0008.いつもの病室
坂の下、湖に面した地区一帯に煙が広がる。
……軍隊が、力なき民に負けてるの? そんな……そんなことって……
定員以上に乗せた自家用車が次々と坂を登って来る。
坂を下る車は一台もない。
自転車に老婆を座らせ、荷台とカゴに幼児を乗せ、押してゆく夫婦。その背には大きな荷物。
両手に荷物を持つ人。子供を背負って荷物を抱え、一心に坂を登る人。着の身着のままで駆け上がる人……病院前の急坂は、避難する陸の民でいっぱいだった。
湖の民は、一人も見当たらない。【跳躍】の術で逃げたのだろう。
アウェッラーナは目を閉じて、ひとつ深呼吸した。そのまま数秒、息を止め、細く長く吐く。ゆっくり息を吸い、何も見ずに呪文を唱えた。
「鵬程を越え 此地から彼地へ駆ける
大逵を手繰り 折り重ね 一足に跳ぶ この身を其処に」
震える声でも術は間違いなく発動し、アウェッラーナの姿が掻き消えた。
跳んだ先は自宅の前。庭先の筈だった。
目を開けたが、熱気と眩しさに思わず目を細める。袖で鼻と口許を覆い、改めて周囲を見回した。
家があった筈の場所は、炎と黒煙に包まれている。いや、アウェッラーナの自宅だけではない。周囲の家々も全て炎に呑まれ、無人の道路を炙る。
アウェッラーナは諦めて、再度【跳躍】した。
中央市民病院は、まだ無事だった。救急車がひっきりなしに出入りしている。
隣の警察署は車両が全て出払っていた。
病院の駐車場は、自力で逃れた怪我人でいっぱい。車の間にも怪我人が蹲る。火傷を負った者が多いが、血を流す者も居た。
アウェッラーナは怪我人の間を縫って病院の玄関に入った。
ロビーも待合室も、負傷者でごった返す。焦げ臭さと鉄錆のような血の臭い。廊下に寝かされた重傷者を踏まないよう、足下を見ながら階段へ向かった。
階段にも怪我人がぎっしり蹲る。湖の民も陸の民も傷付き、疲れきっていた。呻きと悲鳴、泣き声、家族を探し、呼ぶ声が満ちる中、父の病室へ向かう。
二階の廊下にも負傷者が居るが、一階のように足の踏み場もないと言う程ではない。廊下の奥から二番目の扉を細く開け、病室に体を滑り込ませた。
父の病室は、いつもと変わりなかった。
寝間着姿の老人が、動物園の熊のようにうろうろする。父の隣のベッドから、メシはまだか、と呟く声が聞こえた。
アウェッラーナは足音を殺し、そっと父のベッドに近付いた。
父はいつものように、起こしたベッドにもたれて座っている。
窓のカーテンは閉まっていた。
「……お父さん、お父さん」
何度も呼び掛けてやっと、父の視線がアウェッラーナに向いた。顔は窓に向けたままだ。外を見たいのかもしれないが、今の街は到底、見せられる状態ではなかった。
アウェッラーナは肩に通勤鞄を掛けたままだったことに気付き、床に置いた。丸椅子に腰を下ろし、父の手を両手で包む。父は握り返してくれなかったが、その手はあたたかかった。
「お父さん……」
何か言おうとしたが、胸が詰まり、代わりに涙が零れた。
アウェッラーナは、外見通りの子供のように泣きじゃくった。煤が流れ、涙が黒く濁る。流れる涙で頬が痛む。熱風で火傷をしたのかもしれない。
室内を徘徊する老人が足を止めた。
父は何も言わず、アウェッラーナに握られた手を弱々しく握り返した。
泣き疲れるまで泣いて、やっと涙が止まった。頬を拭った手の甲が黒くなる。
アウェッラーナは、ベッドの下に置かれた水瓶から術で水を起ち上げ、顔と手を洗い流した。
部屋の隅へ行き、汚物入れの蓋を開ける。からっぽだ。一先ず、水から汚れだけを抜き、埃を払うように捨てた。
父の布団をめくる。
きつい臭気に思わず息が止まる。
鼻の焦げ臭さに紛れて気付かなかった。
ここは、勤務先のアガート病院より早く、入院患者に手が回らなくなったのだ。父も、同室の老人たちも、おむつを替えてもらっていない。
アウェッラーナは、力ある言葉で水に命じ、ベッドに座ったままの父を洗った。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて、洗い清めよ」
寝巻きと寝具に浸み込んだ尿が、ぬるま湯に溶け込む。
アウェッラーナは汚物入れに不純物を捨て、再びうろうろし始めた老人を洗った。同室の老人たちもみんな洗浄し、汚れを抜いた水を水瓶に戻す。
食事を催促していた老人は、表情を和らげて静かになった。
カーテンの隙間から外を窺う。
もう夕方だ。
黒煙が激しく、すぐ近くの様子しかわからない。
風向きが変わる度に、駐車場の人々が咳込んだ。
アウェッラーナは、父の私物入れの引き出しから、マグカップ半分くらいの大きさの水差しを出した。
冷蔵庫の飲料水を水差しに移す。
父の頭を支え、むせないように少しずつ、慎重に飲ませる。父はその一杯をゆっくり飲み干した。満足げにホッと息を吐き、目を閉じる。
……もしかして、お昼ごはんも食べてないの……?
アウェッラーナは他の老人たちにも、同じように水を飲ませた。
安全上の都合で、冷蔵庫には固形の食べ物は入っていなかった。
……ごはん、どうしよう? そう言えば、姉さん、どこに行ったの?
アウェッラーナは途方に暮れた。
いつもなら父に付き添っている筈の姉が、今日に限って病室に居ない。
そもそも、父ではなく、姉をアテにしてここへ【跳躍】してきたのだ。
中央市民病院の職員は、押し寄せる負傷者の対応で他に手が回らない。
家は焼けてしまった。
家族と近所の人が、どこへ避難したかわからない。
湖の沿岸から火の手が迫るが、市民病院との間には公園と四車線の国道がある。
……多分、大丈夫。延焼しない。
内戦の頃どうだったか思い出し、結論を出す。