713.半狂乱の薬師
「ごめ……ごめんなさいぃぃ……いやあぁあああッ!」
悲鳴とも泣き声ともつかない叫びが、破壊された街角に響く。
逃げられる者はとっくに姿を消し、残っているのは動けない負傷者と彼らを助けようとする者、遺体に縋って嘆く者、置き去りにされた子供だ。
クルィーロの父を助け出せたものの、瓦礫に挟まれた両足は骨折していた。上半身は無事で意識はあるが、息子に背負われた顔は蒼白だ。クルィーロとアマナ、ピナはあちこちすり傷と痣だらけだが、動けなくなる怪我はしていない。
レノ自身は右腕を骨折したらしく、少しでも動かすと激しく痛むが、歩くのには支障なかった。
意識を失ったティスの傍らで、唯一人無傷で済んだ薬師アウェッラーナが泣き叫んでいた。
「アウェッラーナさん、落ち着いて……落ち着いて下さい!」
ピナが肩を揺すって必死に宥めるが、その声も届かないらしく、半狂乱で泣き続ける。嗚咽に紛れてはっきりしないが、どうやらアウェッラーナでは治せないことを詫びているらしい。
そうしている間にもティスの足から血が流れ出て止まらなかった。
……早く止め……血……あッ! 傷薬あるんだ!
レノは荷物に入れたのを思い出した。右手が使えず、膝で鞄を押さえて左手だけでファスナーを引っ張るが、くにゃくにゃして開けられない。やっと動いたかと思えば、噛み込んでしまった。隙間から手を突っ込んでどうにかプラ容器を掴む。今度は傷薬を握った手が引っ掛かった。
レノがもがいていると、アマナが気付いて、泣きじゃくりながら手伝ってくれた。
やっと引っ張り出せたが、蓋を開ける手が震えて落としてしまった。アマナが容器を追い掛ける。転がった先でティスの靴が視界に入り、息を呑んで硬直した。
「お薬……あ……ッ!」
ピナが、薬に手を伸ばしかけた手を引っ込め、自分の通学鞄を勢いよく開けた。草が詰まったビニール袋を掴み出し、結び目を解かずに引き千切る。乾燥した香草が飛び散り、慌てて掻き集めた。
「アウェッラーナさん、これッ!」
ピナが香草を手の中で揉み潰して薬師の鼻先に突きつけるが、乾燥した葉は香気が弱く、血と煙の臭いに負けてしまう。
「父さん、ゴメン」
クルィーロが父を歩道に降ろした。折れた足が地に触れ、微かに呻きを漏らしたが、何も言わずに息子を見守る。
「ピナちゃん、水、もらうよ」
クルィーロはピナの鞄から水筒を取り出した。蓋を開け、呪文を唱えながら傾ける。コップ一杯分の水を操って道に散らばる香草を集めた。更に力ある言葉で何事か命令する。
レノは何もできない無力感を噛みしめ、道に転がった傷薬の容器を拾った。密閉容器の蓋は片手では開けられない。中身入りの靴を見て怯えるアマナに頼むのは酷だ。
クルィーロは術に集中している。茶葉を含む水が宙で煮え滾った。濃い香気が届き、レノの動揺が鎮まる。
「おじさん、すみません。俺、右手が……」
「わかった」
クルィーロの父は密閉容器を受け取り、落ち着いた動作で開けてレノに返した。
宙で激しく煮え立つ香草茶の塊が蒸発してどんどん小さくなる。薬師アウェッラーナの叫びが啜り泣きに変わった。
レノはアマナに開けてもらった鞄をひっかき回して水の瓶を探し出す。
「あの、アウェッラーナさん、水! 洗ってから薬塗るんですよねッ?」
薬師アウェッラーナは、しゃくりあげながら受け取って開けた。蓋が落ちて転がり、血溜まりで止まる。
クルィーロが、宙で沸かした香草茶を薬師の顔の前で広げた。全てが湯気に変わり【操水】の支えを失った出涸らしが道に落ちる。
アウェッラーナが大きく深呼吸して激しくむせた。ピナがその背をさする。咳が落ち着くと、薬師はしっかりした声で呪文を唱えながらティスの足に触れた。レノが初めて目にする術だ。
……強力な癒しの術、使ってくれてんのかな?
