718.肉屋のお仕事
傾斜のついた通路を上がり、次の部屋に通される。ここも倉庫だ。
もうひとつ隣の部屋が寝室だった。雑貨屋と同じ二段ベッドが五台あり、並んだ下段に怪我人が寝かされている。
「末の娘夫婦は北地区に済んでたんだが、戦闘に巻き込まれてな。孫と曾孫はやられちまった。治せそうか?」
「診てみないことには……えっと、先にお湯を用意していただけますか?」
「おう。お安いご用だ」
肉屋の亭主は薬師の指示に素直に従い、隣の部屋へ引っ込んだ。アウェッラーナが手提げ袋から香草茶を取り出す。
肉屋の娘は雑貨屋のおばさんと同年代に見えたが、孫が居るらしく、実際の年齢はわからない。
手足は包帯で巻かれ、添え木が当ててある。頭の包帯には血が固まって黒ずんでいた。意識がないのか、知らない人の声にも反応がない。
隣のベッドの男性は、包帯の隙間から目だけでこちらを窺ったが、身動きとれないらしい。
「雑貨屋さんとお肉屋さん、どちらの方が魔力、強いですか?」
「従兄……肉屋だよ」
「何すりゃいいんだ?」
薬師が答えるより先に肉屋が水塊を連れて戻って来た。
「さっきから何人も癒して疲れてしまったので、魔力を貸して下さい。【魔力の水晶】はあります」
「あぁ、お安いご用だ。それ貸してくんな」
肉屋が手を出したが、薬師は首を振った。
「これに充填したくらいじゃ全然、足りないので……」
「ん? あぁ、【水晶】越しに魔力を融通すりゃいいんだな。で、このお湯は?」
「香草茶を作って湯気を部屋に行き渡らせて下さい」
「じゃ、それは私がやるよ」
雑貨屋のおばさんが【操水】を唱えて水塊を受け取った。アウェッラーナは宙を漂う熱湯に香草の束を挿し、【魔力の水晶】を乗せた手を肉屋に差し出す。二人は手を繋いで意識のない患者の枕辺に跪いた。
薬師が患者の首筋に触れ、力ある言葉で囁く。肉屋が目を見開いて湖の民の薬師に聞いた。
「あんた【白き片翼】の術もいけんのか?」
「他の学派は少しだけです。骨折の薬がなくて【青き片翼】の術で癒すから魔力がたくさん要るんです」
「お、おうっ、そうか。よろしく頼むよ。俺の力でよけりゃ、いっくらでも使ってくれや」
肉屋は薬師と繋いだ手に力を籠めた。
「で、センセイ……娘の具合は……?」
「打撲や擦り傷がたくさん。頭蓋骨と骨盤にヒビ。両手足と肋骨、鎖骨の骨折。気道に少し熱傷があって、右肺には小さな刺し傷があります。意識がないのは脳内出血のせいです」
肉屋の顔がみるみる曇る。
「怪我をしてから、どのくらい時間が経ったかおわかりですか?」
肉屋は天井を睨んで唸った。
「穴倉ん中じゃ昼も夜もねぇからな。一週間……いや、十日かそこら経ってるかも知んねぇ」
「娘さんの食事は?」
「一昨日くらいまでは自力で飲み込んでた……目ぇ覚まさなくなってからは術でスープ流しこんで、一応、滋養は取らせてんだが……」
「そうですか……次、そちらの方を診ます」
……診察する術なのか。
さっき雑貨屋の寝室でも聞いた。それ以前にも何度か聞いたことのある呪文だ。
子供の頃、近所の医院で【白き片翼】の呪医に診てもらったのを思い出した。その呪医はレノが中学生の時、老衰で亡くなった。
「……お二人とも、一刻を争う状態ではありません。勿論、このままではいけませんけど……」
肉屋と雑貨屋がホッとした顔を見合わせた。
……傷薬はいっぱいあるしなぁ。
レノも安心したが、右腕は折れたままだ。今は自分よりティスが気になってそれどころではなかった。
「お肉屋さん、薬罐となるべく大きなお鍋、それとそのお鍋に入るくらいの水を用意して下さい」
肉屋が出て行くと、薬師は寝室を見回して雑貨屋のおばさんに言った。
「それと、お鍋とかを置く椅子か何か、台を……」
「あ、あぁゴメンよ。気が利かないったら。あんたの椅子も持って来るよ」
おばさんが香草茶を連れてさっきの部屋に戻る。骨折したレノは、荷物運びさえ手伝えない自分が情けなかった。
アウェッラーナが袋から濃縮傷薬と塩の袋を出したところへ肉屋が戻った。
「ん? あいつは?」
「それを置く台を取りにあっちの部屋へ……」
レノが答えると、肉屋は鍋と薬罐を床に置いて手伝いに行った。
空の木箱に薬罐と鍋を置き、香草茶と水でそれぞれ満たす。
「今から包帯を解いて治療の準備をします。お肉屋さんはその間に……」
肉屋が薬師アウェッラーナの視線を辿り、レノの胸元を見て頷いた。
「わかった。人間相手にやったこたぁねぇが、いっちょやってみる」
「よろしくお願いします」
レノは姿勢を正して頭を下げた。
