775.雪が降る前に
もう十二月だ。
二月以来、一日も気が休まる日はなかった。
呪医セプテントリオーは、【跳躍】で診療所の裏庭に出た。
葉を落とした枝に区切られた薄曇りの空を見上げ、湖の女神パニセア・ユニ・フローラに、心穏やかに過ごせる日の訪れを祈る。
ここはアミトスチグマの内陸部、広大な森林を拓いて作られた難民キャンプだ。ラキュス湖は遙か北西で、キャンプからはその輝きが見えない。
セプテントリオーは、有力者の家で世話になる身だ。支援者宅は、湖岸の夏の都にあった。難民キャンプには【跳躍】で通い、毎日朝夕、ラキュス湖を見られるが、難民たちはずっと内陸の森の中に居る。
……それも、不安のひとつなのかもしれないな。
ネモラリス共和国は島国で、大抵の街は湖岸にあり、ラキュス湖を見ない日はない。敬虔なフラクシヌス教徒は毎朝、湖に今日の無事を祈り、夕べには水の恵みに感謝を捧げる。
診療所の裏庭から表に回ると、既に丸太を並べただけのベンチはいっぱいで、柵の外にまで人が溢れていた。
呪医は、改めて難民キャンプの診療所を訪れた患者たちを見た。
表情の乏しい顔が並ぶのは、傷や病のせいばかりではない。戦乱を逃れ、住み慣れた土地を離れ、信仰の対象からも引き離された。
拠り所を奪われた人々の心が萎れ、不安定になるのも無理はない。
呪医セプテントリオーは、第十五診療所を中心に近隣の診療所を数日毎に巡回する。初めて訪れた時は、ここが森林を切り拓く最前線だったが、一月も経たない内に森が拓かれ、今は第十七診療所まであった。
それでも、急増した難民に対して住宅が足りない。
パテンス市と難民キャンプの間にテント村ができたが、護りの術が掛かったテントも不足し、一張りに数世帯が押し込まれているとのことだ。
人道憲章と人道対応に関する最低基準から遙かに遠く、人間の尊厳も何もあったものではないが、これが現実だった。
「呪医、ありがとうございます」
「傷は癒しましたが、二、三日は安静にして下さい。お大事に」
骨折の治療を終えた呪医の手の中で、またひとつ【魔力の水晶】が輝きを失った。魔力を使い切った【水晶】を箱に戻し、別のひとつを手に取る。
魔力は、診療所に近い住民たちが補充してくれるが、毎日数十個使い潰す現状は、頭が痛かった。
伐採、材木の運搬、建設中などに事故が起きる。
専門家が足りず、素人の難民自身が専門家の指導の下、丸木小屋を建てる為、骨折などの負傷者が後を絶たない。
それに加え、魔物や魔獣に襲われた者や、転んで骨折した老人なども毎日のように運び込まれる。
ただひとつ、幸いだと思えるのは、自分たちの手で自分たちの住まいを建てられる、と言う「やりがい」があることだけだ。
長期に亘る一方的な援助で「可哀想な弱者」扱いされ続ければ、自尊心が失われ、平和になった後も自立した生活ができなくなってしまう惧れがあった。
呪符作り、家屋の建築、狩り、薪拾い、薬草の採取など、難民たちは傷付いても命を落としても、与えられた仕事や、自分たちで暮らしを支える仕事を辞めることはなかった。
「呪医、大変だ!」
「すぐ診て下さい!」
若者たちが血相を変えて診療所に飛び込んできた。順番待ちの患者たちが痛む身を引きずり、のろのろ場所を空ける。
呪医セプテントリオーが尋ねるより先に血塗れの男たちが担ぎ込まれた。
ボランティアのコーヌスとティリアが、水瓶から水を起ち上げ、負傷者を一人ずつ洗う。一人洗う度に水を沸かし、不純物を取り除く。澄んだ熱湯を冷却して、また次の血と泥に塗れた患者を濯ぐ。
汚れが除かれた傷は、明らかに食い千切られた痕だった。清められた傷から血が溢れて止まない。
「身のほつれ 漏れだす命 内に留め 澪標 流れる血潮 身の水脈巡り 固く閉じ 内に流れよ」
先に全員の出血を止めると、患者を運んできた若者たちに安堵が広がった。
「この人たち、自警団なんだ」
「怪我はしたけど、十五人みんな生きて帰れた」
「魔獣は何とかやっつけたから、安心してくれ」
自警団が口々に言い、場の緊張が少し和らいだ。
待合室から声が上がる。
「俺は命に別条ないんで、先にその人たち治してやって下さい。……なっ、みんな、いいだろ?」
同意の声が次々送られ、外の丸太に腰掛けて震える者たちも大声で応じた。
「ご協力、ありがとうございます。……それでは、あなたから」
若者たちが呪医の指示を受け、腿を食われて骨が露出した男性をそっと診察台に寝かせる。
呪医セプテントリオーは、自警団たちの胸元に目を遣った。人数は増えたが、相変わらず、【急降下する鷲】などの魔物や魔獣と戦える学派の術者は居なかった。
サロートカが、「難民の人たちのことをよく見て、愚痴とか不満とか、診療所で待ってる間に言ってることに気をつけて、後でみんなに教えて下さいってラクエウス先生が言ってました」と言っていたが、とても待合室の会話に耳を傾ける余裕はなかった。
やっと一息つけたのは、午後、科学の内科医が巡回してきてからだ。
「抗生物質と鎮痛解熱剤、それと止瀉薬しかないんですけどね」
女医と看護師がリュックサックを下ろし、入院患者に点滴する。今日の自警団はベッドが足りず、床に置いた段ボール箱に毛布を敷いて寝かされていた。
薬草採りのサフロールは、時々意識を取り戻すが、熱が上がったり下がったりで一進一退だ。
二人がサフロールと自警団に点滴を打ち終え、溜め息を吐く。
「食べ物が充分あれば、自前の免疫で、もっとなんとかなるんですけどね」
呪医セプテントリオーは、薬罐をひっくり返した火傷患者を癒して頷いた。
「これから先の季節……感染症の流行が心配です。【青き片翼】の私では、癒せませんから」
「私たちも薬が足りなくて、これ以上は……栄養失調と、慣れない作業の疲れとストレス……心配なことばかりでホント……」
「でも、医師、冬服はギリギリ間に合いそうですよ」
看護師の明るい声に、呪医セプテントリオーと科学の内科医は、改めて治療を待つ人々を見た。
……そう言われてみれば、先週くらいまでは半袖の人も居たような……?