レノは妹の傷を直視できず、湖の民の薬師の横顔を見詰めた。
アウェッラーナは続いて、すっかり聞き慣れた【操水】を唱える。瓶から水が起ち上がり、ティスの足を洗う。うっすら赤く染まった水を宙に浮かせ、傷薬をたっぷり手に取ってティスの足首に塗った。更に別の呪文を唱える。緑色の軟膏が波打ちながら染み込み、再生した皮膚が端から足首の傷を包んで塞いでしまった。
「あっ、あのッ……靴……靴の中に……」
「知ってます。でも、今はこれしか……」
薬師が涙を浮かべ、言葉が途切れた。赤い水塊が道路脇に落ち、側溝に流れる。
「ちょいと、そこのお姐さん」
女性の声で、ピナとアウェッラーナが顔を上げた。レノが見回すと、数軒先の雑貨屋から赤毛のおばさんが顔を出している。
「湖の民のお姐さん、あんた、呪医なのかい?」
「い……いえ。薬師です。【青き片翼】とかは、少ししか……」
「薬を持ってて、少しでも使えるんだろ? 上等じゃないか。ちょっとウチの子、診ておくれでないかい?」
遠くで立て続けに爆発が起こった。
レノたちは身を竦め、おばさんが引っ込む。
轟音の余韻が消え、代わりに焦げ臭さが強くなる。
レノはそっと辺りを窺った。取り残された幼児が商店街の方へ駆けて行く。おばさんが雑貨屋から顔を出して手招きした。
「薬師さん、ちゃんとお礼するから、来ておくれでないかい?」
「えっ……えっと……な、仲間も一緒に……休ませていただけるのなら……」
薬師アウェッラーナが体ごと向き直り、レノの袖を掴んだ。
「あ……あぁ。お仲間も大変みたいだし、ウチの子を治してくれるんなら、一緒に休んでっとくれ」
おばさんは店の戸を全開にして手招きした。
クルィーロが【操水】でティスの靴を洗う。ピナがティスを抱き上げた。
「お兄ちゃん……」
視線で促され、レノは水塊から小さな靴を受け取った。その重みに涙がこぼれそうになるのを堪え、よろよろ歩くピナに続いた。
雑貨屋の商品棚は、洗剤が少しあるだけだ。缶詰などの保存食や水筒、保存容器、その他の日用品を扱っていたのが、からっぽの棚に残った値札でわかった。
おばさんがカウンター奥の板を上げ、困った顔をした。
「梯子なんだけど、大丈夫かい?」
「大丈夫です。俺が【浮遊落下】で降ろすんで」
みんなの荷物を抱え、クルィーロが入って来た。
おばさんがホッとして聞く。
「あんたたち、みんな力ある民かい?」
「いえ……」
レノが苦い思いで首を振ると、雑貨屋のおばさんは同情を含んだ目を向けた。
「この戸は【認証】が掛かってて、魔力がないと開けらんないんだよ。作用力はなくてもいいから、【魔力の水晶】でもいいんだけどね」
「わかりました。締め出されないように気を付けます」
レノは雑貨屋を信用していいか測り兼ね、ひとまず【魔力の水晶】を持っていないフリをした。
招待された薬師アウェッラーナの姿がない。アマナと一緒にクルィーロの父の傍についているのだろう。
「ピナちゃん、だっこ交代しよう」
「寝床を整えるから、ちょっと待っとくれ」
雑貨屋のおばさんは慣れた動作で床下に姿を消した。
☆どうやらアウェッラーナでは治せないことを詫びているらしい……「066.内と外の境界」参照
☆【浮遊落下】……「029.妹の救出作戦」参照