「上手く行くかわかんねぇがな。兄ちゃん、そっちの箱に乗せてくんな」
何もない木箱にティスの靴を置くと、肉屋はその前に腰を下ろし、膨らんだ前掛けから銀のペンとインク瓶、小さな革袋を取り出して並べた。
レノはその傍らに跪いて作業を見守る。
肉屋のごつい手が靴紐を解き、慎重に中身を取り出した。レノは妹の傷を見ていられなくなり、目を閉じて神々に祈った。
……肉屋さん、フラクシヌス様、パニセア・ユニ・フローラ様、スツラーシ様……どうか、ティスの足をお守り下さい。
「キレイに洗ってあるな。上出来だ」
肉屋の声にそっと瞼を上げる。
片手で踵を持ち、足の甲に呪印を描き始めた。
銀のペン先が白い肌に傷を刻む。血が流れる代わりに傷が濃い色のインクで満たされ、複雑な形が少しずつ現れる。引っかき傷に少しずつインクを注ぎ、最後の一筆を引くと、肉屋はペン先を呪印の中心に突き刺して呪文を唱えた。途中で詠唱の抑揚を変え、袋の中身……塩らしき白い粉を振りかける。
複数の術を使っているらしいのはわかったが、それぞれがどんな術なのかはわからない。
詠唱を終えると肉屋は千切れた靴下を元通りに履かせ、そっと靴に戻した。レノの視線に気付いて木箱に乗せる。
「今のは、ホントだったら屠畜場で使う術なんだ。枝肉に掛ける【防腐】と【魔除け】と【立入禁止】……」
「えっ? 【立入禁止】って……?」
肉屋は頭を掻いて説明した。
「肉を扉にして幽界からこっち来んのを禁止する術だ」
「あっ……」
そんな術まであるのか、とレノは今更ながら驚いた。
自分たちの暮らしは本当に魔術なしでは全く成り立たないのだ。
「アルトン・ガザ大陸やら、魔物の少ない土地なら、これがなくても滅多にそう言うことにゃならんそうだが、何せ、ここらは封印の地に近いからしょうがねぇ」
「あ……ありがとうございます!」
レノがティスの靴を抱いて言うと、肉屋は弱々しく笑った。
「なぁに、いいってことよ。あんたらの薬でウチの娘夫婦も助かるんだ。……ところで、その嬢ちゃんは力ある民なのか?」
「いえ……力なき民です」
「そうか。そいつぁよかった。俺の魔力でも一月は守れる」
「そんなにですか?」
それだけ時間があれば、どうにかして王都へ行けそうな気がした。
……アウェッラーナさんが無理でも、漁村で宝石払って船を出してもらえたら、何とかなるかも?
「魔力が強けりゃその分、魔物や何かを引き寄せる力も強くなるからな。【立入禁止】をブチ破られたりすんだよ」
「……知りませんでした」
レノは、力なき民であることを「よかった」と思える日が来るとは夢にも思わなかった。
「葬儀屋の【導く白蝶】学派にゃ【弔う禿鷲】よりずっと強力な術があるけどよ、俺らの術じゃ人間……特に魔力ある奴だと色々アレなんだ」
「で、でも、頑張って下さってありがとうございます。無理言ってすみませんでした!」
レノが再び頭を下げると、肉屋は道具を前掛けのポケットに片付けて言った。
「俺ぁ守りを掛けただけだ。きっちり治るとこまで責任持てねぇぞ」
「いえ、これで希望が持てます。ホントにありがとうございました」
頭を下げると、安堵と嬉しさに込み上げた涙が石床に落ちた。
薬師アウェッラーナに呼ばれ、肉屋の亭主が娘の枕辺に戻る。
娘は包帯を解かれ、無残な傷を晒していた。レノは、痛みを感じなくて済むなら、意識がない方がマシかもしれないと思った。
娘婿の方は、まだ何もしていない。
「娘さんの方が重傷なので先にこちらを……肺の刺し傷、肋骨と鎖骨、それから頭。感染症を防ぐ為に二人の体表の傷を癒して今日は一旦、終わります」
「えっ……」
隣のベッドから微かに驚きのが届いた。
薬師アウェッラーナが振り向いて肉屋の娘婿に言う。
「あなたは足の火傷が酷くて、それを癒すだけであなたの体力が消耗してしまうんです。滋養のあるものを食べて、二、三日待って様子を見てから次の治療に移ります」
「あ……あいつは?」
掠れた声が妻を案じる。
「奥さんは気道に軽い熱傷があるだけなので、今日、色々治せるんです。でも、手足の骨折と骨盤は、体力の回復を少し待ってからになりますね」
肉屋の目が娘と薬師を往復する。
「ウチの子の方が重傷なんじゃねぇのか?」
「頭の傷は、治療を急いだ方がいいので」
薬師の態度は落ち着いているが、レノは肉屋の親子が気の毒になった。
……もしかして、娘さん……相当ヤバい?
レノは、自分が後回しにされた理由がわかったが、今夜眠れるか不安になった。
折れた腕が熱を持ってさっきから全身がだるい。鼓動に合わせて右腕の深い部分がズキズキ痛んだ。




