姿隠し】の術だ。
街灯が、寝静まった住宅街を煌々と照らす。
大通りにぶつかり、小さな教会の前に出た。
……あれっ? 居ない?
看板から、保育所が併設されているのがわかった。庭を覗くと、小さな滑り台と砂場が見える。大人の背丈くらいの白塀に囲まれた空間には、雑妖が居なかった。
前の歩道も、一台も通らなくなった車道も、雑妖でいっぱいだ。
そこだけ、ぽっかりと清浄な空間が開いていた。
……キルクルス教徒も、教会くらいは霊的な意味でもキレイにするんだな。まるで【結界】でも……
「あッ!」
思わず声を発し、ルベルは地下街チェルノクニージニクの宿で、口を抑えた。襟に着けた【花の耳】が、イグニカーンス市からの囁きを寄越す。
「どうした?」
「塀に【魔除け】と【結界】があります。えっと……その、教会に……」
「そうか」
ラズートチク少尉の素っ気ない応答で、今はそれどころではないと思い知らされ、魔哮砲を東へ進めた。
民家やアパートに住居兼工場が混じり、東へ進むにつれて住居の代わりに倉庫と車庫が増える。
これまで見たどの建物も新しく小奇麗なのは、半世紀の内乱で破壊し尽くされ、再建されてからの歳月が三十年にも満たないからだ。
東へ進むにつれ、一階が工場で二階が住居の小さな建物が減り、純粋な町工場が増え、規模が大きくなる。
倉庫も大きなものが軒を連ね、車庫には大型トレーラーやトラックが眠る。倉庫の裏で小さな魔物が鼠の死骸を齧っていた。
ラキュス湖らからの風が、電線を甲高く鳴らす。
ラズートチク少尉が、虎落笛に紛れて【姿隠し】を掛け直した。
倉庫街の東は遊休地だ。
枯れ草で埋もれた土地が、フェンスと鉄条網で囲われていた。日射しを遮る物がないお陰で、人が住む場所よりずっと雑妖が少ない。
街灯はないが、半月の光でもそれなりに視界が利いた。
「地の軛 柵離れ 静かなる 不可視の翼 羽振り行く 天路雲路を 縦舞う」
ラズートチク少尉が姿を現し、濃紺のコートを纏う身体が宙に浮いた。高度を上げ、基地を見下ろす。空に舞う魔物が【魔除け】で蹴散らされた。
「這い上がれ」
魔装兵ルベルが、【花の耳】越しに力ある言葉で命令を与えると、闇の塊はフェンスに取りつき、鋭い鉄条網をものともせずに、ぬるりと這い上がった。
「東へ進め」
魔哮砲はフェンスを這い下り、枯れ草の上を流れた。
何の術も掛かっていない単なる金属の棘では、魔法生物である魔哮砲にかすり傷ひとつ与えられない。ミサイルで防空艦が沈められても、無傷でネーニア島に這い上がったのだ。
魔哮砲に踏まれた草が、湖を吹き渡る風に逆らって東へ倒れる。
ラズートチク少尉の調べでは、この遊休地には対人地雷が埋設されているとのことだったが、平たく伸びて体重を分散させた魔哮砲は、ひとつも起爆させることなく、地雷原を抜けた。
基地の手前には直径三メートル程の鉄条網のロールが横たわり、その向こうには高いフェンスが立ち塞がる。
人間……力なき民ならばこれで防げるのだろうが、力ある民は【飛翔】や【跳躍】で易々と超えられる。この世の肉体を持たない雑妖や魔物に対しても意味を成さない。魔獣も、飛べるモノや硬い鱗や分厚い毛皮を持つモノは、意に介さないだろう。
魔術に対して全く無防備なのは、今朝の略奪で明らかだ。
……こんなもので、何から守った気になってるんだろう?
アーテル共和国の仮想敵国は、信仰の違いで袂を分かったネモラリス共和国とラクリマリス王国だ。
ネモラリスは魔法文明よりの両輪の国で、ラクリマリスは巡礼者ように科学文明を取り入れているが、ほぼ魔法文明国。力ある民がその気になれば、素人の寄せ集めでしかない武闘派ゲリラでも、簡単に侵入できた。
昨夏には、素人の集団にアクイロー基地を壊滅させられたにも関わらず、【跳躍】除けの結界ひとつ布いていない。ランテルナ自治区の住民なら可能だが、何故、それをしないのか。
……魔法使いなんて、自国民でも信用できないって言うのか?
魔装兵ルベルは、当たり前の防備さえも放棄させるキルクルス教の信仰が、正気の沙汰とは思えなかった。
……いや、でも、さっきの教会は……?
内乱以前に建てられた力ある民の家を改築したのだろうか。【耐火】や【頑強】が掛かっていれば、破壊を免れられる。
内乱後も重機で壊せなかったから、そのまま使っているのかもしれない。時間がないのでよく見なかったが、住人の魔力ではなく、地脈の力を使う術が組込まれていれば、有り得ないことではなかった。
☆【使い魔の契約】を結んだ……「776.使い魔の契約」参照
☆ミサイルで防空艦が沈められても、無傷でネーニア島に這い上がった……「274.失われた兵器」「279.悲しい誓いに」参照
☆昨夏には、素人の集団にアクイロー基地を壊滅させられた……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照




