729.休むヒマなし
目の奥には、まだ文字列の残像が滲んでいた。
明かりを落とした部屋にはファーキル一人だが、会ったことのない人々が頭の中でアンケートを読み上げているような気がして、なかなか寝付けない。
……早く寝なきゃ。
何度も寝返りを打つが、怒りに震え尖る文字、悲しみに滲む文字、苦しみに萎縮した小さな文字、幼く拙い文字、高齢でふらつく文字、傷の癒着で上手く書けなくなった文字が書いた人々の声に変わり、残響となって頭の中を駆け巡るのを止められない。
ファーキルはアミトスチグマに来てから毎日、忙しかった。ネモラリス共和国から逃れた難民へのアンケートが始まってから、何日経ったのかもわからない。
昼食で一時間休む他はトイレに行くくらいで、ファーキルは毎日十時間以上、入力している。
アミトスチグマ人の協力者が二人、都合のいい日に数時間ずつ手伝ってくれるが、それでもまだまだ終わらなかった。
眠気の芯が残る頭でぼんやり朝食の席に着く。
「ファーキルさん、それ、カラシです!」
アミエーラの声で動きが止まる。手許を見ると、ソーセージ用の粒マスタードをパンにたっぷり塗っていた。
「あっ……これは……その、眠気覚ましに丁度いいかなーって……あはは……」
笑って誤魔化して瓶の蓋を閉め、パンに齧りつく。鼻の奥にツンとした刺激が抜けて涙が滲んだ。無理矢理飲み下し、口直しにミルクティーをガブ飲みしたら、盛大にむせた。
呪医セプテントリオーが【操水】の術で飛び散った紅茶を回収し、鼻に入った分まで取り除いて心配を口にする。
「少し、休んだ方がいいのではありませんか?」
「すみません。でも、大丈夫ですよ。さっきはちょっと考え事してただけで……」
アミトスチグマの支援者宅で食卓に着く十二人は、納得いかない顔をしたが、それ以上言わずに食事を再開した。
ラクエウス議員が、パンをスープに浸して食べながら言う。
「コンピューターの扱いと言うのは、なかなか骨が折れる作業らしいな。ジュバーメン議員に頼んで、人と機械を回してもらうとしよう」
「えっ……そんな大変じゃないんで、大丈夫ですよ」
ファーキルは慌てて言った。
……アミトスチグマの国会議員の人に何かしてもらったら、オオゴトになり過ぎるって言うか、何か違う気がするし。
中学生のファーキル……しかも、アーテル人の思いつきで、ネモラリス共和国の関係者だけでなく、アミトスチグマの偉い人まで動いてもらうのは、あまりにも申し訳ない気がした。
「ジュバーメン議員に手助けしてもらうのを引け目に感じるのかね?」
……だって、これ、ネモラリスとアーテルの戦争なのに。
アーテル・ラニスタ連合軍の無差別爆撃で難民化したネモラリス人が、アミトスチグマに受け容れてもらえただけでも、充分過ぎるくらい迷惑を掛けているし、有難いことなのだ。
老議員は、ファーキルが思いもよらなかったことを言った。
「だが、これはアミトスチグマ政府にとっても利益になる事業だ。気にせんでいい」
「アミトスチグマの利益……ですか?」
「森林の開拓民を欲しがっておるのだよ。難民キャンプの人々の何割が、どのような理由で残るかは、アミトスチグマ政府にとっても重要な情報だ」
ラクエウス議員が、中学生にもわかりやすい言葉で説明すると、治療ボランティアで難民キャンプに通う呪医セプテントリオーが肩を落とした。
「やはり今回の戦乱も、帰れない人が出るのですね」
「だが、帰れないにせよ、帰らないにせよ、必要な支援を把握しておくに越したことはありませんからな」
「それは否定しませんが……遣る瀬ないですね」
キルクルス教徒の老議員が、湖の民の呪医と普通に話をするだけでも「凄い事」だが、この家で世話になっている者たちは、すっかり慣れっこになっていた。
