768.非現実的な噂
老議員が縫製作業室に入ってきた。
「儂も休めと言われたんだが、どうにも落ち着かなくてな。何か手伝わせてくれんかね」
「ラクエウス先生、でも……」
針子のアミエーラが、旧知の国会議員を気遣う。
ラクエウス議員は、抱えていた紙袋の束を針子に差し出して言った。
「この歳だ。針に糸を通すのは無理だが、畳んで片付けるくらいはできるぞ」
「えっと、じゃあ、こちらへ……」
アミエーラが恐縮しつつ、ラクエウス議員に席を勧め、紙袋を受け取った。
ファーキルは、老議員が腰を落ちつけたのを見届け、針子見習いサロートカへの質問を再開した。
「えっと、さっきの続きなんですけど、みんな何て言ってます? 不満とか」
「新しく来た人たちが、ネモラリス軍が負けたのを伝えて、みんな暗い顔してましたよ」
「まぁ、そりゃ、言うわよね。知り合いが居たら、フツーに、どうしたのって聞かれるでしょうし」
アルキオーネが、サロートカの答えに相槌を打ち、ボタンを付け終えた服を広げて畳み直す。
ファーキルも、絶望的な情報を隠し通せるとは思っていない。
不安や悲しみが難民キャンプに広がり、怒りと憎しみに変わることが怖かった。
「パテンス市に近い集会所には、タブレット端末を置いてますし……ガルデーニヤ市出身の人が、ヤケにならないか心配です」
ファーキルが懸念をこぼすと、ラクエウス議員が、繕い終えた服を紙袋に入れる手を止め、一同を見回した。
「何の話をしておったのだね?」
「難民キャンプの様子を教えてもらってたんです」
「そうかね。儂も昨日、行ったばかりだが、よくない噂が広まっておったな」
老議員が長く伸びた太い眉を下げる。
「よくない噂ってなんですか?」
ファーキルが聞くと、老議員は溜め息混じりに答えた。
「定住の噂だ。アミトスチグマ政府が、難民を森の開拓民にしようとしているなどと……」
「あ、それ、私も聞きました。職人さんとか、何か技術持ってる人は、魔法で足止めされて、帰国できなくなるとか何とかって」
サロートカが付け足すと、みんなの針が止まった。
タイゲタがそっと眼鏡を外して拭き、誰にともなく聞く。
「そんなことって、できるんですか?」
今、ここに居るのは、魔法を使えない者ばかりだ。
リストヴァー自治区出身のラクエウス議員が、首を横に振った。
「確かに、アミトスチグマ政府にはその意向がある。それは否定せんが、無理に留めたのでは不満が燻り、後々禍根となる。政府の担当者は、来る者拒まず去る者追わず、と言っておったが……」
「じゃあ、親切な人が魔法で外国に連れ出して、“帰れなくする魔法”をどうにかしてからキャンプに戻して、自分でネモラリスに帰れる人を増やしてるって言うのは……?」
サロートカが、自分でも理解できていない噂話を自信なさそうに語った。
アルキオーネが首を傾げる。
「何それ? 大体、魔法で“ネモラリスに帰れなくする”なんて、できるの?」
「アサコール党首の話では、不可能ではないらしい」
「ホントにできるんですか?」
驚く若者たちに、ラクエウス議員は重々しく頷いた。
「何でも、【制約】と言う術で、特定の行為を禁止できるらしい」
「えぇッ?」
「ホントですか?」
「儂も詳しくは聞いておらんが……禁止する側とされる側で、魔力の力比べになるらしい」
この中で最も魔術の知識があるファーキルは、キルクルス教徒の老議員が語った説明に頷いた。
「術者の魔力が弱かったら、“ネモラリスへの【跳躍】禁止”を振り切られちゃうんですよね」
「そうだ。それに、誰でも簡単に使えるものではなく、大勢の難民一人一人に魔法で禁止して回るのは、非現実的だとも言っておった」
アサコール党首ら、力ある民の国会議員たちが、キャンプの視察ついでに噂を否定して回ったと言う。
アルキオーネが針山に縫い針を戻し、ラクエウス議員に険しい顔を向けた。
「でも、人は自分の信じたいことしか信じません。それが、どんなに非現実的でも……」
「そうかな?」
エレクトラが首を傾げ、七人を不安げに見回す。
アルキオーネは、黒い瞳に強い光を湛え、きっぱり言った。
「否定すればする程、『やっぱりホントのことだから、火消しに必死なんだ』って思われるのよ」
「って言うか、どうしてそんな噂が?」
「外国に連れ出すってどこに? ラクリマリス? でも、折角出たのに、またキャンプに戻すってヘンじゃない?」
タイゲタとアステローペの質問が、気マズくなりかけた空気を変えた。
それに答えられる者はなく、沈黙が続く。
ファーキルの頭の中で、不意に情報が繋がった。
「……シルヴァさんだ!」
「えっ?」
アミエーラが、ファーキルに向けた顔は引き攣っていた。
……あれっ? フィアールカさんたちから聞いてないのかな?
少なくとも、アルキオーネたち平和の花束は、葬儀屋が調べた件を知らされていないだろう。情報量の差を埋める。
「この間、フィアールカさんが、アゴーニさんから聞いたそうなんですけど……」
「アゴーニって誰?」
アルキオーネから不機嫌な声が飛ぶ。
……あっ、そこから説明が要るのか。何て言おうかな……?
ファーキルは困ってアミエーラを見る。先に彼と知り合った針子が、代わりに説明してくれた。
「ゼルノー市の葬儀屋さんです。セプテントリオー呪医の知り合いで……えっと……」
アミエーラもそこで詰まり、ファーキルにどうしたものかと視線を寄越す。アルキオーネが眉を吊り上げ、指先で作業机をコツコツ叩き始めた。
☆パテンス市に近い側の集会所には、タブレット端末を置いてます……「402.情報インフラ」参照
☆定住の噂……「737.キャンプの噂」参照




