805.巡回する薬師
呪医セプテントリオーは半月程前、ソプラノ歌手オラトリックスに【青き片翼】の呪歌【癒しの風】を教えた。
オラトリックス自身は癒し手の資格を失っている為、術を発動できないが、他の者に教えることならできる。彼女はセプテントリオーの歌声をタブレット端末で録音し、楽譜に書き起こした。
協力企業が【歌う鷦鷯】学派の【道守り】、【空の守り謳】と共に印刷し、難民キャンプの集会所と診療所に、使用上の注意と並べて貼り出している。
アミトスチグマの森林を拓いた難民キャンプだけでなく、平野部に急造されたテント村でも同様に呪歌を広める。
やる気と資格、適性のある個人にも配布し、オラトリックスらボランティアの音楽家たちが指導に当たっていた。
その効果が表れたのか、診療所に担ぎ込まれる者が心なしか減ってきたような気がした。
自前の魔力で足りない分は、【魔力の水晶】で補うが、ここ数日は一日の終わりに手つかずの【水晶】が一個か二個残った。
資金不足で【魔力の水晶】は増やせない。
セプテントリオーは治療に追われ、自分が癒した患者を数えられないが、僅かながらも、状況が変わりつつあるのを感じた。
呪歌【癒しの風】は平易な呪文で、魔力と作用力を持つ者が、正しい発音で歌いさえすれば発動できる。子供にもわかりやすい初歩的な術だ。作用力を補う【魔力の水晶】で魔力を外部供給すれば、力なき民でも行使できた。
体表の軽い傷しか癒せないが、代わりに声と魔力が届く範囲内のこの世の生き物すべてを無差別に癒せる。
……そう言えば、「足に材木を落として爪が割れた」と言う患者さんは、来なくなったな。
難民が、自分でできることが増えれば、無力感に苛まれずに済むだろう。
……結婚が遠のくことは、気にしなくてよかったと言うことか。
「遅くなってすみません。お薬できました。……俺、【思考する梟】の薬師です。日替わりで診療所を巡回してます」
第十五診療所の戸口に、アウェッラーナと同じ徽章を提げた陸の民の男性と、どうにか回復したサフロールが来ていた。治療を待つ人々が道を開ける。
二人は段ボール箱と袋を下ろし、作りつけの戸棚に中身を移し始めた。ボランティアのピーヌスも手伝う。
呪医セプテントリオーは、再び【骨繕う糸】の術に集中した。
五人癒し終えた頃、薬品整理の作業が終わり、黒髪の薬師が立ち上がった。
「今回の分は、傷薬と熱冷まし、咳止め、痛み止め、脚気の薬、止瀉薬、皸の薬です。俺や他の薬師が居ない時は、絶対に触らないで下さい。分量や処方を間違えれば、逆に寿命を縮めることもありますから」
「骨折以外の人は、薬師の先生の方へどうぞ。傷薬では骨折を治せませんので、呪医の先生の方へ」
サフロールの言葉に難民たちが素直に従う。
彼は、魔法薬の素材を採りに行って魔獣に襲われた。診療所の敷地には、サフロールが採取した薬草が移植されている。戦争前は製薬会社の薬草園の管理者だったことは、この近くの住民には知れ渡っていた。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
薬師が患者に手を触れ、【白き片翼】学派の【見診】を唱えた。
「怪我だけじゃなくて、糖尿もあるんですね? お薬は?」
「もう……ありません」
「今は材料がなくて作れないんですけど、お薬の名前、わかりますか?」
患者が明るい声で、科学の薬の名称を並べた。
薬師が手帳に控えながら言う。
「いつ手に入るかわかりませんけど、手に入ったら、科学のお医者さんに預けてもらいますね」
「えっ? 薬師の先生じゃダメなんですか?」
中年男性の声が震える。
「それは、科学のお薬なので……テント村には半月に一回、検診車が来ます。お薬がもらえるのは、科学のお医者さんに今の体調……血糖値とかを調べてもらってからになりますね。それまではくれぐれも、怪我に気を付けて下さいね」
「次は、いつ来るんですか?」
「雪が降らなければ、来月半ばくらいだと聞きました」
「科学のお医者さんじゃなきゃ、ダメなんですか?」
患者の声が低くなった。
「私は、糖尿の魔法薬なら作れるんですけど……そのお薬は【飛翔する梟】学派……えっと、そちらの呪医の先生とは別系統の先生でないと使えない……高度な術と併用しないと効果がないんです。今おっしゃったお薬は、科学のお薬なので、科学のお医者さんでないと、分量や組み合わせがわかりませんので……」
患者は無言で傷の手当てを受け、薬師に軽く頭を下げて出て行った。
セプテントリオーが修めた【青き片翼】学派は外科系で、病を癒せないことは伝わっているが、負傷した病人は次々と診療所を訪れる。
骨折の患者も、ひっきりなしに担ぎ込まれた。
「遅くなってすみません。先生方、お昼にして下さい」
