714.雑貨屋の地下
「取敢えず、一人分できたから、降りといで」
床下から呼ばれ、クルィーロがティスを縦抱きにして呪文を唱えた。ゆるやかな言葉が終わった途端、カウンター内の四角い穴に身を躍らせる。
レノは思わず駆け寄って穴を覗いた。
二人の身体が梯子の傍をゆっくり落ちてゆく。淡い光に照らされた穴の中は、思ったより深い。レノは小学生の頃、クルィーロの【浮遊落下】で木から飛び降りて遊んだのを思い出した。
空き缶に点された【灯】でぼんやり照らされた底に降り立ち、クルィーロはティスを横抱きに抱き直した。
「さ、あっちだよ。……他の人も荷物持って降りといで!」
雑貨屋のおばさんが見上げて叫んだ。
「ありがとうございます! すぐ行きます」
「お兄ちゃん、片手じゃムリでしょ」
肩をつつかれ、レノはピナにティスの靴を任せた。荷物を拾い、首に掛けて背中に回す。たったそれだけの動きでも右腕に激痛が走り、息が詰まった。平気なフリで妹を促す。
「……ピナ、先に降りてくれ」
「うん。お兄ちゃん、ムリしないでね」
妹が床に立つのを見届け、レノは梯子に足を掛けた。
少し降りて横を見ると、規則正しい模様が下からの光にうっすら浮かび上がる。暗い色の石材に何か呪文が刻まれて守られているのだろう。地下室はずっと下に見える。レノは骨折した右手を庇い、左手で梯子を握って慎重に降りた。
石材の向こう側が岩盤なのか土塊なのかわからないが、分厚い壁が身長の三倍くらいの深さ続いた。
底に足が着く。湿った土の匂いが籠もっていた。
「片手じゃ危ないから、荷物、私が降ろすね」
「ごめん……」
「今、そんなコト言ってる場合じゃないでしょ。ティスちゃんについててあげて」
レノはティスの靴を受け取り、梯子を登る妹を見送った。
四角い穴が小さく見える。三階建てのビルをすっぽり埋めたくらいの深さだが、地下室の天井は普通のワンフロア分の高さだ。
実家の風呂場くらいの狭い梯子室を出る。
開け放たれた戸の奥は、スチール棚が並ぶ倉庫だった。段ボールや木箱が数個、空き缶の【灯】にぼんやり浮かび上がり、古い型の家電製品は埃を被っている。
……商品は売り切れで、残ってんのは私物のガラクタ……か。
レノは荷物を肩に掛け直し、重い靴を胸に抱き寄せて奥の部屋に進んだ。
ムッとする血の臭いに顔を顰める。
二段ベッドが壁に沿って三台。まんなかには六人掛けの食卓と椅子があった。食卓で蝋燭のない燭台に【灯】が点る。左の壁には何もなく、正面に金属製の扉がついていた。これにも力ある言葉の刻印がある。
「あ、レノ。じゃ父さん連れて来るよ」
「うん。ティスのこと……ありがとう」
クルィーロが入れ違いに出て行く。雑貨屋のおばさんはレノの背後に誰も居ないのを見て肩を落とした。
「あの姐さん、まだかい?」
「大怪我したおじさんを一人にできませんから……」
「そ、そうだね。薬師さんが怪我人ほったらかしなんてムリだよね? あんた、あの姐さんが骨折治すお薬持ってるか知らない?」
アウェッラーナは、王都やレーチカで身内の船を探すついでに薬の素材も少し買ってきたようだが、レノにわかるのは傷薬用の植物油だけだ。
……いい加減なコト言えないし、参ったな……あッ!
空襲から逃れた当時、メドヴェージが腕を骨折していたのを思い出した。運河で暴漢の手から救出された後、アウェッラーナはレノたちを癒し、メドヴェージの腕もすっかりよくなっていた。
アミエーラの時は薬師アウェッラーナが疲れていて、そんな大きな術は使えなかったのだろう。
……今も、ちょっとムリっぽいよな。
レノは、湖の民の薬師があんなに取り乱したのを始めて見た。
アウェッラーナの外見は中学生のピナと大差ないが、半世紀の内乱中に生まれた長命人種だ。テロや空襲、暴漢や魔獣に怯えることはあっても、常に冷静な目で状況を見ていた。
レノたちは、薬師アウェッラーナとソルニャーク隊長の落ち着いた態度と判断に安心して着いてゆけたのだ。
……俺たち、アウェッラーナさんたちに頼り過ぎだったんだよな。
レノが黙っていると、雑貨屋のおばさんの目が不安に曇った。
「あ、あのっ、薬師さんが今、骨折用の薬、持ってるかわかんないんですけど、術で治すのは見たことあるんで、大丈夫ですよ」
「そうかい。そりゃよかった。……じゃあ、火傷や刺し傷、切り傷なんかはどうだい?」
「えーっと……火傷はわかりませんけど、傷薬は持ってますよ。俺、傷薬になる薬草採るの手伝ってて、葉っぱだけなら持ってるんで……」
「作ってもらえるんだね?」
おばさんがレノの両肩を掴んで揺さぶる。激痛に呻きが漏れ、おばさんはバツが悪そうに手を放して俯いた。
「え……えーっと、油……菜種油でもオリーブオイルでもいいんで、植物の油があれば、作ってもらえますよ」
「胡麻油でも?」
「多分……」
おばさんが複雑な顔をしたところへ、両肩に荷物を掛けたピナとアマナが来た。
「お兄ちゃん、ティスちゃんは?」
「そっちで寝てるよ」
おばさんが突き当りのベッドを掌で差す。
レノたちが枕元に行くと、おばさんは荷物を下ろすよう促し、ピナに聞いた。
「薬師さんは?」
「今、降りてくるところです」
「そうかい。じゃ、閉めに行くよ」
おばさんが出て行くと、アマナがベッドを覗いた。ティスはまだ目を覚まさない。
……まさか、このまま……なんてコト、ないよな?
