798.使い魔に給餌
「では、頼んだぞ」
「ご武運を」
部下の声に、ラズートチク少尉は不敵な笑みを浮かべ、扉を閉める。
魔装兵ルベルは、地下街の宿に一人で残された不安を押し殺し、扉に【鍵】を掛けた。ベッドに腰を降ろして【索敵】を唱え、少尉の後を視線で追いかける。
ランテルナ島の地下街チェルノクニージニクの通路は、酒や夕飯などを求める客や、店を閉めて帰る者たちでごった返していた。
中肉中背で目立たないラズートチク少尉の姿は、一瞬でも目を離せば見失ってしまいそうだ。
移動先は決まっているので、何も今から見守る必要はないのだが、ルベルは気が気でなかった。
少尉が人混みを縫って階段を昇り、地上のカルダフストヴォー市に出た。
地上も帰宅する勤め人と買物客が多い。ラズートチク少尉は、黄昏に染まる雑踏をすり抜け、影が長く伸びる西門をくぐった。
西の湾には夜釣りに向かう釣り人や、魔獣狩りの装備を整えた業者がポツポツ見える。
突然、少尉の姿が消えた。
【跳躍】で移動したのだ。
ルベルは対岸のイグニカーンス市に【索敵】の視線を移した。
北東の外れ、基地に近い街区だ。冬の落日は早く、薄汚れた建物は夕闇に飲まれつつあった。周囲の建物や街灯に灯が点る中、そこだけが暗い。
ラズートチク少尉の調べによると、経営破綻した病院とのことだ。敷地の周囲は工事用のフェンスで囲まれているが、土地の買い手がつかず、解体されないまま何年も経っていると言う。
少尉は打ち合わせ通り、廃病院の最上階、最奥の病室に跳んでいた。
闇に包まれた病室で、形の定まらない雑妖が、トレンチコートに隠された【魔除け】から逃げ惑う。
少尉は内ポケットから、茶色の小瓶を取り出した。
瓶を手にしたラズートチク少尉が、コートの左襟に触るのが、遠くの街灯にぼんやり照らされる。折り返しの裏に着けられた【花の耳】が、ランテルナ島で待つ魔装兵ルベルに声を送った。
「開けるぞ」
「……了解」
返事を送る声がかすれた。
少尉の手が蓋を開け、合言葉を呟く。
手の内に納まる小瓶から、ぬるりと流れ出た闇が床に広がる。
黒インクを流したような闇に薄紅の花弁が一枚混じっていた。
見た目の容量を遙かに超える闇を出し終え、瓶が音を立てて砕けた。
少尉は、小さな布袋と別の小瓶を出し、破片を【操水】で回収する。
闇は力なくだらりと広がり、病室の床を半分以上埋めて停まった。
小さな花弁も停止する。術で固定と補強が施された【花の耳】だ。
ランテルナ島に身を置くルベルは、飢餓状態の魔哮砲の真名を呼び、力ある言葉で命令した。
「その部屋の雑妖を食い尽くせ」
ぐにょぐにょ捕え処のない闇の塊のどこに、どんな耳が付いているのか不明だ。だが、ぐったり広がっていた闇が波打ち、少尉から逃れて隅に固まっていた雑妖を一息に呑み込んだ。
闇の塊が部屋の中を這い回る度に、薄汚い靄や泥のように形を持たないモノや、下手な粘土細工に虫の脚を付けたようなモノたちが姿を消した。
ラズートチク少尉が【暗視】の呪文を唱える。
魔哮砲が再び動きを止めた時には、ひとつの灯もない病室が、心持明るくなったように感じられた。
「次は廊下だ」
少尉の命令を復唱し、魔哮砲に指示を出す。
ルベルの使い魔となった魔法生物は、少尉が開けた扉から廊下に流れ出た。
街灯の光が届かない。
ルベルは【索敵】の視覚に加え、魔哮砲の視野を採り入れた。
どんな仕組みで見えているのか不明だが、魔哮砲の「眼」は、少なくとも複眼ではないらしい。理科で習った「虫の視界」のイメージ図をぼんやり思い出し、「闇を見通す動物の視界」で廊下を確認した。
人の姿はなく、窓ガラスと照明器具は全て壊れ、破片が散らばっていた。
「雑妖を食いながら前進、壁の手前で止まれ」
魔哮砲は“おあずけ”を解かれた犬のように突き当りまで一気に駆け抜けた。闇の塊が通った跡には、雑妖の欠片ひとつ残っていない。
ツマーンの森では【流星陣】に阻まれ、その場で涌いた雑妖を食べて細々と命を繋いでいた。
餌不足で弱っている所に使い魔の四眼狼をけしかけられ、食い千切られた。削られて小さくなった身体は、以前より少ない餌で足りるようになったとは言え、今度は【従魔の檻】に囚われた。
封印から解放まで約十日。
飲まず食わずで放置され、普通の生き物ならとっくに餓死している頃だ。
魔装兵ルベルは、魔哮砲の強靭な生命力を頼もしく思うと同時に、恐ろしくなった。
……でも、俺が「食え」って言うまで、目の前に餌が居ても食えないなんてな。
使い魔として支配を受ける魔法生物が、少し哀れになった。
魔哮砲は、廊下の曲がり角の先を凝視している。