湖の民の若い男女が診療所に顔を出した。
「患者のみなさーん、一旦帰って出直すか、寒くても我慢できる方はここで待って下さい」
「ご飯食べないで、休みもなしだと、先生方が倒れちゃうんで……」
ボランティアのコーヌスとティリアが、待合室や外の丸太に腰掛けて待つ人々に声を掛けると、外まで続く行列から三分の一くらいが諦めて抜けた。
今は意識不明の患者はおらず、診療所のベッドは奥の三台しか使っていない。コーヌスが誘導し、治療を待つ者たちを入れ換える。骨折などの重傷患者を優先して【耐寒】の術が施された診療所に残した。
入りきれない軽傷患者は、前庭の丸太に腰を降ろして背を丸める。コーヌスとティリアが空きベッドの毛布を外し、彼らの肩に掛けて回った。
薬師が戸棚に【鍵】を掛ける。
呪医セプテントリオーは、薬師と連れ立って集会所へ向かった。
石材が手に入らないらしく、キャンプ内の道は相変わらず、土が剥き出しだ。
道を守る術で魔物などを除ける結界を巡らせるのだが、術の持続時間は短い。
雪が降れば、その術もままならなくなる。
屋根の雪降ろしなど、頭の痛い問題も降って来る。
……地元のボランティアは、例年、年明け頃から降ると言っていたな。
難民たちは丸木小屋に閉じ込められるだろう。
支援者が毛糸と編み針を配布して、呪符作り以外の仕事を作ってくれたが、それがどのくらい食糧に換えられるのか。
餓死者と凍死者を出さず、この冬を乗り切れるのか。
二人は言葉もなく、急拵えの丸木小屋の間を重い足取りで進む。
呪歌を練習する声が細く高く、難民の住居や木立を縫って届く。
「おっ? 呪医、久し振り」
「アゴーニさん……!」
「お知り合いですか?」
「えぇ。ちょっとした……どうしてここに?」
集会所の前庭で、立ち話の輪から手を振られ、呪医セプテントリオーは小走りになった。同族の葬儀屋アゴーニは、何でもないことのように言う。
「ネモラリス島で、きな臭い噂を小耳に挟んだんでな。こっちでも広まってねぇか、聞き込みしてるとこなんだ」
「どんな噂ですか?」
「続きは中で話さねぇか?」
アゴーニは緑の瞳で辺りを見回すと、集会所に顎をしゃくった。
集会所の一室では、【編む葦切】学派の縫製職人と裁縫が得意な女性たちがせっせと針を動かしていた。
顔見知りになったネモラリス建設業協会のボランティアが、片隅で堅パンを齧っている。
木箱が机や椅子の代わりだ。
診療所以外にはベッドがなく、木箱もあればいい方で、大抵の難民が床に段ボールを敷いた上で毛布に包まって眠ると聞いた。
奥の部屋から呪歌の練習が響く。
室内を見回す葬儀屋アゴーニにも、堅パンと干し肉が配られた。
「あ、俺は持って来たから」
アゴーニが笑顔で断る。
呪医セプテントリオーは、期待を籠めて聞いた。
「ネモラリス島内の食糧事情が、改善されたのですか?」
「いや。悪くなってるな。大きな街じゃ、入荷できなくて食いもん屋が殆ど開いてねぇし、パン屋の兄貴がパンの値段見て目ぇ回したくらい、物価も上がってる」
「どのくらい上がったんですか? 俺、クレーヴェルに帰れなくなって、もう、難民なんだかボランティアなんだかって感じで……」
先に食べていた建設業組合の青年が、話に割り込んだ。彼の胸で木材加工職人の【穿つ啄木鳥】学派の徽章が輝く。
「兄ちゃん、身内はどうした?」
「親兄弟はどうにか脱出して、レーチカから船で王都に行って、ここで合流できました。他の親戚もレーチカまではどうにか……」
「そりゃよかった。俺もレーチカとギアツィントの物価しか知らねぇんだがな。一緒に避難してるパン屋の兄ちゃんは、食パン一斤が元の五十倍からするって、魂消てたぞ」
「五十倍ッ?」
針仕事の人々も、手を止めて湖の民を見た。
葬儀屋アゴーニが、緑色の頭を掻く。
「パンは、特に小麦が値上がりしたからな。こないだの空襲でネーニア島の西側、農村地帯もやられちまったし、この分じゃ、来年はもっと厳しくなりそうだ」
「もう……ここに定住するしかないのかな? 畑拓いて……」
「しッ! 滅多なこと言うもんじゃないよ!」
針仕事の一人がこぼすと、おばさんがすかさず止めた。
☆癒し手の資格を失っている為、術を発動できない/結婚が遠のく…「108.癒し手の資格」「632.ベッドは一台」参照
☆どうにか回復したサフロール……「739.医薬品もなく」「775.雪が降る前に」参照
☆【骨繕う糸】の術……「739.医薬品もなく」
☆【白き片翼】学派の【見診】……「720.一段落の安堵」参照
☆パン屋の兄貴がパンの値段見て目ぇ回したくらい、物価も上がってる……「780.会社のその後」参照
☆こないだの空襲……「757.防空網の突破」参照




