719.治療と小休止
薬師アウェッラーナが患者の身体に手を触れ、次々と呪文を唱える。何種類かの術を繰り返し使っているようだが、患部毎に術を掛け直さなくてはならないらしい。
魔力を融通する肉屋が青褪めてきたが、歯を食いしばって娘の顔を見詰める。薬師と繋いだ手にも力が入ったのか、ひとつの術を終えたアウェッラーナがそっと手を離して気遣った。
「魔法の品をお持ちでしたら、外した方がいいですよ」
「そ……そうか。じゃあ……あの、着替えさせてくれ……大丈夫か? 間、あいても?」
肉屋の目が、薬師と治療途中の娘を忙しなく往復する。
「薬師さん、そっちのお兄さんも、ちょっとお茶飲んで休憩しようか」
「そうですね。少し休憩した方が集中できそうですね。……それと、今から娘さんの頭を治すのでよく切れるナイフを用意していただけますか?」
「そ、そうか。じゃあちっと着替えて、ナイフ持って来らぁ」
肉屋と雑貨屋が同じ扉から出て行った。
レノはポケットから小袋を出し、【魔力の水晶】をひとつアウェッラーナに握らせた。ひとつの輝きが消える度に薬師の顔色が少しよくなる。
三個目を渡そうとした手を遮って、アウェッラーナは首を横に振った。
「あんまり回復させると、お肉屋さんに魔力を借りられなくなります」
「えっ……?」
「それ全部使っても、治療するには足りないんです」
「そんなに大変な術なんですか」
レノは【魔力の水晶】を握って愕然とした。
中途半端に手助けして、危うく治療できなくするところだった。
「きっと、お肉屋さんと雑貨屋さんの力を借りても足りないでしょうから、後で、その残りをお借りしますね」
「え、えぇ、そりゃ勿論、どうぞどうぞ」
「それと、傷薬も持って来た分だけじゃ足りないみたいなので、もう少し……」
「じゃ、持ってきます!」
レノは返事も待たず、雑貨屋が点した【灯】の瓶を腋に挟んで元来た地下道を引き返した。
「お兄ちゃん、どうだった?」
「薬師さんはどうされました」
雑貨屋の寝室に戻ると、ピナとクルィーロの父が駆け寄った。他のみんなは眠っているのか、膨らんだベッドからは反応がない。
レノはピナに靴を渡した。
「肉屋さんに【防腐】と、えーっと……何か守りの術を幾つも掛けてもらえたんだ。一カ月くらいは大丈夫になったって。その間にどうにかして呪医に診てもらえるように頑張ろう」
説明しながら片手で荷物を探っていると、クルィーロの父が手伝ってくれた。手提げ袋に傷薬の容器五つと【魔力の水晶】の小袋を入れ、レノの肩に掛ける。
「さっき、あの人の息子さんが目を覚ましたから、香草茶を少し飲ませた。今はみんな眠っているよ」
ティスは相変わらず意識がない。
だが、レノは望みができたことで、さっきのようなどん底気分にはならなかった。ピナも心持、表情が明るい。
レノが二人に後を頼んで肉屋の寝室へ戻ると、三人はお茶を淹れて待っていてくれた。木箱の上に紅茶とお菓子が用意してある。
「遅くなってすみません」
薬師アウェッラーナに袋を渡し、木箱に腰を下ろして雑貨屋に話し掛ける。
「あの……息子さん、今は寝てますけど、さっきちょっと目を覚まして、おじさんが香草茶を飲ませたそうです」
「そうかい。ありがとね」
「兄ちゃんも遠慮しねぇで食ってくれ。そっちの袋にお仲間の分は入れといた」
肉屋に礼を言い、紅茶を飲む。久し振りの味に肩の力が抜けた。
「右腕、後で必ず治します。もうしばらく辛抱して下さい。すみません」
カップを手に背を丸める薬師に、レノは笑ってみせた。
「い、いえいえ、治してもらえるだけでもすごく有難いんで、そんな、謝らないで下さいよ」
三人は黙々と紅茶を飲み、クッキーを食べる。レノは一口食べてやっと空腹に気付いた。昼時をとっくに回っている。
肉屋は無地の服に着替えて前掛けを外していた。手の中でこねくり回しているのは【魔力の水晶】らしい。太い指の間から淡い光が漏れていた。
レノは思い切って聞いてみた。
「あ、あの、ここってラジオ、聞けますか?」
「ん? あぁ、ラジオがありゃ、聞けるけどよ。持って降りんの忘れたからな」
「持ってるんで大丈夫です」
「ウチのは壊れてたから、一緒に聞かせてもらっていいかい?」
「勿論ですよ」
FMクレーヴェルが、さっきみたいに臨時放送でニュースを流すかもしれない。あの爆発……恐らく星の標のテロだと思うが、あの後どうなったのか、少しでも地上の様子がわかるに越したことはない。
天気予報でも、日付と明日の天気はわかる。
……ローク君、ありがとう。
クッキーを食べ終え、肉屋が紅茶のおかわりを淹れる。
「ここなら、少なくともキルクルス教徒の連中は入れねぇから、安心してくれ」
「はい。ありがとうございます」
レノは肉屋に礼を言い、彼の娘をそっと窺った。まだ意識は回復しない。政府軍と解放軍の戦闘に巻き込まれたと言っていた。
首都クレーヴェル北地区の惨状を想像しそうになり、レノはぎゅっと目を閉じた。
レノは、雑貨屋のおばさんが操る水に少しずつ塩を混ぜる。
薬師アウェッラーナが皿の【炉】でナイフをあぶっていた。
