786.束の間の幸せ
薄い雲が空全体を覆うが、風が弱く、肌寒さはそうでもない。
手伝いの人が、調理用の薪を倉庫から運び出す。教会の倉庫には、クブルム山脈で拾った薪が積み上がっていた。
山中の道がゾーラタ区まで開通し、クフシーンカは薄い胸を撫で下ろした。
……間に合ってよかった。
あの湖の民の呪医が言った通り、ゾーラタ区側からも土砂が除けられていたことが大きい。
リストヴァー自治区側から除けた土砂は、東地区での家庭菜園に使うつもりで殺菌の為、土嚢に詰めてシーニー緑地に積んでいたが、東地区の教会と小中学校の校庭、そして団地地区の病院の庭に移動した。
……土嚢を使うようなことにならなければいいのだけれど。
今日はハレの日だ。
胸に立ち込めかけた暗雲を払い、仕立屋の店長は花嫁の控室に向かった。
老いた尼僧と近所の女性が、花嫁に婚礼衣装代わりの祭衣裳を着付けしている。
花の少ない時期だ。クフシーンカは、余り布で拵えた造花の花束を机に置いて言った。
「ウィオラさん、よく似合ってるわ」
「すごくキレイよ」
「彼も惚れ直すわねぇ」
着付けが終わり、はにかむ花嫁を女性たちも口々に褒める。ウィオラは頬を染めて礼を言った。
ウィオラは、二月の大火で身寄りをなくし、その後産まれた赤子も隣人に殺された。クブルム山中で死のうとしたが死に切れず、自治区へ戻って赤子の仇を討とうとしたが、それも果たせなかった。
とうとうラキュス湖へ身投げしたところを助けられた。
彼女を病院に運んだ工員は、頻繁に病床を見舞っていた。
彼もまた、身寄りがない。
傷が癒えた今は、工場の独身寮を出て、ウィオラが以前暮らしたのとは別の仮設住宅に入り、二人で暮らしている。
クフシーンカが人伝に聞いた話では、元々、全く知らぬ仲ではないらしい。
結婚式は、工場長の発案だ。
「あの大火事からこっち、シケたハナシばっかだからな。ここらでパーっと祝い事やってみようや」
東地区のバラック街は、星の標の放火で焼き払われ、まったく別の街に生まれ変わった。バラック小屋は、もうひとつもない。
上下水道が整備され、学校なども建て直されたが、多くの命が失われ、閑散としている。広い道路に車は少なく、再建された商店街は空き店舗だらけだ。
戦争で輸出入も内需も滞り、工場の仕事も減っている。
リストヴァー自治区の暮らしは、外国からの支援が頼りだった。
加えて、神政復古を目指すネミュス解放軍が首都でクーデターを起こし、アーテル共和国への復讐を誓うフラクシヌス教徒のゲリラは「ネモラリス憂撃隊」を名乗り、組織を拡大した。
暗いニュースばかりで、鬱々と過ごしていた人々は、十カ月振りくらいの明るい話題に飛び付いた。本人たちは遠慮していたが、あっという間に話が広まり、婚礼の準備が整えられた。
「このご時世よ。明日はどうなるかわかんないんだし、幸せな時は、誰にも遠慮しないで思い切り喜べばいいのよ」
近所のおばさんが、布の花束を花嫁に手渡す。
化粧品はひとつもないが、若いウィオラの笑顔は、輝くように美しかった。
礼拝堂の扉が開く。
ベンチを埋めた参列者が起立し、声を揃えて聖歌を歌う。
「日射す方 光昇れる 東の 一日の初め
輝ける 日輪の道を 天の原
蒼き美空に 障となる いかなるものも あらずして……」
開け放たれた扉から祭壇前まで、新郎の親代わりは工場長、新婦の親代わりに仕立屋の店長クフシーンカが、若い二人の手を引いてゆっくり歩く。
聖歌は、聖典に共通語で記されているが、この地方では湖南語で歌われる。
「……天路の御幸 塞がれず 地を知ろしめす 日の御稜威
風の通い路 吹き流れ 雲の通い路 流れ往き 鳥の通い路 翔けりゆく
日の光 普く照らす 一日の守り」
新郎新婦を祭壇前に残し、工場長とクフシーンカは最前列のベンチに着いた。
薄暗い礼拝堂で、婚礼衣装代わりに祭衣裳を纏った新郎新婦の周りだけが、明るく見える。
聖歌が終わり、人々が着席すると、司祭の穏やかでよく通る声が、聖典の一節を唱えた。
「道に光ある時も、一時闇に覆われる時も、共に手を取り合って智の灯点し、同じ聖なる星の道を歩むことを誓いますか」
「はいッ! 誓います!」
「誓います」
工員の力強い声とウィオラの控え目な声が、静まり返った礼拝堂に響いた。
「幸いへ至る道は遠くとも、日輪が明るく照らし、道を外れぬ者を厄より守る。道がひととき闇にあろうとも、月と星々の導きを見失わずば、夜明けに至る。いかなる風にも吹き消されぬよう、二人で点し守る愛と智の灯をここに」
