715.テロの被害者
「みなさんはお茶してて下さい。クルィーロさん、力を貸してくれませんか?」
「俺で足りるんなら……」
クルィーロが席を立ち、アウェッラーナが【魔力の水晶】を乗せた手を差し出す。レノたちには見守ることしかできない。
クルィーロが【水晶】と一緒に白い手を握り、薬師は雑貨屋のおばさんから水塊を受け取った。
おばさんが息子をそっと抱え起こす。水が頭を包み、傷だらけの顔を滑り、肉が弾けた肌を流れる。かさぶただけでなく、傷口に残った細かいガラス片や何かの欠片も水を濁らせた。
アウェッラーナが水に命じて、部屋の隅のゴミ箱に不純物を捨てさせる。
クルィーロが【操水】を唱え【魔力の水晶】と水塊を受け取った。
薬師は深い緑色の軟膏を指にたっぷり取って、少年の傷に盛るように塗る。
……あれって、センターの厨房で作ってた濃縮傷薬か。
アウェッラーナは上半身に塗り終えると、クルィーロの手を握り、ティスに使ったのと同じ呪文を唱えた。深緑の軟膏が、意志を持つ存在のように波打ち蠢き、傷の奥へ潜って行く。
雑貨屋のおばさんだけでなく、レノたちも固唾を呑んで治療を見守る。
薬師が少年の枕元に置かれた菓子箱から予備の包帯を取り出して、深緑に色付いた傷に巻き直した。クルィーロが手首に巻いた【護りのリボン】を解き、マントを脱ぎ捨てる。父が魔法の品を拾い、丁寧に畳んだ。
アウェッラーナは下半身も同様に治療し、太い息を吐いて額の汗を拭った。
「明日の……朝くらいにちゃんと意識が戻る筈です。包帯はそれまで外さないで、傷の洗滌もしないでそっとして下さい」
「ほ……骨は、いつ……?」
おばさんの声が掠れていた。
「そっちは……二、三日様子を見てから改めて判断します」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
おばさんがアウェッラーナを拝む。
「す、すみません。水、どこに置きましょう?」
魔力を提供したクルィーロの顔色が悪い。おばさんが早口に【操水】を唱え、水塊を隣室に連れて行った。
魔法使いの二人が椅子に落ち着き、香草茶を啜って一息つく。先に両足の骨折を癒されたクルィーロの父が、食卓に手をついて深々と頭を下げた。
「何から何までありがとうございます。この御恩、どうやってお返しすれば……」
おばさんが薬罐と堅パンのパックを抱えて戻り、ティスに顎をしゃくった。
「薬師さん、あの女の子の方はどうなんだい?」
薬師アウェッラーナが俯いて香草茶のカップを見詰めた。
さっき、傷は塞いでもらえたが、繋がってはいない。レノは妹の靴の中身を思い、大きく息を吸って芳香で胸を満たして止めた。苦しくなるまでそうして、細くゆっくり吐く。
隣でピナも同じことをしていた。
「命に……別状はないんですよね?」
思い切って声を掛けると、アウェッラーナは香草茶から目を離さずに答えた。
「それは……大丈夫です。でも、ちゃんとした【青き片翼】の呪医でないと無理なんです」
「じゃあ、セプテントリオー呪医に……今、王都なんですよね?」
「アミトスチグマです。それに、テロリストや政府軍、解放軍がどう動くかわかりませんから、ここを出られるのもいつになるか……」
クルィーロの父が取り為すように言う。
「薬師さんはこんな状況でも頑張って助けて下さいました。感謝こそすれ、今、無理なことを責める人なんて居ませんよ。薬の材料がないのは薬師さんのせいじゃありません」
「王都に行けたら、別にセプテントリオー呪医じゃなくても、フィアールカさんに神殿の呪医を紹介してもらえば大丈夫だよ」
クルィーロが明るく言ったが、その声は震えていた。
顔を上げたアウェッラーナの緑の目から涙がこぼれる。唇を噛んでマグカップを口許に上げた。数回、深呼吸して涙を拭い、レノの鞄の上に視線を向ける。
みんなの目が、中身の入った靴に集まった。
「何日も経って……腐敗したり、あれを扉に魔物が涌いたりしたら……誰にも繋げられなくなります」
アマナが声もなく涙をこぼしたが、誰も動けない。
食卓に小さな水溜まりが幾つもできた。
最初に我に返ったのは、クルィーロだった。薬罐の蓋を開け、袋に残った香草を一掴み入れる。
「すみません。沸かしてもらっていいですか?」
雑貨屋のおばさんが術でお湯を沸かし、みんなのカップに香草茶を注いで回る。
レノは、自分たちの妹の為に泣くアマナに声を掛けることもできなかった。あまりのことに頭が回らない。隣を見ると、ピナも表情を失ってあらぬ方を見ていた。
「金髪の兄さん、あんた、顔色悪いからそれ飲んだらちょっと寝てなよ。飲んでる間に布団、洗っとくからさ」
おばさんは返事も待たずに隣の部屋へ行った。
風が空気を動かし、お茶の香気を行き渡らせる。治療のお陰で薄らいだ血臭が芳香に紛れた。
レノは少し落ち着きを取り戻せたが、これからどうすればいいか考えられない。自分の状態なら、他人事のように冷静な目で見られた。
……こんなことになるなんて……いや、考えたくないんだ。
この地下室は【巣懸ける懸巣】学派の術で厳重に守られているらしい。この部屋に着くまで、あちこちに呪文や呪印が刻んであった。
外部からの侵入に対しては守られるが、腐肉などを扉に魔物が幽界からこの物質界にやって来るのは止められない。幽界と物質界の行き来を禁じる結界術もあるらしいが、かなり高度で、使える術者がとても少ないと聞いたことがある。一般家庭の地下室にそこまでの術が掛かっているとは思えなかった。
ティスの足が魔物に憑かれたら、それと戦えるのか。
足の一部を失った妹を連れて無事に逃げられるのか。
今、外がどうなっているか全くわからない。
ネモラリス政府軍、ネミュス解放軍、星の標……どの勢力がこの辺りを支配下に置いたのか。それとも、武装勢力には放置されて、さっきまでと同じ地元の警察が、交通整理や治安維持、テロ事件の捜査を普通にできる状態なのか。
……ローク君は、自治区の外にもキルクルス教徒が大勢居るって言ってたけど、力なき民じゃ地区の占領まではできない……よな?
クルィーロの父が同僚から聞いた話、さっきのFMクレーヴェル臨時ニュース、薬師アウェッラーナが王都で運び屋フィアールカと葬儀屋アゴーニに教えられた情報。そのどれもが、星の標が首都クレーヴェルのどこかを占領したとは言わなかった。
爆弾テロの発生とその被害、都民の暮らしへの影響……それだけだ。
……あ、そっか。自爆テロだから、攻撃した奴は居なくなって、占領用の別部隊が来なきゃ、それっきりになるんだ。
政府軍と解放軍の動きは全くわからない。西地区は戦闘区域からは遠く離れていた。
……案外、警察が……いや、根拠もないのにそんな甘い考えじゃダメだ。
☆センターの厨房で作ってた濃縮傷薬……「619.心からの祈り」「620.ふたつの情報」参照
☆アミトスチグマです……「699.交換する情報」「701.異国の暮らし」参照
☆クルィーロの父が同僚から聞いた話……「687.都の疑心暗鬼」参照
☆さっきのFMクレーヴェル臨時ニュース……「708.臨時ニュース」参照
☆薬師アウェッラーナが王都で運び屋フィアールカと葬儀屋アゴーニに教えられた情報……「699.交換する情報」参照




