725.アマナの怪我
クルィーロは、妹の様子がおかしいと気付くのに十日も掛かったことを悔やんだ。
……どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。
いや、みんなが大変な時に、たった一人の癒し手に遠慮したのは、アマナがやさしいからだ。兄のクルィーロが気付いて、無理にでも治療を頼まなければならなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫よ。左はちゃんと聞こえるもん」
妹の明るい声は微かに震えていた。
クルィーロは、薬師アウェッラーナの申し訳なさそうな顔から目を逸らして食卓を睨んだ。淹れたての香草茶が湯気を立てるが、心のざわつきは治まらない。
薬師アウェッラーナがマグカップに両手を添え、低い声で説明を始めた。
「アマナちゃんの鼓膜は、爆風で耳の奥側に倒れてたみたいです。怪我が少なかったのは【護りのリボン】があったお陰なんですけど……」
クルィーロの父がアマナを膝に抱き、ベッドの端で身じろぎする。
「みんなの細かい怪我を治すのに【癒しの風】を使ったんで、その時に鼓膜がヘンな形でくっついちゃったみたいで……」
「治るんですか?」
薬師の正面に座ったクルィーロが顔を上げずに聞くと、アウェッラーナはカップを握る手に力を籠めた。
「切り取って正しい位置に戻す手術をすれば、すぐ元通り聞こえるようになるんですけど、私じゃ無理で……」
「それで治るんですよね? じゃあ大丈夫ですよ。アウェッラーナさんが居てくれなきゃ、今頃は……だから、その、ホント感謝してるんで……」
精いっぱい明るく言ったつもりが、クルィーロは声の震えを止められなかった。
エランティスは負傷した翌朝に意識が戻ったが、足が痛いと泣いてばかりいる。今は泣き疲れ、ピナティフィダにだっこされて眠っていた。
「ごめんな。俺たちずっと首都で、他所を知らないから……」
「いえ、そんな……匿って下さるだけで有難いんで……」
雑貨屋の息子が詫びるのをクルィーロは慌てて取り成した。
今、クルィーロたちが身を寄せるのは、雑貨屋の地下室だ。首都クレーヴェルの西門商店街の裏通りにある。星の標の自爆テロに巻き込まれ、雑貨屋の身内の治療と引き換えに置いてもらっていた。
薬師アウェッラーナが居なければ、今頃生きていなかっただろうと思うと、彼女にはどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
雑貨屋の息子ドージェヴィクは、他の家族と共に仕事で首都の北東部へ行った時、国道八号線のテロに巻き込まれて重傷を負った。
爆風と、射出された釘で酷い状態だったが、魔法薬と薬師アウェッラーナの懸命の治療で、あと少しで完治と言うところまで回復した。
クルィーロも魔力を提供して手伝ったが、片腕の骨折を癒しただけで倒れそうになった。
……セプテントリオー呪医って桁違いに魔力強かったんだな。
元軍医なだけある、と今一番会いたい人を思う。
治療者の魔力と負傷者の体力の都合で、一度に全部は癒せず、雑貨屋の息子と親戚夫婦はまだ数カ所ずつ骨折が残っている。移動販売店のみんなの傷は、治せるものは治してもらえた。
アマナの耳とエランティスの足は無理で、肉屋の娘には左半身麻痺の後遺症が残った。
本人たちも家族も、命に別条ない状態にしてもらえて感謝している。【青き片翼】学派の呪医なら、ちゃんと治せるとわかって希望も持てた。だが、薬師アウェッラーナは顔色が冴えない。
……内乱中、どんだけ酷いこと言われてたんだろうな。
クルィーロはこっそり溜め息を吐いた。
FMクレーヴェルはあれ以来、臨時放送をしていない。
政府の公式発表と検閲済みのニュース、避難所情報、道路交通情報、天気予報の他はずっと同じ古典音楽を流していた。だが、どこに行けば治療を受けられるのか、食糧はどこで手に入るのか。都民が欲している生活情報は流れない。
