804.歌う心の準備
針子のアミエーラは、後輩が縫い上げた衣裳に思わず溜め息が漏れた。
質のいい生地で、品のいいデザイン通りに仕上げられたからではない。
……とうとう完成しちゃった! これを着て、プロと一緒に歌わなきゃいけないなんて……!
「縫い忘れとか、ありました?」
サロートカの不安な声に慌てて笑顔を繕う。
「ううん、大丈夫。ちゃんとデザイン通りに仕上がってて、もう私が教えられることって、なくなっちゃったなって思って」
「そうですか? でも、まだまだ、わかんないコトだらけなんで……」
「勿論、わからないことは遠慮しないで何でも聞いてね」
実際、サロートカの縫製技術は急激に伸びていた。
毎日の繕い物に加え、大人の古着を解いて子供服に仕立て直すなど、変則的な作業をたくさんこなしたお陰だろう。
難民キャンプの集会所でも、魔法使いの仕立屋や裁縫が得意な女性が、食糧を報酬にサロートカと同じ作業をしている。余り布を縫い合わせて、手袋などの小物やクッションなども大量に作っているが、急増した難民すべてに行き渡らせるには程遠かった。
「じゃあ、ちょっと部屋で試着してきますね」
「はい。待ってます」
アミエーラは、サロートカとボランティアたちに会釈して、作業部屋を出た。
ここは、アミトスチグマの夏の都だ。
支援者のマリャーナが、ラクエウス議員ら、武力に依らず湖南地方の平和を目指す活動をする者たちに、自宅の大部分を貸している。
アミエーラは与えられた客間に入り、後ろ手に戸を閉めた。
気は進まないが、あまり待たせる訳にはゆかない。冬服を脱ぎ、でき上がったばかりの衣裳に袖を通す。
深い草色の長衣は、アルキオーネたち“平和の花束”の衣裳と同じデザインだ。呪文の染めも刺繍もないが、アミトスチグマに古くから伝わる型の長衣は、帯を結んでも身体の線を強調せず、鏡の中で品のいいシルエットを作り出していた。
深い草色に金髪が映えるのは、“平和の花束”のアステローペと同じだが、プロの歌手である彼女とアミエーラでは、身に纏う雰囲気が全く違う。同じ衣裳のせいで、両者の違いは一層、際立つだろう。
袖や裾を軽く引っ張ってみたが、どこにも縫い忘れやほつれ、引き攣れがない。
……ホントに上手くなったわね。
この分なら、リストヴァー自治区に帰っても、アミエーラの後任としてクフシーンカ店長の跡を継ぎ、立派な星道の職人になれるだろう。
サロートカが信仰に疑問を抱いたので、アミエーラはその気があるのか聞いていないが、技術的には申し分なかった。
作業部屋の戸を開けた瞬間、歓声が上がった。
「アミエーラちゃん!」
「あら、ステキー!」
「きれーい」
「似合うわぁ」
別室で歌の練習をしていた“平和の花束”の四人に囲まれた。
針子のアミエーラが面喰らって何も言えずにいると、横から声が掛かった。
「サロートカちゃんが呼びに来てくれたのだよ」
「アミエーラさんの分は、練習がてら、後で【編む葦切】学派の刺繍を入れてもいいでしょうね」
ラクエウス議員と歌手のオラトリックスに言われ、アミエーラは困惑した。
こっそり溜め息を吐き、サロートカに問題なく仕上がっていたことを告げる。後輩はホッとし、手を止めて見守っていたボランティアたちにも笑顔が広がった。
「アミエーラちゃん、折角だし、そのまま一緒にレッスンしましょ」
エレクトラに手を握られたが、まだ心の準備ができておらず、掌に汗が滲んだ。歌手の少女たちだけでなく、講師のラクエウス議員とオラトリックスも乗り気だ。
断れない雰囲気だが、少し落ち着く時間が欲しい。
「あ、あの、楽譜……お部屋に置いてきちゃったので、ちょっと取りに行ってきます」
エレクトラの手をするりと抜け、元来た廊下を引き返した。
ベッドに置いた自分の服を畳んで重ね、小さな書き物机から大判封筒を取る。
中身は楽譜だ。
アサエート村の里謡「女神の涙」は、レコードの「すべて ひとしい ひとつの花」で旋律を覚えていたので、歌詞さえわかれば何とかなる。
他の三枚は、呪歌だ。
半月くらい前、ソプラノ歌手のオラトリックスが、【歌う鷦鷯】学派の【道守り】と【空の守り謳】を譜面に書き起こして、アミエーラに手渡した。彼女は大学や音楽学校には【歌う鷦鷯】学派の魔道書ならあるが、一枚物の楽譜はないと言っていた。
