797.対岸を眺める
今日は、南ヴィエートフィ大橋付近のバス停に来た。
魔装兵ルベルが、ラズートチク少尉の合図で、殆ど口を動かさないように【索敵】の呪文を唱える。
アーテル領ランテルナ島は魔法使いの自治区だが、流石にこんな術の使用を気付かれるのはマズい。言い訳は用意しているが、地元民に気付かれないに越したことはなかった。
すぐ傍で、ラズートチク少尉が新聞のページをめくる音がしたが、術で拡大した視覚を白く巨大な橋に這わせる。
魔法と科学、技術の粋を集めて作られた南ヴィエートフィ大橋は、ランテルナ島からラキュス湖を越えて南へ伸び、大陸本土のアーテル領イグニカーンス市と結ばれている。
冬の薄日は雲に遮られているが、純白の大橋には雑妖や魔物が全く居なかった。
島へ渡って来るのは公営バスと業者の配送トラック、大陸へ渡るのは通勤客を乗せたバスと片手で数える程の自家用車だ。
対岸のイグニカーンス市は、高層ビルが林立し、八車線の道路を絶え間なく車が流れる。オフィス街のビル群は、ルベルがこれまで見たどの建物よりも高かった。
歩道と車道を区切るのは、ガードレールしかない。【魔除け】の石碑や【跳躍】除けの結界石がどこにも見当たらない。ルベルは、魔術的に無防備な大都市に思わず不安になった。
歩道を急ぐ人々は、分厚いコートを着てマフラーを巻いても、湖からの風に背を丸めていた。
大通り沿いのシャッターが上がり、次々とキレイな店が姿を現すが、どの店にも【防火】や【耐震】の呪文や呪印がない。
背の高いビルの隙間は日が射さず、ゴミや吐瀉物が放置された暗がりには、濃い雑妖がこびり付いていた。
……今夜もまた、あれが通りに出てくるのか。
道行くアーテル人は、そんな暗がりには見向きもせず、片手でタブレット端末をいじりながら歩いてゆく。
同じ角度に首を曲げて歩く人々は、時々肩がぶつかるが、互いに無関心なのが不思議だった。
……そりゃ、あんなの見ながら歩いてたら、ぶつかるよな。
何故、前を向いて歩かないのか。
イグニカーンス市のバス停や役所の前には、「歩きながら端末を見るのはやめよう」と言う趣旨のポスターが何枚も貼られているが、誰も気にしていないようだ。
冬至祭がなくなったらしいのも、不思議に思えた。
ほんの三十年前まで、ラキュス・ラクリマリス共和国では、信仰に関わりない地方の伝統行事として、冬至を過ごしていた。
ルベル自身は半世紀の内乱後の生まれだが、今のアーテル領からネモラリス領に移住した軍の先輩や街の人の思い出話なら、何度も耳にしている。
日中は、神殿や教会、湖の畔などの開けた場所で、大きな焚火を囲んで祭歌を歌い、祭衣裳を着た未婚の若者たちは、火の周囲で男女交互の輪になって踊る。
夕暮れには、舞い手がそこから火を採って家々を巡り、蝋燭に灯を点して回る。家族総出で寝ずの番をして、その灯火を夜明けまで守ったものだ、と聞かされた。
一年で最も短い日の長い夜。
お祭りだから夜はご馳走で、子供たちはいつもなら寝かしつけられる時間に起きていても叱られない。その特別な夜が、毎年楽しみだった、と誰もが懐かしげに語っていた。
半世紀の内乱中はそれどころではなく、長命人種の居ないアーテル本土では忘れ去られてしまったのだろうか。
ルベルの故郷アサエート村では、蝋燭ではなく樫の小枝に舞い手が術で【灯】を点して歩き、家族総出で寝ずの番はせず、交代で寝て、誰かが起きているようにするところが違うだけで、後は同じだ。
採火場所が神殿や教会なのは、単に大勢で集まりやすいからだ。