……まぁ、帰還難民センターに居た頃よりは情報増えたけど。
レノと雑貨屋のおばさんが肉屋から戻って来た。
「さっき、ちょっとだけ、外へ出たんだ」
「どうだった?」
勢い込んで聞いたクルィーロに、レノは複雑な表情で黙った。
雑貨屋と肉屋は地下で繋がっている。肉屋は西門商店街にあった。みんなの視線が二人に集まる。
「あたしゃ、下で二人を看てたから……」
「俺と肉屋さんで行って、商店街をちょっと見たんだ。瓦礫が片付けてあって、車は通れるようになってたよ」
何となく引っ掛かる言い方で、いい話ではなさそうだ。誰も続きを催促せず、レノをじっと見詰める。
疲れたのか、ドージェヴィクがベッドに横たわった。雑貨屋のおばさんが息子に布団を掛ける。
「えっと……お巡りさんと政府軍の兵隊さんが商店街を警備してるよ」
何となくゆるんだ空気は、次の言葉で固まった。
「爆弾の材料とか持ち込まれないか、都内に入る車を検問してるんだってさ。そのせいで入荷が遅れて、前よりもっと品薄になってるって……」
「それって【無尽袋】の中身も出してんのか?」
「星の標対策だし、【無尽袋】自体、品薄だから、それはないんじゃないかな?」
「そっか……そうだよな」
何となく話が途切れる。
気マズい沈黙を父が破った。
「店は……? それでも営業している店が、少しはあるのかい?」
「んー……そんなだから、入荷が少ないし……あ、でも、道の穴は仮復旧されてて、『救援物資』って横断幕付けたトラックも見たけど、奥の方行っちゃったんで……」
「神殿か学校の避難所に向かったんだろう」
「食べ物だったら、たんとあるから、遠慮しなくていいんだよ」
「恐れ入ります」
父と一緒にクルィーロたちも雑貨屋のおばさんに頭を下げ、また話が途切れた。
レノが香草茶を一口飲んで言う。
「さっき、肉屋さんが店の二階にラジオを取りに行って、窓から見て、大丈夫そうだったから二人でちょっとだけ外に出たんだ」
……娘さんたちが元気になってきて、肉屋さんもラジオを聞く余裕が出てきたのか。
それはよかったが、雑貨屋と肉屋の怪我人がよくなれば、クルィーロたちはこの地下室を出て行かなければならない。
「大丈夫そう……って?」
「停戦時間じゃなかったから、車は少なかったし、歩いてる人は殆ど居なかったけど、兵隊さんとお巡りさんが警備してたよ」
西地区は政府軍の支配域になったようだが、これで安全になるのか、却ってネミュス解放軍の標的にされるのか、軍事の知識のないクルィーロには、いくら考えてもわからなかった。
「レノ、検問って首都を出る側もしてた?」
「うん。荷物のチェックはしてなかったけど、免許証と……歩きの人も身分証をチェックされて、どこ行くのか聞かれてた」
「意味あんのか、それ?」
「だよなぁ。【鵠しき燭台】は置いてないから、身分証が贋物だったり、嘘吐かれても、わかんないよな」
クルィーロとレノが苦笑いすると、雑貨屋のおばさんも困ったもんだと肩を竦めた。
「そんなコトしたって、出入りが遅くなるだけだろうにね」
「……誰かを探している……と言うことはありませんか?」
クルィーロの父自身、自信がないのか控え目な呟きだったが、みんなの苦笑いを引っ込めるには充分な声だった。
☆【癒しの風】……「348.詩の募集開始」「349.呪歌癒しの風」参照
☆あれ以来……「710.西地区の轟音」参照
☆臨時放送……「708.臨時ニュース」「711.門外から窺う」参照
☆帰還難民センターに居た頃よりは情報増えた……「612.国外情報到達」~「617.政府軍の保護」参照
☆【無尽袋】自体、品薄……「340.魔哮砲の確認」「403.いつ明かすか」参照
※ 魔法の袋【無尽袋】は、中身を出すと術が切れる使い捨て。「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説08道具」参照