司祭に促され、新郎新婦が祭壇の蝋燭から火種を採って、中央のランプに灯を点す。二人がひとつのランプを共に掲げると、参列者から一斉に祝いの言葉が掛けられた。
祝福の中、二人はランプを掲げてゆっくりと扉へ向かう。
参列した人々も、新郎新婦に続いて冬の薄日の下へ出た。
教会の庭には、ご馳走はないが、心尽くしのスープが湯気を立てて待っている。
準備を仕切る定食屋のおかみさんが差配を揮い、参列者に一杯ずつ行き渡った。
貧しい人々は誰もが普段着のままだが、クフシーンカがこれまでに参列したどの式にも引けを取らない立派な祝いだ。
「生きてりゃ色々あるがよ、好いたコと一緒なら、何とかなるって。なっ」
「はいッ! ありがとうございます。頑張ります!」
工場長の励ましに、新郎が元気よく応じた。
同僚がからかい混じりに祝福し、みんなが笑いあう。
「これから愛しい人と共に歩む道は、必ず朝の光に続いていますからね。ウィオラさん、これからも道を見失わないように、彼と点した灯を守ってゆくのよ」
「はい、店長さん、ありがとうございます。何から何まで……」
ウィオラが声を詰まらせ、事情を知る近所の人々ももらい泣きの涙を拭った。
質素ではあるが、晴れやかな笑顔に包まれた式がお開きになる。
片付けを終えた頃には、すっかり日が暮れていた。
「久し振りにいいお式でしたこと。司祭様方、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、幸せのお裾分けをいただいて、何とお礼を申し上げればよいか……」
恐縮する司祭にクフシーンカは微笑を返した。
「お話を進めて、みなさんのお食事代まで出して下さった工場長さんが、一番の功労者ですから」
当の工場長は、一足先に仕事へ戻った。
教会の応接室に居るのは、司祭と尼僧、クフシーンカと新聞屋の亭主だけだ。
「お陰さんで、みんな久々にイイ顔で笑ってたからな。新郎新婦サマサマだ」
おどけて笑った新聞屋が、ふと真顔に戻る。
老いた尼僧も、薄いお茶に視線を落とした。
「この幸せが、いつまでも続きますようにと、お祈りしているのですが……」
「あぁ。どうやらいよいよ、きな臭くなってきたみてぇで……」
つい先日、団地地区の有力者……特に星の標幹部の子供たちが、姿を消した。
魔物による捕食や誘拐ではない。
秘かにリストヴァー自治区を脱出し、自治区外で暮らす星の標団員の手引きでトポリ空港へ向かった。
新聞屋が掴んだ情報はそこまでだ。
子供たちの行く先は、クフシーンカが手に入れた情報によると、ディケア共和国だった。
湖東地方の小国は、昨年、内戦が終結し、キルクルス教徒が政権を握った。まだ、ネモラリス共和国と正式な国交は樹立していないが、民間レベルの交流は始まっている。
「そうは行っても、外の情報が手に入らないことには……」
老いた尼僧が溜め息を吐く。
星の標幹部が、我が子を国外へ逃がした。
その意味するところは、誰の目にも明らかだった。
☆クブルム山脈で拾った薪/家庭菜園に使うつもりで殺菌の為、土嚢に詰めてシーニー緑地に積んでいた……「419.次の救済事業」「453.役割それぞれ」参照
☆ゾーラタ区側からも土砂が除けられていた……「537.ゾーラタ区民」「538.クブルム街道」参照
☆ウィオラは、二月の大火で身寄りをなくし、その後産まれた赤子も隣人に殺された……「294.弱者救済事業」「372.前を向く人々」「373.行方不明の娘」参照
☆クブルム山中で死のうとしたが死に切れず、自治区へ戻って赤子の仇を討とうとした……「405.錆びた鎌の傷」参照
☆ラキュス湖へ身投げしたところを助けられた/彼女を病院に運んだ工員……「406.工場の向こう」参照
☆彼女を病院に運んだ工員は、頻繁に病床を見舞っていた……「418.退院した少女」参照
☆全く知らぬ仲ではない……「420.道を清めよう」参照
☆婚礼衣装代わりに祭衣裳を纏った新郎新婦の周りだけが、明るく見える……「554.信仰への疑問」「555.壊れない友情」参照
☆ネモラリス共和国と正式な国交は樹立していないが、民間レベルの交流は始まっている……「728.空港での決心」参照
☆ネミュス解放軍が首都でクーデター/フラクシヌス教徒のゲリラは「ネモラリス憂撃隊」を名乗り、組織を拡大/星の標幹部が、我が子を国外へ逃がした/その意味するところ……「722.社長宅の教会」~「724.利用するもの」参照