そこもまた、ガラス片や剥落した塗装、空き缶などが散乱し、無数の雑妖が犇めいて足の踏み場もなかった。
「中央階段を降りる。もう少し先、左手側だ」
「了解」
追いついた少尉の指示を魔哮砲に伝える。
魔装兵ルベルはふと、魔法生物に「階段」が理解できるのかと疑問が湧いた。「壁」はわかったようだが、廊下の途中にある階段は認識できないような気がして、命令の言葉に頭を捻る。
「廊下を左へ進め。人間が歩くのと同じくらいの速さで進みながら、雑妖を食べろ」
ラズートチク少尉は、魔哮砲の後ろにぴったりついて歩いてくれた。
魔法生物が命令を忠実に守り、人間の彼と一定の距離を保って進む。
どうやら、方向と速度の概念は持っているらしい。
操手のルベルは、使い魔の視界、左側に注意を向けた。
扉を三つやり過ごすと、急に広い所に出た。
「止まれ」
一旦動きを止めて、辺りを確認する。自前の【索敵】で非常口の案内板とその先の階段を視認し、改めて命令した。
「左に進んで、階段を降りながら、雑妖を食え」
中央階段には、窓がなかった。
澱んだ空気に濃密な霧に似た雑妖が満ち、形を成したモノが階段を埋め尽くす。魔哮砲は、縦に伸び上がり、天井から階段まで届くカーテンのように揺らめきながら進んだ。
踊り場で向きを換える際、視界の端に今しがた降りた階段が映った。すっかりキレイになった階段を人間の足が降りてくる。
「止まれ」
少尉が踊り場に来るまで待たせ、下りの指示を出す。
今夜の作戦は、魔哮砲の遠隔操作訓練と給餌を兼ねている。
飢餓状態からこんなに一気食いさせて大丈夫なのかと心配になるが、ラズートチク少尉が終了の指示を出さないので、操手のルベルは魔哮砲が欲しがるだけ食べさせた。
ラズートチク少尉が下見の際、一階の医局で、からっぽのスチールキャビネットを発見している。
今夜はそこまで最短コースで行き、魔哮砲をキャビネットで食休みさせ、少尉は【鍵】を掛けて単身、ルベルが待つ宿へ戻る手筈になっていた。
……餌やりは思ったより難しくないんだなぁ。
ルベルはふと、魔哮砲の口がどうなっているのか気になった。
魔哮砲の視界では、前方の雑妖は視えるが、食べている姿は見えない。
使い魔の視覚情報を遮断し、自前の【索敵】で前に回った。
……何だ……これ?
魔哮砲の前方には雑妖の群。
床から天井まで広がった魔哮砲には、口らしきものはない。黒いカーテンがゆっくり階段を降りる。形を成すモノも成さないモノも、その闇に触れた途端、溶けるように姿を消した。
ゆらめく闇の幕は、最上階の病室で見た時より、明らかに厚みを増している。だが、角度を変えて見ても、口らしきものは見当たらなかった。
……ひょっとして、全身が口……なのか?
目と耳も、あの闇全体がそうなのかもしれない。
使い魔となった魔哮砲は、主であるルベルに視覚情報を送り、【花の耳】で送った命令を忠実にこなしている。
言葉で指示した命令に従うと言うことは、それを理解できる知能もあるのだ。前任者の操作実績から、ある程度の知能があるのはわかるが、そのレベルまでは教えられなかった。
昔の【深淵の雲雀】学派の研究者が、何をどうして作りだしたのか、ルベルには想像もつかないが、魔法生物は今、確かに存在している。
ラキュス湖を挟み、主と使い魔の距離が遠く隔たっても、術で霊的に繋がった両者は、互いの存在を感じていた。
……遠くに居るのに隣に居るみたいだなんて、何か……変な感じだな。
ルベルの前任の操手も、こんな感じだったのかと思いを巡らせる。
彼は魔哮砲と共に防空艦に乗り組み、甲板上で直接、命令を与えていた。マスリーナ市での魔獣討伐の任務でもそうだ。
魔哮砲の傍に居て、時々闇の塊を撫でていた。
防空艦がアーテル軍のミサイル攻撃を受け、彼は他の乗組員と共にこの世からいなくなった。
取り残された魔哮砲は、どんな想いで陸に這い上がり、ツマーンの森をたった一頭で彷徨ったのか。
次々と雑妖を平らげる魔哮砲を見ながら、物思いに耽るルベルの耳に、ラズートチク少尉の声が届いた。
☆ツマーンの森では【流星陣】に阻まれ……「618.捕獲任務失敗」「704.特殊部隊捕縛」参照
☆遣い魔の四眼狼をけしかけられ、食い千切られた/今度は【従魔の檻】に囚われた……「776.使い魔の契約」参照
☆闇に触れた途端、溶けるように姿を消した……「089.夜に動く暗闇」「126.動く無明の闇」参照
☆彼は魔哮砲と共に防空艦に乗り組み、甲板上で直接、命令を与えていた……「157.新兵器の外観」参照
☆マスリーナ市での魔獣討伐の任務……「227.魔獣の討伐隊」参照