家主である湖の民の女性が、召使にお茶のおかわりを命じて退がらせる。
「科学文明国のような環境破壊を起こさず、持続可能な方法で森を開拓できれば、我が国の経済は大いに潤いますからね」
「アンケートで、儲かるんですか?」
呪医が連れてきた自治区民の少女が首を傾げ、呪医と老議員と女主人を順繰りに見た。
この家の女主人が商社の役員らしい答えを口にする。
「この国は三分の二くらいが、森林に覆われています。何百年も前に森の主は退治されましたが、人々の中に根付いた魔獣への恐怖はまだ残っています。気にしない人手が欲しいんですよ」
「材木を伐り出す人が要るんですね?」
ファーキルが聞くと、女主人は頷いて食卓のみんなを見回した。
「湖東地方で幾つか内戦が終わって、復興用の建築資材の需要が伸びているのですよ」
「成程……難民の何割かが留まって林業に従事すれば、ネモラリスとアーテルの和平が成立した後も、祖国復興の為に尽力してくれるでしょうからね」
両輪の軸党のアサコール党首が頷いて、パンの残りを口に放り込む。
彼の党の支持母体は、ネモラリス建設業協会とフラクシヌス教の少数派、岩山の神スツラーシの信者だ。難民キャンプでは、彼らが森から木を伐り出して住居を建て、伐採方法や建築の指導も行っている。
アーテルのアクイロー基地壊滅後、空襲が止んだ地域では、復興が進んでいた。
まだ終戦の兆しも見えないが、アミトスチグマに逃れた難民が伐り出し、女主人の会社が買い取って輸出した木材が、祖国の復興に使われている。
女主人とアサコール党首の話に、朝食を共にする人々が頷く。
後から来た自治区民の少女サロートカは、これだけでは事情が飲み込めないらしく、同じ自治区民のラクエウス議員に問い掛けるような目を向けた。
「アミトスチグマは、五百年ばかり昔も隣の戦争難民を受け容れて、平野部の畑を増やして農業を振興させたそうでな。まぁ、その当時と同じ気持ちで助けてくれるのだろう。持ちつ持たれつ、あまり気に病むことはなかろう」
タイゲタが、ずり下がった眼鏡を押し上げて、ファーキルとサロートカに微笑む。
「折角、助けてくれるんだし、今は思い切って甘えちゃいましょうよ」
「キミって入力作業、一日も休まないで頑張ってるってホント?」
タイゲタの隣に座る黒髪のアルキオーネに聞かれ、ファーキルはその瞳の輝きにどぎまぎして目を逸らした。
「えぇ、まぁ、その……多いですから、休んでるヒマなんてないって言うか……」
「過労で倒れたら、もっと作業が遅れるじゃないの。まともな会社だったら、最低でも日曜と祝日は社員を休ませるものなのよ」
ファーキルは、可愛い声に生えた棘にギョッとして顔を上げ、“平和の花束”のリーダーを見た。アーテル出身のアイドルは、髪と同じ黒い瞳で鋭く大人たちを睨む。
エレクトラが、大地の色の頭を小さく下げて、上目遣いにアルキオーネの無礼を詫びるような視線を送った。アステローペは豊かな胸を抑えてみんなをオロオロ見回す。
女主人が、ひとつ咳払いしてアルキオーネの視線を受け止めた。
☆難民キャンプは彼らが森から木を伐り出して住居を建て……「415.非公式の視察」参照
☆アーテルのアクイロー基地壊滅……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」「504.術者への問い」参照
☆空襲が止んだ地域では、復興が進んでいた……「401.復興途上の姿」参照
☆五百年ばかり昔にも、隣国の戦争難民を受け容れて、平野部の畑を増やして農業を振興させた……「701.異国の暮らし」参照




