720.一段落の安堵
三人が雑貨屋の寝室に戻ると、クルィーロの父が雑貨屋の息子を支え、ピナが缶詰のスープを食べさせていた。
雑貨屋のおばさんがベッドに駆け寄る。
「ドージェ!」
見知らぬ二人の視線に気付いた息子が、母に顔を向けて口の中身を飲み下した。
レノは食卓に荷物を置いてティスの枕元へ足を進める。背後で雑貨屋が興奮気味に語っているが、レノは構わずベッドに身を屈めた。
ティスは相変わらず、眠っている。
そっと頬に触れ、温もりを確めて荷物を見た。ティスの靴がない。
……あれっ? さっき戻った時、俺……どうしたんだ?
左手を自分の荷物に突っ込んで探ったが、それらしい手応えがない。顔から血の気が引いてゆくのがわかった。
ピナが食事の介助を交代して兄の顔を覗く。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「ん……あの……靴が……」
「私の鞄に入れたの。本人にはあんまり見せない方がいいかなって思って……」
「あっ……そ、そうだな。そうだよな。ありがとう。ピナは気が利くから助かるよ」
「おだてたって何も出ないよ」
「いやいや、ピナは俺よりしっかりしてるから……」
他愛ない遣り取りに空気がふっと軽くなる。
右腕は疼くが、この地下室へ逃れた者はみんな、ひとまず生命の危機を脱した。今はそのことがこの上もなく有難い。
……先のことは、後で考えよう。
アウェッラーナと目が合った。
「レノさん、お待たせしました。そこに座って下さい」
言われるまま腰を下ろすと、薬師は自分の荷物から小袋を出して隣に座った。食卓の香草をレノに差し出す。
「これを……奥歯で噛んでて下さい」
「えっ?」
一掴み渡され、緑の目を見る。湖の民の薬師は睫毛を伏せた。
「ごめんなさい。私……【麻酔】が使えないんです。香草で痛みはなくならないんですけど、気持ちだけでも……」
「アウェッラーナさん、お兄ちゃん、大丈夫ですよね? メドヴェージさんみたいにちゃんと治るんですよね?」
ピナが薬師の肩に手を置く。レノは乾燥した香草を手に何も言えなかった。
アウェッラーナがピナを見上げ、利き腕を骨折した患者に視線を戻した。
「メドヴェージさんは平気なフリをしてくれましたけど……骨をくっつける術の準備が痛いんです」
「で、でも、ちゃんと元通りに治るんですよね? 痛いのくらい、全然、平気です」
痛いのはイヤだなどと贅沢言える状況ではない。今だって麻酔も鎮痛剤もなく、右腕は鼓動に合わせて痛みが脈打っている。治るなら何でもよかった。
……治ったら、ティスをだっこして避難できるし。
言われた通り、カサカサに乾いた香草を口に押し込んで噛みしめた。噛む度に清涼な香りが鼻を抜けてスースーする。頷いてみせると、アウェッラーナはレノのコートを脱がせ、折れた腕にそっと手を触れた。その下は、ピナが作ってくれたTシャツで、なんともちぐはぐな格好だ。
「ちゃんとした呪医なら、整骨と接続、再生を同時にできる術が使えますし、アミエーラさんは先にきちんとした応急処置を受けて骨の位置がちゃんとしてたんで痛くないように治してもらえたんですけど……すみません」
「でも、メドヴェージさんを治した時の呪文、セプテントリオー呪医のと同じに聞こえましたけど……」
ピナが引き攣った顔で言うと、薬師は力ある言葉をよく知らない女子中学生に首を振った。
「似てるけど、違うんです。呪文はほんの少し違うだけなんですけど、必要な魔力の量は全然……それに、レノさんは骨が結構ずれてるから、メドヴェージさんに使った術じゃ無理で……ごめんなさい」
「そんな、謝らないで下さいよ。俺らが教えてもらった術じゃ、ちょっとしたすり傷しか治せないし……」
レノが香草を含んだ口でもごもご言うと、アウェッラーナは力ある言葉で囁いた。思わず目を瞑って息を詰める。苦しくなっても、想像していた痛みが来ない。
恐る恐る瞼を上げると、アウェッラーナは、レノの熱を持って腫れた腕に厳しい目を向けていた。
止めていた息を吐いて不安を口にすると、薬師は患部から視線を外さずに答えた。
「今のは【白き片翼】学派の【見診】です。骨が、中でどうなっているのか確認しました。今から位置を整えます」
「……はい」
レノは腹に力を入れて香草を奥歯で噛んだ。
アウェッラーナが別の呪文を唱え、腫れの端に触れる。もう一方の手で【魔力の水晶】と一緒にレノの右手首を強く握った。細い指の冷たさに熱の高さを思い知らされる。冷たい指に力が籠もり、痛みの芯を掴んだ。
レノは思わず振り払いそうになったが、息を止めて奥歯に力を入れた。草の苦味が唾に混じって広がる。
傍らのピナが、泣きそうな目で薬師の手許を見詰めていた。
……何か呪文唱えてるけど、これ、本番じゃなくて準備なのか……?
