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すべて ひとしい ひとつの花  作者: 髙津 央
第一章 印歴二一九一年二月一日
8/3406

0008.いつもの病室

 坂の下、湖に面した地区一帯に煙が広がる。


 ……軍隊が、力なき民に負けてるの? そんな……そんなことって……


 定員以上に乗せた自家用車が次々と坂を登って来る。

 坂を下る車は一台もない。

 自転車に老婆を座らせ、荷台とカゴに幼児を乗せ、押してゆく夫婦。その背には大きな荷物。

 両手に荷物を持つ人。子供を背負って荷物を(かか)え、一心に坂を登る人。着の身着のままで駆け上がる人……病院前の急坂は、避難する陸の民でいっぱいだった。


 湖の民は、一人も見当たらない。【跳躍】の術で逃げたのだろう。

 アウェッラーナは目を閉じて、ひとつ深呼吸した。そのまま数秒、息を止め、細く長く吐く。ゆっくり息を吸い、何も見ずに呪文を唱えた。

 「鵬程(ほうてい)()え 此地(このち)から彼地(かのち)へ駆ける

  大逵(たいき)手繰(たぐ)り 折り重ね 一足(ひとあし)()ぶ この身を其処(そこ)に」

 震える声でも術は間違いなく発動し、アウェッラーナの姿が掻き消えた。



 跳んだ先は自宅の前。庭先の筈だった。

 目を開けたが、熱気と眩しさに思わず目を細める。(そで)で鼻と口許を覆い、改めて周囲を見回した。

 家があった筈の場所は、炎と黒煙に包まれている。いや、アウェッラーナの自宅だけではない。周囲の家々も全て炎に呑まれ、無人の道路を(あぶ)る。

 アウェッラーナは諦めて、再度【跳躍】した。



 中央市民病院は、まだ無事だった。救急車がひっきりなしに出入りしている。

 隣の警察署は車両が全て出払っていた。

 病院の駐車場は、自力で(のが)れた怪我人でいっぱい。車の間にも怪我人が(うずくま)る。火傷を負った者が多いが、血を流す者も居た。


 アウェッラーナは怪我人の間を縫って病院の玄関に入った。

 ロビーも待合室も、負傷者でごった返す。焦げ臭さと鉄錆のような血の臭い。廊下に寝かされた重傷者を踏まないよう、足下を見ながら階段へ向かった。


 階段にも怪我人がぎっしり蹲る。湖の民も陸の民も傷付き、疲れきっていた。呻きと悲鳴、泣き声、家族を探し、呼ぶ声が満ちる中、父の病室へ向かう。

 二階の廊下にも負傷者が居るが、一階のように足の踏み場もないと言う程ではない。廊下の奥から二番目の扉を細く開け、病室に体を滑り込ませた。



 父の病室は、いつもと変わりなかった。

 寝間着姿の老人が、動物園の熊のようにうろうろする。父の隣のベッドから、メシはまだか、と呟く声が聞こえた。


 アウェッラーナは足音を殺し、そっと父のベッドに近付いた。

 父はいつものように、起こしたベッドにもたれて座っている。

 窓のカーテンは閉まっていた。

 「……お父さん、お父さん」

 何度も呼び掛けてやっと、父の視線がアウェッラーナに向いた。顔は窓に向けたままだ。外を見たいのかもしれないが、今の街は到底、見せられる状態ではなかった。


 アウェッラーナは肩に通勤鞄を掛けたままだったことに気付き、床に置いた。丸椅子に腰を下ろし、父の手を両手で包む。父は握り返してくれなかったが、その手はあたたかかった。