「この呪歌は、あなたの大伯母様もよくご存知です。機会がありましたら、大伯母様とも歌えますよ」
「ついでに、これも覚えていただければ……」
呪医セプテントリオーが【青き片翼】学派の呪歌【癒しの風】を歌ってみせ、オラトリックスはそれも譜面に書き起こした。
どちらの学派も当然、歌詞は力ある言葉だ。
文字の形からして、湖南語や共通語とは全く異なる。
アミエーラは、歌詞の意味を教えられた時の衝撃を思い出し、立ち竦んだ。
「日射す方 光昇れる 東の 一日の初め
輝ける 日輪の道を 天の原
蒼き美空に 障となる いかなるものも あらずして
天路の御幸 塞がれず 地を知ろしめす 日の御稜威
風の通い路 吹き流れ 雲の通い路 流れ往き 鳥の通い路 翔けりゆく
日の光 普く照らす 一日の守り」
歌詞の力ある言葉には、湖南語で読み方が添えてある。
力ある言葉の単語には、祭衣裳の刺繍と同じ物がある。
呪歌【空の守り謳】の湖南語訳は、キルクルス教の讃美歌と同じだった。
子供が五歳になった時に行う信仰の宣誓や、結婚式など、個人のお祝い事で歌う。
オラトリックスが歌ってみせた旋律は、アミエーラが知る讃美歌と全く同じで、疑いようもなかった。
……これも、聖典と同じ……やっぱり魔法が載ってるのを隠して伝えてたのね。
魔物などから集落を守る【道守り】と【空の守り謳】、軽い怪我を治す【癒しの風】の各譜面は、マリャーナの会社が印刷して、難民キャンプでも配布したと言う。
「どれも広範囲に掛ける術ですから、魔力の弱い人では効果が薄くて、これでどのくらい死傷者を減らせるか……」
「でも、何もないよりはずっと安心ですよ。費用対効果については、後で検証しましょう。石材が手に入れば、石碑や敷石で囲んで術の効果を高められますが、費用が高くつく上に、湖上封鎖の影響で輸送が難しくなっていますからね」
支援者のマリャーナが、顔を曇らせたオラトリックスに貿易会社の役員らしいことを言っていた。
アミエーラには、自分にどの程度の魔力があって、これをきちんと歌えば、どのくらいの人を助けられるのか、まだわからない。
……でも、歌うって決めたんだから。
ランテルナ島の拠点で、フラクシヌス教徒のみんなが呪医から【癒しの風】を教わる間、アミエーラは別室で夏服を縫っていた。
……今は、魔法の歌を教わるのがイヤじゃないなんてね。
自分の心境の変化に戸惑う。
平和の花束の四人と一緒に歌うのは「すべて ひとしい ひとつの花」だ。
呪歌は、【歌う鷦鷯】学派の魔法使いオラトリックスと二人で練習する。
……あの子たちはまだ、呪歌を教わる決心がつかないのね。
キルクルス教の信仰を捨てたと宣言しても、彼女たちが次の一歩を踏み出せないのは、力なき民だからだろうか。
……でも、店長さんたちは、歌も呪符もいっぱい練習してたし。
移動販売店のみんなを思い出し、何とも言えない思いで胸が苦しくなる。
アミエーラは、拠点でゲリラに襲われた時、クルィーロが助けてくれたのを思い出した。
彼は魔法使いだが、戦う力を持っていない。呪文を唱える声は震えていた。
「俺の女に手を出すな!」
……あれって、どう言う意味だったのかな?
廊下に響き渡った声は、記憶違いかもしれない。
アミエーラは大きく深呼吸して、練習に行った。
☆アルキオーネたち“平和の花束”の衣裳と同じデザイン……「515.アイドルたち」参照
☆五歳になった時に行う信仰の宣誓……「592.これからの事」参照
☆結婚式……「786.束の間の幸せ」参照
☆魔物などから集落を守る【道守り】と【空の守り謳】/どれも広範囲に掛ける術……野茨の環シリーズの別の話「飛翔する燕(https://ncode.syosetu.com/n7641cz/)」の「37.道守りの歌」「42.空の守り謳」参照
☆ランテルナ島の拠点で、フラクシヌス教徒のみんなが呪医から【癒しの風】を教わる間、アミエーラは別室で夏服を縫っていた……「349.呪歌癒しの風」~「351.手作りの夏服」参照
☆店長さんたちは、歌も呪符もいっぱい練習してた……「296.力を得る努力」参照
☆クルィーロは、拠点でゲリラに襲われた時、アミエーラを助けてくれた……「469.救助の是非は」参照