細い指が容赦なく、折れてずれた骨を動かす。口を開けば悲鳴を上げそうだ。レノは左手で膝を掴んで歯を食いしばった。脂汗が目尻すれすれを滑り落ちる。
薬師の呪文が止み、右腕を食卓に乗せられた。木のひんやりした感触に肌が粟立つ。
アウェッラーナはひとつ深呼吸して、別の呪文を唱えた。
折れた箇所にそっと触れる掌が心地よい。腕の中にできた痛みの芯が糸玉を解くように小さくなり、そこから伸びた糸が身の綻びを繕う。
レノには力ある言葉がわからないが、視えない針と糸で骨のほつれを縫い合わされているような心地がした。
詠唱が終わり、アウェッラーナが掌をどけた。腫れが引いている。もう一度、さっきと同じ【見診】を唱え、レノの右腕を舐めるように診た。
「右腕……動かしてみて下さい」
手首を解放され、レノはTシャツの袖から伸びた自分の腕をさすった。さっきまでの痛みと熱が嘘のようにどこかへ消えている。思い切って肘を曲げ、肩を回してみたが、全く何ともない。
「あ……ありがとうございます! 大丈夫です。何ともないです!」
「お兄ちゃん、よかった……よかった……」
礼を言う内に頬がゆるみ、ピナとアウェッラーナにも笑顔が広がる。薬師は何度も礼を言う兄妹に弱々しく応じた。
「じゃあ、しばらく休ませて下さい」
レノはふらつく薬師を支え、クルィーロとアマナの上段に寝かせた。彼女の荷物とコートも枕元に上げる。アウェラーナは薄い掛け布団に包まるとすぐに寝息を立て始めた。
「レノ君、よく頑張ったな」
「いえ、そんな……頑張ってくれたの、アウェッラーナさんですよ」
先に両足の骨折を癒されたクルィーロの父に労われ、レノは首を振った。食卓に散らばった【魔力の水晶】は全て輝きを失っている。ピナが小袋に回収して薬師の枕元に置いた。
「おかげでウチの子も助かったし、ホントにありがたいことだよ」
雑貨屋のおばさんが、空になったスープの缶を手に微笑む。息子は再び寝かされ、目を閉じていた。
起きている四人はアウェッラーナのベッドを見上げ、祈るように頭を下げた。
「何かあったら、すぐ呼びに来いよ」
「うん、お兄ちゃんも無理しないでね」
みんなを起こさないようにそっと寝室を出る。
クルィーロの父がラジオ、レノはメモとペン、雑貨屋のおばさんは【灯】を点した空き瓶を手に棚が並ぶ部屋を抜けた。地上に出る梯子の部屋は、木箱をひとつ挟んで三人が座っただけでいっぱいになった。
レノが囁く。
「ここって、外に音は……」
「大丈夫。防音になってるから、大声で【歌う鷦鷯】の術を使ったって地上に聞こえやしないよ」
雑貨屋のおばさんの声が縦に長い空間に反響した。
クルィーロの父が頷いて、ラジオの電源を入れる。
耳障りなノイズが流れた。荷物の中で揺すられて選局ツマミがずれている。クルィーロの父が目盛りを見ながらツマミを回し、FMクレーヴェルに合わせた。
「ザザッ……午後からは曇り、夕方、所によって一時雨になる見込みです。ネモラリス島東部は午前晴れ、午後からは曇り、夕方、山沿いを中心に雨。以上、明日のお天気をお伝えしました」
国営放送ではないので、BGMに「この大空をみつめて」はない。知らない声が淡々と天気予報を告げ、番組終了のジングルが流れた。
CMはなく、紙がこすれる音に続いて別の声がニュースを読み上げる。
「FMクレーヴェルニュース速報の時間です。緑豊かな樫の木通りからお伝えします。今朝八時二十分頃、首都クレーヴェルの西地区で爆弾テロが発生しました」
三人は同時に息を呑んだ。
「西門商店街付近の住宅街で一回目の爆発が起き、続いて西門商店街の複数の場所で計五回、自動車が爆発しました。当時は停戦時間帯で渋滞しており、通りと商店街には通勤や買出しの人が多く、多数の死傷者が出ています。地元警察の発表によりますと死者五十三名、重軽傷合わせて三百人以上に上るとのことです。警察は、爆発した車の持ち主を含め、死者の身元確認を急いでいます」
……俺たちってお巡りさんに会ってないから数に入ってないよな?
