778.自覚のない傷
話し合いの結果、この休憩所を野営地に定め、明日から三日間、ギアツィント市の様子を見に行くことに決まった。
「知らないとこでも、見える範囲で何度も【跳躍】を重ねれば、行けなくはないんですよ」
「知ってる! お兄ちゃんがしてたもん」
薬師アウェッラーナが言うと、アマナが元気いっぱい応えた。
「クルィーロさん、【跳躍】できるようになったんですね。おめでとうございます」
アウェッラーナが微笑むと、レノの幼馴染は照れて頭を掻いた。
「できるったって、まだまだですよ。知ってるとこでも、見えないとこには跳べないんで、走っても一緒みたいな……」
「そんなコトありませんよ。その内できるようになりますから。練習、ずっと頑張ってらしたんですね」
ランテルナ島のゲリラの拠点……老婦人シルヴァの親戚の別荘に身を寄せていた頃、呪医セプテントリオーと薬師アウェッラーナが、クルィーロに色々な術を教えていた。
子供の頃、魔法の塾をサボってレノと遊び呆けていたクルィーロは、ゼルノー市が焼けたあの日から、隙あらば勉強している。
レノは魔法のことはよくわからないが、それでも、クルィーロがカンペなしで【魔除け】を使えるようになり、以前よりずっとたくさんの水を操れるようになったことくらいはわかる。
……俺は、何ができるようになったんだろう?
一応、【魔除け】の呪文は唱えられるようになったが、発音がイマイチなっていないらしく、呪符がなければ発動できない。レノとクルィーロの発音が、どう違うのかもわからない。
きちんと発音できるようになったところで、力なき民のレノでは、作用力を補うタイプの【魔力の水晶】がなければ使えなかった。その魔力の補充は、力ある民が頼りだ。
北ザカート市の拠点で、拳銃の撃ち方とメンテナンスの仕方は教えてもらったが、今ここには銃がない。
ゲリラの呪符職人に【灯】の呪符の作り方を教えてもらったが、今は材料も道具もなく、あの複雑な月の呪印も思い出せなくなっていた。見ればわかるだろうが、ソラで描ける気がしない。
……あれもダメ、これもダメ。俺、こんなんでピナとティスを守って母さんを捜すなんて無理だ。この間だって……!
首都クレーヴェルで爆発に巻き込まれた記憶が鮮明に甦る。
目は現実の焚火を見ているのに、頭の中は、吹き飛ばされた街並と、血溜まりに倒れたティスの青白い顔でいっぱいになった。今とあの時の映像が脈絡なく重なり、みんなの話し合う声が右から左へ抜けてゆく。代わりに、薬師アウェッラーナの泣き叫ぶ声が、耳の奥にこびりついて離れない。
声も映像もどこか他人事のようで、何もかも現実感がなかった。
「……ちゃん、お兄ちゃん! どうしたのッ? しっかりして!」
いつの間にかピナが目の前にしゃがんでいた。泣きそうな顔でレノの両肩を掴んでいるが、それも膜一枚隔てたように遠い。
「ピナ……いや、何でもない。ちょっと考え事してただけだ」
「お兄ちゃん、はい」
「えっ?」
ティスにハンカチを差し出され、やっと自分が涙を流していることに気付いた。コートの袖で顔を拭って誤魔化す。
「い、いや……悲しいとかじゃなくって、焚火の煙が目にしみただけで……」
「兄ちゃん、風向きはずっとあっちだぞ?」
葬儀屋アゴーニが、北から南へ指を振った。誰も風下に座っていない。
みんなの心配そうな顔に囲まれ、レノは何とか取り繕おうと思ったが、上手い言い訳が出て来なかった。
薬師アウェッラーナが、マグカップを手にトラックの荷台から降りる。
アナウンサーのジョールチが、飲料水の瓶から一杯分だけ水を起ち上げ、薬師に渡した。アウェッラーナがカップに熱湯を注ぐと、嗅ぎ慣れた香りが辺りに広がる。
