716.保存と保護は
雑貨屋のおばさんが、バケツ三杯分くらいの水塊を連れて戻った。二段ベッドの空段の寝具を一組ずつ【操水】で丁寧に洗っては、水に混じった埃や汚れをゴミ箱に捨てる。
「薬師さんも、堅パン食べて休んでちょうだい」
すっかり傷だらけで、動いているのが不思議なくらいだが、レノの腕時計は昼過ぎを示していた。社宅を出たのは朝食後すぐだ。そんなに経っていたとは思わなかった。
……その分、ティスの足は……!
単に腐敗するだけでも、取り返しがつかなくなる。レノは香草茶のカップを口許に持って行き、妹の靴から目を逸らさずに考えた。
……危ないかもしれないけど、やっぱ、治療が終わったらすぐ地上に出て、アウェッラーナさんに千年茸払って、ティスだけでも王都に連れてってもらおう。
首都クレーヴェルの西門まで目と鼻の先だ。荷物を持たず、ティスだけ背負って全力で走れば何とかなるかもしれない。
そこまで考えた時、父と受けた飲食店向け食中毒防止講習の記憶が甦った。食肉は、今の時期に常温放置すれば、一時間足らずで原因菌が増殖してしまう。
レノはおばさんが水を取りに行った部屋を覗いた。同じくらいの広さで、石材を組んだ棚が図書館のように並び、木箱や樽、段ボール、プラケースがきちんと積んである。【灯】が点された棚の奥に目を凝らすと、向かいの壁で似たような扉が開け放たれていた。
「茶髪の兄さん、どこ行くんだい?」
「あ、あの……ト、トイレ……」
ティスの足を入れさせて欲しくて冷蔵庫を探していたとは言えず、レノはしどろもどろに誤魔化した。
「そう言うことは早くお言いよ。もひとつ隣に簡易トイレあるから、みんなも遠慮しないで使っとくれ」
レノは礼を言い、扉を閉めて奥へ行った。
この部屋も、呪文が刻まれた石材の棚に整然と箱が並ぶ。さっきの部屋もだが、どの棚も天井を支える柱の役割を果たしていた。
こちらの部屋は、右手側の棚がひとつ少なく、隅に工事現場で使う仮設トイレと大きなゴミ箱が置いてある。口から出まかせを本当にする為に用を足した。
……力ある民なら、タンクの中身を【操水】で出して水抜きして【炉】か何かで灰にすれば、臭わなくてずっと清潔ってコトか。
雑貨屋のおばさんは、遠慮しなくていいと言ってくれたが、見ず知らずの他人が大勢増えた今、この処理の負担はかなり大変だろう。この状況では、レノたち力なき民はトイレ掃除ができない。
……俺、ホント何もできないんだな。
奥の扉は、半端な位置でドアストッパーが挟んである。
他所様の家を勝手にうろうろする罪悪感を無理に押さえて、そっと覗いた。【灯】がないのでよくわからないが、石積みの通路らしい。風は、この奥から吹いてくる。
……あ、そっか。電気引いてないのに冷蔵庫なんてあるワケないんだ。
レノは自分が恥ずかしくなり、逃げるように戻った。ベッドの手前の部屋で、家主のおばさんが待ち構えていた。
「さ、手を出して。洗ったげよう」
「何から何まで、すみません。あの……食べ物は持ってるんで、後で堅パンお返しします」
おばさんは【操水】でレノの手を洗いながら首を振った。
「いいんだよ。たんとあるから。ここに居る間は、水と食べ物の心配はしなくても」
「でも……」
「話は聞いたよ。あんたたちみんなで助け合って、薬師さんを守ってここまで来たってね。一人でも欠けてたら、今頃ここには居なかったんだ」
「でも、俺は何も……」
「あの薬の素材、集めてくれたんだろ?」
レノが頷くと、おばさんはやさしい声で言った。
「私ら、その辺にいっぱい生えてるって言われても、薬草の目利きなんてできやしないんだ。あんたの目が確かだからちゃんとした薬ができて、ウチの子が治るんだよ。あんたも、ウチの子の命の恩人さ」
レノは雑貨屋のおばさんの目を見た。大地の色の瞳が潤んで揺れる。
「……こちらこそ、助けて下さってありがとうございます」
「こんな時だからね、お互い様だよ」
レノが雑貨屋のおばさんと一緒に寝室へ戻ると、三台ある二段ベッドの下段は全て埋まっていた。クルィーロがアマナをだっこして寝かしつけている。
レノはピナの隣の席に腰を下ろし、鞄に乗せたティスの靴を見詰めて考える。
……冷蔵庫はない。さっき術で洗ってもらえたけど、いつまで無事でいられるんだ?