 「お父さん……」

 何か言おうとしたが、胸が詰まり、代わりに涙が(こぼ)れた。

 アウェッラーナは、外見通りの子供のように泣きじゃくった。(すす)が流れ、涙が黒く濁る。流れる涙で頬が痛む。熱風で火傷をしたのかもしれない。


 室内を徘徊する老人が足を止めた。

 父は何も言わず、アウェッラーナに握られた手を弱々しく握り返した。

 泣き疲れるまで泣いて、やっと涙が止まった。頬を拭った手の甲が黒くなる。


 アウェッラーナは、ベッドの下に置かれた水瓶から術で水を起ち上げ、顔と手を洗い流した。

 部屋の隅へ行き、汚物入れの蓋を開ける。からっぽだ。一先(ひとま)ず、水から汚れだけを抜き、埃を払うように捨てた。

 父の布団をめくる。

 きつい臭気に思わず息が止まる。

 鼻の焦げ臭さに(まぎ)れて気付かなかった。

 ここは、勤務先のアガート病院より早く、入院患者に手が回らなくなったのだ。父も、同室の老人たちも、おむつを替えてもらっていない。


 アウェッラーナは、力ある言葉で水に命じ、ベッドに座ったままの父を洗った。

 「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。

  漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。

  起ち上がり、我が意に依りて、洗い清めよ」

 寝巻きと寝具に浸み込んだ尿が、ぬるま湯に溶け込む。


 アウェッラーナは汚物入れに不純物を捨て、再びうろうろし始めた老人を洗った。同室の老人たちもみんな洗浄し、汚れを抜いた水を水瓶に戻す。

 食事を催促していた老人は、表情を和らげて静かになった。


 カーテンの隙間から外を窺う。

 もう夕方だ。

 黒煙が激しく、すぐ近くの様子しかわからない。

 風向きが変わる度に、駐車場の人々が咳込んだ。


 アウェッラーナは、父の私物入れの引き出しから、マグカップ半分くらいの大きさの水差しを出した。

 冷蔵庫の飲料水を水差しに移す。

 父の頭を支え、むせないように少しずつ、慎重に飲ませる。父はその一杯をゆっくり飲み干した。満足げにホッと息を吐き、目を閉じる。


 ……もしかして、お昼ごはんも食べてないの……?


 アウェッラーナは他の老人たちにも、同じように水を飲ませた。

 安全上の都合で、冷蔵庫には固形の食べ物は入っていなかった。


 ……ごはん、どうしよう? そう言えば、姉さん、どこに行ったの?


 アウェッラーナは途方に暮れた。

 いつもなら父に付き添っている筈の姉が、今日に限って病室に居ない。

 そもそも、父ではなく、姉をアテにしてここへ【跳躍】してきたのだ。

 中央市民病院の職員は、押し寄せる負傷者の対応で他に手が回らない。

 家は焼けてしまった。

 家族と近所の人が、どこへ避難したかわからない。

 湖の沿岸から火の手が迫るが、市民病院との間には公園と四車線の国道がある。


 ……多分、大丈夫。延焼しない。


 内戦の頃どうだったか思い出し、結論を出す。

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野茨の環シリーズ 設定資料
シリーズ共通設定の用語解説から「すべて ひとしい ひとつの花」関連の部分を抜粋。
用語解説01.基本☆人種など、この世界の基本
用語解説02.魔物魔物の種類など
用語解説05.魔法☆この世界での魔法の仕組みなど
用語解説06.組合魔法使いの互助組織の説明
用語解説07.学派【思考する梟】など、術の系統の説明
用語解説15.呪歌魔法の歌の仕組みなど
用語解説11.呪符呪符の説明など
用語解説10.薬品魔法薬の説明など
用語解説08.道具道具の説明など
用語解説09.武具武具の説明など
用語解説12.地方 ラキュス湖☆ラキュス湖周辺の地理など
用語解説13.地方 ラキュス湖南 印暦2191年☆「すべて ひとしい ひとつの花」時代の地図と説明
用語解説19.地方 ラキュス湖南 都市☆「すべて ひとしい ひとつの花」時代の都市と説明
地名の確認はここが便利
用語解説14.地方 ラキュス湖南 地理☆湖南地方の宗教や科学技術など
用語解説18.国々 アルトン・ガザ大陸☆アルトン・ガザ大陸の歴史など
用語解説20.宗教 フラクシヌス教ラキュス湖地方の土着宗教の説明。
用語解説21.宗教 キルクルス教世界中で信仰されるキルクルス教の説明。
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