レノはティスの靴を自分の鞄に乗せ、妹の寝顔を見詰めた。苦痛に歪んでいる訳ではない。表情のない寝顔は蒼白で、唇は褪せていた。薄い掛け布団が上下し、呼吸がしっかりしているのだけが救いに思える。
クルィーロが残りの荷物を抱え、彼の父と薬師アウェッラーナ、雑貨屋のおばさんが入って来た。クルィーロの父は自分の足で歩けるようになっていたが、薬師アウェッラーナの顔色が良くない。
おばさんが戸を閉めて見回した。
「一、二、三……七人かい。ベッドが足りないねぇ」
「毛布持ってますから、あっちの棚でも全然……」
「ウチはあたしとこの子だけだからね。もう三人分……」
「それなら、一段に二人ずつでいいと思いますよ」
クルィーロの父の一言で話がまとまった。
レノは二段ベッドの支柱にもたれて成り行きを見守る。
……みんな、そんなこともすぐに思い付かないくらい、参ってんだな。
「で、その治療のことなんだけど、薬師さんは骨が砕けてても元通りに治せるのかい?」
薬師アウェッラーナは、拝むような視線で縋られ、頷いて扉脇のベッドに近付いた。包帯を巻かれた少年が横たわっている。全身に巻かれた包帯の左半分は血が滲んでいた。
「粉砕骨折……時間が掛かりますけど、私でもなんとかなります」
「じゃあ、鼓膜は? 両方破れてんだよ」
「それも……状態によって、すぐ良くなる場合と時間が掛かる場合がありますけど……」
「治るんだね?」
赤毛のおばさんが涙を浮かべ、湖の民の手を取った。薬師アウェッラーナは自由な手をその上に重ねて頷く。
「治せます。でも、今日は身体の外側の傷だけ先に……明日の夕方、それが完全に塞がって意識が戻ってご飯食べて……えっと、怪我したの、いつですか?」
思い出したように質問する。
負傷者の母親は首を振った。
「毎日毎日あれで……もう何日経ったかなんてわかりゃしないよ。八号線のテロのせいで……こんな……」
おばさんが泣き崩れる。
薬師アウェッラーナは気の毒な母親の肩を抱いて励ました。
「そんなに長い間……息子さんもお母さんも、よく頑張りましたね。……安心して下さい。必ずよくなりますから」
クルィーロが鞄から何か出した。緑色……香草の袋だ。
「あ、あの、香草茶あるんで、ちょっとだけ休憩しませんか?」
おばさんが顔を上げ、クルィーロをじっと見て頷く。入って来たのとは別の扉を開けると、冷たい風が部屋を巡った。
……外と繋がってんのか。
おばさんが水塊を連れ、マグカップを乗せたお盆を手に戻る。
「六つしかないから交代で……」
「大丈夫です」
ピナが自分の銅マグを食卓に置くと、おばさんは微笑んだ。クルィーロが水塊を受け取って香草茶を淹れる。戸を閉めると、部屋が芳香で満たされた。
「遠慮しないで座っとくれ。あっ……と。椅子が足んなかったね。待ってな」
おばさんが棚の部屋から空の木箱をふたつ持って来る。
薬師アウェッラーナは、少年の包帯を慎重に外して小声で呪文を唱えながら傷の具合を診ていた。おばさんがみんなにお茶を勧め、薬師の隣に木箱を置いて座る。
「ウチの子、どう? すぐよくなりそう?」
「少しだけ手当てを受けられたんですね?」
「あ、あぁ。お巡りさんが釘やら何やら全部取ってくれて、頭には刺さらなかったからね。それだけはよかったんだけど……親戚が傷薬をちょっとだけ調達して、分けてくれたんだよ」
「食事はどうされてます?」
「日に何回かちょっとだけ目を覚ますから、その時にジュースやスープを飲ませて身体を洗って消毒して……」
おばさんは早口に答えて湖の民の薬師を窺う。薬師の外見は中学生くらいの少女だ。
アウェッラーナは静かな声で言った。
「二人でとても頑張って今日まで命を繋いだんですね。お陰で化膿してませんし、今すぐどうこうと言う状態ではありません。体力が落ちているので、さっき言った通り、外側を先に癒して、感染とかの心配をなくしてから、できるだけごはんを食べて、もう少し体力が戻ってから耳と骨を治しましょう」
おばさんは何度も頷きながら説明を聞き、薬師の手を取って伏し拝むように頭を下げた。
「先に治療します。お水を……バケツ一杯分くらいってありますか?」
「水はたんとあるから、幾らでも言っとくれ。バケツ一杯分だね?」
おばさんがいそいそ出て行くと、アウェッラーナは荷物から薬を出した。
☆空襲から逃れた当時、メドヴェージが腕を骨折していた/運河で暴漢の手から救出された後……「087.今夜の見張り」、「083.敵となるもの」参照
☆アミエーラの時……「187.知人との再会」参照
☆八号線のテロ……「690.報道人の使命」「695.別世界の人々」「708.臨時ニュース」参照