「首の血管から、術を掛けた塩水を通して、頭の中にできたかさぶたを少しずつ取り出します。レノさん、合図したら首の傷に傷薬をたっぷり塗って下さい」
「わかりました」
薬師アウェッラーナが【操水】とは違う呪文を唱え、雑貨屋から水塊を受け取る。肉屋の娘の首は、皺の間で血管が浮いていた。薬師がナイフの先を当て、小声で呪文を唱える。血が流れ出るより先に塩水が入り込み、青く浮いた筋が少し膨らんだ。
傍らに立つレノが、薬師からナイフを受け取る。薬師がナイフを【魔力の水晶】に持ち替えて肉屋と手を繋ぎ、肉屋は雑貨屋と繋いだ。
アウェッラーナは患者の頭にもう一方の手を触れ、力ある言葉で塩水に命令した。【灯】の淡い光を受けた流れが、体内にどんどん送り込まれる。
命令の言葉が変わった。
レノには何を言っているかわからないが、同じ言葉を繰り返しているようだ。
肉屋の顔が険しくなる。
レノは、ナイフの背をつつかれ、薬師に返した。首筋の別の位置に傷を付ける。赤黒い粉が混じった塩水が帰って来た。
……これが、頭の中にできたかさぶた……か。
レノは目の前で行われる魔法の手術に唾を飲み込んだ。
紐状に伸びた塩水は皿の【炉】にかさぶたの粉を吐き出し、先に開けた穴に合流する。レノは息をするのも忘れて塩水の輪に見入った。
出て来る塩水の色がだんだん薄くなる。
塩水の端が最初の傷にするりと吸い込まれた。ナイフの柄がその傷を示す。レノは頷いて、枕元の容器から緑色の軟膏をたっぷり取り、傷口に盛った。
二番目の傷から出てきた塩水はすっかり透き通っている。端が抜け、ナイフの柄がそちらを示す。レノは血が流れないよう、急いで傷薬で塞いだ。
アウェッラーナが大きく息を吸って、また別の呪文を唱えた。緑の軟膏が傷口に染み込み、あっという間に見えなくなる。完全に塞がったのを見届け、薬師は塩水を鍋に戻した。
アウェッラーナがレノにナイフを渡して額の汗を拭う。先に言われた通り、刃を【炉】で炙って消毒した。
薬師が肉屋から手を放すと、雑貨屋も放し、店の二人は大きく息を吐いた。
「薬師さん、ウチの娘はもう大丈夫なんだな?」
「怪我をしてからかなり時間が経っていたので、私の知っている術では、完全に元通りにはできませんでした。後遺症は、ちゃんとした【青き片翼】の呪医なら治せるので、また、改めて……」
「こ……後遺症ってなぁ、何だ? 命に別条あんのか?」
肉屋が葬儀屋の肩を掴んで揺さぶる。
「気を付けて生活すれば、命は大丈夫です。身体の左側に麻痺は残りましたが、血栓……かさぶたを取ってその傷自体は治したので、命に別条はありません」
薬師の落ち着いた声に肉屋の手から力が抜けた。神妙に頷いて続きを待つ。
レノは肉屋の目を見て、自分も、さっき肉屋に同じ目を向けたのだろう、と思った。
「呪医の治療を受けられるまでリハビリをすれば、少し麻痺から回復できますよ」
「リハビリ……どうすりゃいいんだ?」
「骨折を治してから、ご説明します。焦らないで、ゆっくり少しずつ……とだけ心得ておいて下さい」
肉屋は何か言い掛けたが、娘婿の呻き声に口を噤んだ。
薬師が二人の手を借りて、肉屋の娘婿の包帯を解く。アウェッラーナが、焼け爛れた患者の肌を【操水】で洗った。
レノは、水が汚れを排出するのを待ってプラ容器一杯分の傷薬を混ぜた。薄緑に染まった水が火傷の酷い足をやさしく撫でて包み込む。
薬師の合図で、レノは二個目の容器から傷薬を水に出した。薬師の【操水】が緑色の軟膏を掻き取り、水全体に行き渡らせる。水が別の呪文に揺らめき、溶けていた緑が肌に集まってストッキングのように貼りついた。
同じことを何度も繰り返す。
傷薬が残り二個になったところで、アウェラーナが肉屋から手を放した。肉屋がホッとした顔で雑貨屋の手を放す。魔法使いの三人は随分、顔色が悪かった。
「あ、あの……みなさん、大丈夫ですか?」
「俺ぁ身内が助かるんなら、どうなったって構わねぇ。センセイ、続けてくんな」
レノが声を掛けると、肉屋の亭主はアウェッラーナの手を両手で握った。
湖の民の薬師が弱々しく首を振る。
「後は【魔力の水晶】で何とかなります。まだまだ看護が必要です。お二人とも、ご無理なさいませんよう……」
「そ……そうか?」
肉屋は手を放し、娘のベッドを振り向いた。瓦礫の下敷きになったらしい痣や擦り傷が痛々しい。
薬師が、光を失った【魔力の水晶】をポケットに入れ、レノは輝きを宿したものをふたつ手渡した。【操水】に傷薬を混ぜ、今度は身体の表面全体に行き渡らせる。
さっき言った通り、今日の分の処置を終え、やっと薬師アウェッラーナが肩から力を抜いた。疲れ切って顔色こそ良くないが、そこには充実した笑みがある。肉屋がその手を取って男泣きに泣いた。
「これで、二人とも命に別条なくなったんだよな? ありがとう、ありがとう……」
「まだ治療は必要ですが……今日はもう、休ませて下さい。すみません」
アウェッラーナの細い声が、肉屋の涙交じりの喜びに掻き消される。
「ちょっと待っててくれ! ハム持って来る!」
肉屋は止める間もなく別室に駆けて行った。
☆首都クレーヴェル北地区の惨状……「638.再発行を待つ」「653.難民から聞く」参照