クーデターから逃れてきた者の内、力なき民たちは、少し前まで寒さに震えていた。今は、長袖のトレーナーやセーター、厚手のコート……少し古びてヨレているが、一応、冬らしい服装ばかりだ。尤も、最近来た者たちは、着の身着のままで焼け出され、元より冬服しか持っていない。
待合室の患者から声が上がる。
「この辺は内陸で、夜は底冷えするけど、雪はいつも年明け頃まで降らないそうなんで、何とか間に合ってくれればいいんですけどね」
「そうですねぇ……」
みんなが同じ気持ちで頷き合い、治療を再開した。
夕飯の席で報告すると、ラクエウス議員に労われた。
「お忙しい中、よくぞそれだけの情報を拾って来られましたな。ありがとうございます」
「いえ、些細なことばかりで……」
恐縮すると、キルクルス教徒の老議員とアサコール党首が、同時に首を振った。
「些細なことではありませんよ」
「……ふむ。マリャーナさん、例の件はどうなりましたかな?」
老議員が話を振ると、この家の女主人はフォークを置いて頷いた。
「毛糸の買い付けは予定通り済みました。編み針と一緒に明後日から順次、キャンプにお届けします」
「恐れ入ります」
議員たちが礼を言うと、針子の二人が顔を綻ばせた。
「これでマフラーとかできますね」
「毛糸の靴下があれば、寝やすくなります。ホントにありがとうございます」
アミエーラの礼に女主人マリャーナは、鷹揚に頷いて緑青パンを手に取った。
「病気が流行れば、損失が大きくなりますからね。こちらこそ、ご提案ありがとうございました」
「でも、編み物のお手伝い、できなくてすみません」
アミエーラが恐縮すると、マリャーナは緑の瞳に微笑を浮かべて言った。
「難民の方々に自分で編んでいただくことに意味があるのですよ。あなたには、あなたの役割があります。衣裳作りと歌の練習を頑張って下さいね」
「歌の練習?」
セプテントリオーが思わず呟くと、針子のアミエーラは頬を染めて俯いてしまった。金の髪が顔を覆う。
代わりにアルキオーネが胸を張った。
「今度の動画、私たちとアミエーラさんの五人で歌うんです」
「あ、あの、私、素人だし、お断りしたんですけど、その、えっと……」
当のアミエーラは耳まで真っ赤になるが、針子見習いのサロートカが得意げに言った。
「自分の衣裳を自分で縫うのはヘンな感じがするって言うから、アミエーラさんのは私が縫ってるんです」
「衣裳ができるまでは、私たちとレッスンなのよね」
アステローペが、アミエーラの肩に手を置いてにっこり笑った。
タイゲタが空になったスープ皿を脇に押しやり、呪医の緑の目を見て説明する。
「アミエーラさんは、ニプトラ・ネウマエさんの親戚です。ニプトラさんが、ネモラリスとラクリマリスで人気なのは、ご存知ですよね?」
「え……えぇ。半世紀の内乱前にデビューしたソプラノ歌手で、当時から人気がありました」
セプテントリオーは芸能関係に疎いが、そんな彼でも、名と歌声を知っている程の有名人だ。
「だから、彼女と私たちが一緒に歌うことに意味があるんです」
「どんな意味があるのですか?」
セプテントリオーには、眼鏡の少女が何を考えているのか、全くわからない。
レンズの奥でじれったそうに目を細め、タイゲタは改めて説明した。
「アーテル出身の私たちと、ネモラリス人の彼女……ラクリマリスでも注目度の高いコが、ラジオで途中になっちゃった曲を一緒に歌うんですよ? ネット環境がある人たちは、きっと動画を見てくれます」
「アクセス数を稼げれば、それだけ広告収入が上がって、食糧とか……おカネで何とかなる問題は、ちょっとマシになります。俺も動画の拡散、頑張りますし」
ファーキルが付け加えると、エレクトラが顔を上げられない針子を労わる。
「アミエーラちゃん、客寄せだと思って気を悪くしないでね。あなたがあなたであることに意味があるのよ」
「私……?」
「そうか……民族融和の象徴ですね」
やっと理解した呪医が先回りすると、サロートカが声を弾ませた。
「流石センセイ、年の功ですね」
「今は彼女ら五人だけだが、『すべて ひとしい ひとつの花』の歌詞が定まれば、湖の民やフラクシヌス教の各宗派の者との合唱も計画しておる」
長命人種のセプテントリオーは、ラクエウス議員の計画で、かつて耳にした「神々の祝日のメドレー」を思い出した。
☆初めて第十五診療所を訪れた時……「738. 前線の診療所」参照
※人道憲章と人道対応に関する最低基準……詳細は「スフィア基準」で検索。リアルでは1998年に作成された。
☆「神々の祝日のメドレー」……「310.古い曲の記憶」「294.潜伏する議員」参照