爆発の直後、大勢が門の方へ走った。力ある民なら門外で【跳躍】した筈だ。実際の被害者はもっと多いだろう。レノがクルィーロの父を見ると、微かに頷いてメモ用紙に視線を落とした。
三人ともメモを取るのも忘れて聞き入る。
「フラクシヌス教団からの情報によりますと、キルクルス教原理主義団体“星の標”ラニスタ本部がインターネット上で犯行声明を出したとのことです。現在、我が国のラクリマリス駐在大使らが確認を進めています」
ネモラリスの臨時政府はレーチカに置かれている。インターネットが繋がる国にある神殿で情報を得た教団関係者が、わざわざ【跳躍】で知らせてくれたらしい。
「都民のみなさんは不要不急の外出を控え、やむを得ない外出の際はなるべく車道から離れて守りを固めるよう、お気を付け下さい」
アナウンサーが、気休めにもならないことを言って次の原稿を読み上げる。
……俺たち、守りを固めたって、あんな大怪我したのに。
骨折を癒されたばかりのレノが、ティスの足を思って拳を握る。
力なき民だから【魔力の水晶】と【護りのリボン】を使ってもあんなことになったのだ。魔法の品を持っていなければ、命を失っていたかもしれない。そう思えば「助かった」と言えるが、とても手放しで喜べる状態ではなかった。
仲間内で一番魔力が強く、魔法のコートを着ていたアウェッラーナだけが無傷で済んだ。
……そう言や、あのバスでも……。
あの時、乗客が何人も亡くなった。生存者も重軽傷を負い、レノたちの父は意識不明の重態だった。
そんな中でも彼女は無事で、懸命に負傷者を癒していた。
……力ある民と力なき民じゃ、こんなにも差が……!
首都を脱出できず、気休め程度の補強をして家に籠もるしかない人々、イチかバチか門へ向かってテロに巻き込まれた人々……力なき民はどっちを向いてもただ死を待つだけに思えた。
レノの耳を右から左へニュースが通り抜ける。西門付近は、地元の警察と政府軍が護りを固めたと言う。今更遅いと憤る気力もない。
雑貨屋と肉屋の家族は力ある民だと言っていたのを思い出した。
力ある民でもあんな酷いことになっている。いや、あの三人以外は亡くなったと言っていなかったか。
……何で、こんなことに……!
レノは、年配の二人がメモを取るのを憤りに曇る目で見詰めた。
☆アミエーラさんは先にきちんとした応急処置を受けて骨の位置がちゃんとしてた……「160.見知らぬ部屋」参照
☆痛くないように治してもらえた……「194.研究所で再会」参照
☆俺らが教えてもらった術……「348.詩の募集開始」「349.呪歌癒しの風」参照
☆BGMに「この大空をみつめて」……「115.昔の音の部屋」参照
☆あのバス/彼女は無事で、懸命に負傷者を癒していた……「056.最終バスの客」「057.魔力の水晶を」参照