村長の話では、もっと昔は四つ辻や井戸の傍でも篝火を焚いて踊ったらしい。都会では水道が整備され、利用が減ったから、井戸端などではしなくなったと聞いたが、それでもほんの百年くらい前のことだ。
和平案を受諾して国が分かれたのは、僅か三十年前でしかない。
……別に、フラクシヌス教限定のお祭じゃない。いつの昔から続いてんだかわかんない伝統行事なのに、こんな簡単に廃れちゃうもんなんだなぁ。
現在のアーテルでは、冬至が祝日ではないようで、子供たちはいつも通り学校へ行き、大人たちは出勤していた。
夜通し起きている人は居たが、ここ一週間ばかりの観察で、それが毎日のことだとわかった
冬至は一日中、気を付けて見たが、とうとう教会の広場で焚火が燃えることはなかった。
街角に井戸らしきものはみつからず、四つ辻で篝火が焚かれることもなかった。機械の灯……LEDの街灯や店の看板、派手なネオン、電光掲示板などは煌々と点っていたが、それは毎晩のことだ。
アーテルの夜は、祭よりも派手だが、空疎だった。
ネモラリスの都会よりずっと人通りが多く、その足下には雑妖が泥のようにまとわりついていた。
人々は、夜も四角く光を放つタブレット端末を見て歩く。俯いているのに、足下の暗がりで蠢く雑妖の群には見向きもしない。
……あんなとこ、よく平気で歩けるよな。気持ち悪くないのか?
ここ数日の観察で、朝、この道を通った人々の大半は、日没後に同じ道を逆に辿ることに気付いた。
アーテル人も、ネモラリスと同じで、学校や仕事が終われば家に帰る。
当たり前の筈が、彼らの奇妙な行動のせいで、何か不思議なものでも見たような気になった。
学校は冬至の翌日から休みに入ったようで、この時間帯に出歩く子供の数が減っている。
ラズートチク少尉と共にランテルナ島に渡って一週間余り。初日は戸惑っていたルベルだが、若さ故の順応力か、島の暮らしとタブレット端末の扱いにもかなり馴染んできた。
偵察に対する余計な考えを頭から追い出し、任務に集中する。
魔装兵ルベルは、端末に表示させた地図と【索敵】で見ている実際のイグニカーンス市を頭の中で結び合わせた。
バスが、カルダフストヴォー市を発って南ヴィエートフィ大橋を渡り、中心街のあちこちに停まる度に大勢の乗客を降ろす。
ガラガラの車輌は住宅街を抜け、終点とその奥の車庫に到った。折り返すバスもあれば、車庫で待機するものもある。
頭に叩き込んだ路線図を元に、バスのルートを【索敵】の目で追い、画面の地図に重ね合わせた。
バス道沿いの狭い道やビルの隙間、降りた人々が歩いてゆく地下道には、雑妖が汚い靄や泥のように漂う。
……あっという間に満腹になりそうだよな。
魔哮砲は、魔獣を使って削り取られ、数十分の一に縮んだ。
満腹まで食べさせたところで、以前のように一撃でアーテル空軍の編隊を一掃するような広角の面的攻撃はできない。
ガルデーニヤ市の空襲で、国際社会から批難を浴びせられたせいか、あれ以来、空襲は止んでいるが、いつ、また行われるか読めなかった。
魔装兵ルベルは段丘上のイグニカーンス市から、東のイグニカーンス基地に視線を移した。
湖岸に面した低地に広がる空軍基地には、まだ相当な数の有人爆撃機と戦闘機、無人機が残存している。
ルベルの任務は、基地の破壊だった。
☆初日は戸惑っていたルベル……「787.情報機器訓練」参照
☆魔哮砲は、魔獣を使って削り取られ、数十分の一に縮んだ……「776.使い魔の契約」参照
☆一撃でアーテル空軍の編隊を一掃するような広角の面的攻撃……「274.失われた兵器」参照
☆ガルデーニヤ市の空襲……「757.防空網の突破」「758.最前線の攻防」参照
☆国際社会から批難を浴びせられた……「759.外からの報道」参照




