0074.初めての作業
昨日は朝食後に入浴させてもらい、店長宅の客間のベッドで休ませてもらえた。
恐縮する程、ふかふかの布団だ。
やわらかな感触に包まれ、アミエーラは気を失ったように眠った。
目を覚ました時には、もう日が傾いていた。
父はまだ訪ねて来ず、店長と二人で少し早めの夕食を摂り、また眠った。
夢をみたような気がするが、思い出せない。まっくらな泥の中を手探りで歩くような眠りだった。
今朝は寝すぎたせいか、腰や背中がやけに痛む。
アミエーラはふかふかの寝床で身を起こし、ゆっくりと節々をほぐした。
ここは静かで、昨日、店長に聞かされた話が、どこか遠くの夢物語に思える。いや、このやわらかなベッドこそが夢かもしれない。
アミエーラは身支度を整えて台所に出た。
店長は既に起きて、丁度、朝食の用意を整えたところだ。
「あ……おはようございます。すみません、何もお手伝い……」
「いいのよ。ここは私の台所だから。さ、座って。ごはんにしましょ」
今朝の朝食は、堅パン一枚と、野菜スープ。
アミエーラが見たこともないくらい豪勢な食事だ。
「干し肉からいいダシが出るのよ。野菜はさっき庭で採ったばかりだから、冷めないうちにおあがり」
「よろしいんですか? こんな立派なお食事……」
「いいのよ。たんと食べて、元気出しなさいね」
店長に言われるまま、アミエーラは匙を口へ運んだ。
老婆の言う通り、チーズとはまた別の濃厚な味が口いっぱい広がる。程良い塩気が身体に染み渡り、意識がはっきりしてきた。
夢中で食べ、アミエーラは、ほうっと息を吐いた。
この世にこんな美味しいものがあるなんて、知らなかった。
……私だけこんな美味しいもの食べてていいのかな? お父さん、どうしてるんだろ?
食後の香草茶は、店長に教えてもらいながら、アミエーラが淹れた。
二人でゆっくりお茶を飲むと、身体が芯からぬくもり、不安が薄れてきた。
「どう? 今日は作業できそう?」
「はい、大丈夫です。ご心配お掛けしました」
アミエーラが努めて元気よく言うと、店長は満足そうに頷いた。
作業場のいつもの席に座ると、本当に何でもない、いつもの日のような気がしてくる。店長が、厚手の帆布と型紙を作業台に広げた。
「今日はね、袋を作ってもらいたいのよ。リュックサック」
「リュックサック、ですか」
「ミシンの針は替えておくから、型紙はこれね」
アミエーラが任された主な作業は、裾上げや繕い、寸直しで、一から作った経験が少ない。それも、薄く扱いやすい生地で、スカートなどの衣服や買物袋など、簡単なものばかりだった。
「型通りに裁つところまでは同じよ。次の工程から説明するから、終わったら呼んでちょうだいね」
店長は、戸惑うアミエーラをやさしく促して自分の席に着き、別の作業に取り掛かった。
アミエーラも生地と型紙を広げ、どう配置すれば効率がいいか考える。
アスファルトを薄めたような沈んだ色柄の帆布だ。これなら無地の方がずっと見栄えするだろう。
どんな客が注文したのか、少し気になる。
余計な考えを頭から追い出し、失敗しないよう、慎重に作業を進めた。
生地に型紙を置き、型をなぞって線を引き、店長に確認してもらう。
「いい感じよ。生地が厚くて固いから、気を付けて裁ってね」
「はい」
アミエーラは裁ち鋏を手に取り、布の端で試し切りする。固い手応えだが、手入れの行き届いた鋏は切れ味が良く、ジョキリと重い音を立てて裁ち切れた。
改めて生地を整え、裁断を始める。
スカートのような単純な直線ではなく、曲線が多い。布の固さのおかげで、勢い余って隣の部品まで切ってしまう心配はないが、ひとつの部品を切り出すのに裁つ距離が長く、すぐに腕が疲れてしまった。
本体はほぼ真っ直ぐだが、ポケットやよくわからない部品が多いのだ。
別布で補強材も裁つ。こちらは少し薄い生地で、本体より楽だが、数が多い。
結局、その作業だけで昼前まで掛かってしまった。
「いいのよ。ゆっくりで。急いで指を切ると、よくありませんからね」
店長はアミエーラに微笑んで、通りに目を遣った。
「それに、今日はまだ一人もお客がないし」
アミエーラは言われてやっと気付いた。
初めての作業だからか、いつの間にか夢中になっていたらしい。
通りには人の姿がなかった。
取敢えず、今の服に問題がなければ、仕立屋に用などないのだろう。
二人で昼食を作り、ゆっくり食べた。
何か言えば、不安や不吉な言葉しか出てこない気がして、アミエーラは店長への返事以外、何も言わないでいる。
店長も、冷静に振舞おうと努めるのか、いつもより表情がぎこちなかった。
お客が来れば、この重い沈黙を破ってくれるかもしれない。
アミエーラは期待したが、すぐに考えを改めた。
客が、よくない話を持ち込むかもしれないのだ。
午後は店長に説明を受け、早速、縫製に取り掛かった。
生地が厚く、待ち針では留められない。
アミエーラはクリップで生地を押さえ、縫い目の印から外れないよう、慎重にミシンのペダルを踏み込んだ。
店長はミシン針だけでなく、上糸と下糸も太く丈夫なものに替えてくれた。
灰色の生地に黒く太い縫い目が等間隔で現れる。
先に肩掛けベルトやポケット、蓋など細々した部品を作ってゆく。布の合わせ目を補強材で包んで縫いつけ、耐久性を上げる。
「アミエーラ、私は少し出掛けるから、お留守番、お願いね」
作業に没頭したアミエーラは、慌てて顔を上げた。
店長は、すっかり外出の支度を終え、戸口に居た。
「は、はいっ」
「どうせお客はないし、お店は閉めておきますから、私以外、誰が来ても絶対に開けちゃダメよ」
言い置くと、店長はアミエーラを残して店を出た。
一人になった途端、耐え難い不安に襲われる。
自治区の東、バラック街の大半が焼失したことを思い出す。この静けさは、そのせいなのだ。
気持ちを落ち着かせる為、ミシンと向き合った。
☆バラック街の大半が焼失した……「0054.自治区の災厄」参照