薬師アウェッラーナが獲ってくれた魚は、術で水抜きして塩漬けにして魔物と食中毒を防いでいた。
魔法の使えないレノでも、一般常識として、複数の学派にある何種類もの【結界】系の術が、外部からの侵入を防ぐもので、結界内での発生は防げないと知っている。
もし、この地下室でティスの靴の中身を扉に幽界から魔物が涌いたら、レノたちにも魔物にも逃げ場がなかった。
……この部屋を捨てて逃げるにしても、ティスと怪我人連れて荷物全部持って出るとか、無理だよな。
荷物は諦めるしかないが、それではここを出た後、野垂れ死んでしまう。
……寝てる間に魔物が涌いたら、逃げるどころじゃないだろうし。
水抜きして塩蔵したら、科学の治療では切断部位を繋げられなくなる。何年か前に新聞で読んだ科学の先進国のニュースがどうだったか、記憶を辿った。
確か、脳死した人の臓器を他の病院で待つ患者へ届けるのに、保冷容器に入れて軍のヘリで空輸して云々と書いてあったような気がする。自動車では渋滞に捕まっている間に鮮度が落ちるからだろう。
科学文明国では、病気の臓器を取って、他人の健康な臓器と交換すると言うのが意外だった。
……アーテルやラニスタでも、そうやってんのかな?
ネモラリスのような両輪の国や、ずっと北の純粋な魔法の国では、病気になっても【白き片翼】や【飛翔する梟】学派の呪医が、元通りの健康な身体に戻してくれる。病気の種類や程度によっては、アウェッラーナたち【思考する梟】学派の薬師が魔法薬でゆっくり癒しても間に合う。
レノは妹の靴から視線を外し、薬師アウェッラーナに向き直る。湖の民の薬師は堅パンに手を付けず、カップの湯気を思い詰めた顔で凝視していた。
「あ、あの、アウェッラーナさん」
薬師はヒッと息を呑み、レノに怯えた目を向けた。ピナが薬罐に香草を追加して蓋を横に置く。雑貨屋のおばさんが察して、少し沸かしてくれた。
クルィーロの父が、気遣わしげに声を掛ける。
「お疲れなのでしょう。少し休まれては……」
「いっ、いえっ、今は、ちょっと……」
さっきから何度も大きな術を使って、レノの目にも明らかに無理しているように見える。魔法のコートを脱いで、椅子に掛けているのに気付いた。
……俺は命に別条ないっぽいから後回しでもいいけど、ティスやあの子は……いや、でも、アウェッラーナさん倒れそうだし。
だが、本人が寝ないと言うのだ。レノは質問した。
「あ、あの……塩漬けにすれば、魔物は防げると思うんですけど、そ……それって……」
思った以上に震える声は、自分のものではないように聞こえる。喉の奥が締まり、それ以上言えなかった。
「生で、そのまま……【保存】……【弔う禿鷲】なら……でも、私……お肉屋さ……から……」
「あ、いえ、そんな、泣かないで……最悪、命だけ……」
食卓に突っ伏して泣く薬師を宥めようとしたレノも、涙で言葉が続かなかった。
治療できないなら、魔物が涌く前に術で完全に灰にしなければ危険だ。それはわかっている。「最悪、命だけでも助かればいい。みんなを守る為にティスの足を諦める」と口に出せば、本当にそうなってしまいそうな気がした。
ピナがアウェッラーナの肩を掴んで耳元で叫ぶ。
「お肉屋さん……お肉屋さんだったら、ティスちゃんの足、助けられるんですね? ねッ? ねぇ、アウェッラーナさんッ!」
クルィーロの父がポケットから商店街のパンフレットを出し、丁寧に皺を伸ばして食卓に広げた。クルィーロが宝石の換金や買出しに行った日は、大半の店が閉まっていたと言っていた。
……肉屋さん、開いてるって話はなかったよな。
仕入れできなくて開けられないのか、店の人が避難して居ないのか。
後者なら、どうにもならない。
レノは雑貨屋のおばさんに向き直って姿勢を正した。
「すみません、この近くで、お知り合いの肉屋さんがいらっしゃったら、紹介していただきたいんですが……」
「身内に一人居るけどね」
おばさんがティスの靴から目を逸らして声を落とす。
「でも、そんな……生きてる人の一部に【保存】なんて、やったことないと思うよ?」
「上手く行くかどうか気にしないで、やるだけでもやってもらいたいんです! 勿論、お二人にはできるだけお礼します! お願いします! ティスを……助けて……」
続きが言葉にならなかったが、曇った視界で雑貨屋のおばさんが困ったような微笑を浮かべた。
「私は、薬師さんとあんたたちの薬でウチの子が何とかなりそうだから、お礼なんていいよ。気持ちはよぉくわかるし。あっちも、お礼に娘夫婦を治してくれって言うだろうけど……」
言葉尻でアウェッラーナに目を向ける。薬師は既に魔法のコートを着られないところまで弱っているが、涙に濡れた顔を上げてしっかり頷いた。
「私は……【水晶】越しに魔力を融通していただければ……」
ピナが鞄から素材採取用の手提げ袋を出して、傷薬、香草茶、薬草を入れてアウェッラーナに渡す。薬師は自分の荷物から濃縮傷薬の容器をふたつと塩の袋をそこに追加した。
「じゃあ、早速ですまないけど、行こうか。ウチの一族の昔からある店は地下で繋がってんだよ」
「ピナ、ティスを頼む」
レノは戸口で振り向いた。折れていない方の手で持ったティスの靴が心に重い。ピナはベッドの傍らに跪いて兄と薬師、雑貨屋を見送った。
☆さっき術で洗ってもらえた……「713.半狂乱の薬師」参照
☆治療できないなら、魔物が涌く前に術で完全に灰にしなければ危険だ……「180.老人を見舞う」参照
☆クルィーロが宝石の換金や買出しに行った日……「688.社宅の暮らし」「697.早朝の商店街」参照