香草茶だ。
レノの隣にしゃがんでマグカップを渡して言う。
「PTSD……心的外傷後ストレス障害……みなさんもそうですけど、大変な目に遭って、目には見えないんですけど、心にも傷を負ってるんですよ」
「どうしたら治るの?」
ティスが兄の手を握り、薬師に聞く。
アウェッラーナは安心させようとしたのか、微笑を浮かべたが、緑の瞳は悲しみに揺れていた。
「科学のお医者さんには、専門の医師がいらっしゃるんだけど……セプテントリオー呪医が魔法で怪我を治すようには……身体の傷と違って難しいのよ」
「治らないの?」
「それは大丈夫。平和になって、落ち着いて暮らせるようになったら、お医者さんに掛からなくっても、時間が癒してくれるから」
「平和……」
あちこちから同時に呟きと溜め息が漏れた。
今、最も欲しいもので、最も遠い所にあるものだ。
「えっと、今は香草茶や鎮花茶で心を落ち着けるくらいしかできないけど……みなさん、遠慮しないでおっしゃって下さいね。無理が一番いけませんから」
薬師の言葉にみんな頷いたが、どこかぎこちない。
……俺、そんな無理した覚えないんだけどな……?
自分の心がどうなってしまったのかわからない。
レノは、香草茶の香気を胸いっぱいに吸い込んで、薬師に礼を言った。
話し合いが再開し、明日以降の予定が決まる。
初日は葬儀屋アゴーニ、薬師アウェッラーナ、DJレーフの三人だけで行く。
二日目からは、【魔力の水晶】を使って力なき民を一人ずつ同伴する。ソルニャーク隊長だけでなく、クルィーロたちの父パドールリクも手を挙げた。
「仕事は辞めましたが、元同僚たちが気になります。それから、先に行った人たちの方が詳しいでしょうから、話を聞いてきますよ」
パドールリクの元勤務先の本社は、首都クレーヴェルにあったが、クーデターの勃発を受け、ギアツィントで倉庫を間借りして、事務所兼社宅として使っていると言う。
「お知り合いがいらっしゃるんですか? 質問して欲しいことがあるのですが、お願いしてもよろしいでしょうか?」
パドールリクは、国営放送アナウンサーの頼みを快く引き受けた。
ジョールチ自身が情報収集しに行くのは、首都でのゲリラ放送の件もあり、危険だ。全国ネットのニュース番組を担当していたアナウンサーの声は、どこへ行っても目立ってしまう。
レノは少し考えて手を上げた。
母がネーニア島のどこかに居たとしても、ガルデーニヤの空襲後、ネモラリス島に渡ったかもしれない。ネーニア島に最も近いのは、ギアツィント港だ。
「俺も、お願いします。母を捜したいんです」
「お兄ちゃん、無理しないで。私が……」
「もう大丈夫だ。それより、ティスと一緒に居てやってくれ」
香草茶の力を借りてきっぱり言い切ると、ピナはそれ以上言わなくなった。
☆老婦人シルヴァの親戚の別荘に身を寄せていた頃……「354.盾の実践訓練」「391.孤独な物思い」参照
☆拳銃の撃ち方とメンテナンスの仕方は教えてもらった……「397.ゲリラを観察」参照
☆ゲリラの呪符職人に【灯】の呪符の作り方を教えてもらった……「399.俄か弟子レノ」参照
☆首都クレーヴェルで爆発に巻き込まれた/薬師アウェッラーナの泣き叫ぶ声……「710.西地区の轟音」「713.半狂乱の薬師」参照
☆ギアツィントで倉庫を間借りして、事務所兼社宅として使っている……「687.都の疑心暗鬼」参照
☆首都でのゲリラ放送……「690.報道人の使命」「708.臨時ニュース」「711.門外から窺う」参照




