710.西地区の轟音
最後に出たクルィーロの父は、社宅のドアに鍵を掛けなかった。
廊下ですれ違った社員や、買物に行くらしいおばさんが訳知り顔で会釈する。みんな、おはよう、とは言っても大荷物の一団に、どちらへ? とは聞かない。暗黙の了解ができているのだと気付き、レノは遣る瀬なくなった。
停戦時間終了まで、まだ一時間くらいある。
大通りには出ず、社宅の裏道を通って西門へ向かう。
一車線しかない裏通りにも個人商店がポツポツあり、渋滞を避けて買出しに来た車がそれなりに走っていた。
ここ数日、レノも朝の買出しを手伝っていたが、いつもよりずっと人通りがある。臨時放送のお陰で、同じことを考える人が増えたらしい。
……アウェッラーナさん、王都から帰ってすぐ教えてくれりゃよかったのに。
何故、黙っていたのか。水臭いと思ったが、今はそんなことを聞ける状態ではない。
毛布を被っているので手は繋げない。レノは隣を歩くティスが遅れていないか、気に掛けながら足を進めた。ピナはレノたちの斜め前をアウェッラーナと並んで歩く。クルィーロたち一家三人は、レノたちの後ろだ。
地図上では一キロ足らずの道がとても遠い。
食堂の前に小さな黒板が出ていた。
上端に白の耐水塗料で「本日のオススメ」と書いてあるが、料理名はなく、新聞の切抜きが貼ってある。ピナとアウェッラーナが足を止めて振り向いた。
「アミトスチグマの湖南経済だって」
切抜きの下のチョーク書きを読み上げられ、レノは小走りに近付いた。
ネモラリス共和国の首都クレーヴェルで発生したクーデターと自爆テロの件が、国内のラジオより詳しく書いてある。
クルィーロ父子も追い付いて切抜きに目を走らせた。
「ここより外国の方が詳しいなんてなぁ……」
クルィーロが引き攣った笑いを浮かべると、店の戸が開いた。
買物袋を手にしたおかみさんが、通りを見回して小声で言う。
「ゴメンよ。材料が足んなくてお店休んでんのよ。この間、FMクレーヴェルのDJさんが来て、貼らせて欲しいって頼まれてね」
「そうなんですか」
意外な言葉にレノとクルィーロは驚いて同時に言った。
政府軍が押さえた放送局はFMクレーヴェルだけだ。わざわざ外国の新聞……しかも、こんな記事を貼らせた意図がわからない。
……“政府軍は情報統制なんかしてませんよ”アピールなのかな?
「ウチは、ちょっとでも世間様のお役に立てるんならって引き受けたけど、DJさんが言うには、ネミュス解放軍に知れたら何されるかわかんないから、今日の昼前には剥がして燃やしてくれって……」
おかみさんのひそひそ声にクルィーロの父も周囲を見回した。
「そうだったんですか。そんな危険なことだったとは……ありがとうございます」
「私、ここ通るの一週間振りなんで、知りませんでした」
「まぁねぇ。こっちの道は開いてる店が少ないし、仕方ないよ。またここに戻った時はご贔屓に」
おかみさんは、にっこり笑って湖の民の薬師の肩をポンと叩き、大通りへ出る細道にそそくさ入った。
黒板の反対側にはコピー用紙に手書きで、今日の日付と「FMクレーヴェル臨時ニュース 朝の停戦時間」とだけある。通行人たちが次々足を止め、切抜きに目を通して離れて行った。
レノたちも荷物を持ち直して歩きだす。
……切抜きを読みに来られない人用の放送なのかな?
ぼんやりした思考は、激しい衝撃で吹き飛ばされた。身体が宙に浮き、あっという間もなく道路に叩きつけられる。鉄錆の味が広がり、遅れて顔や肩に痛みを感じた。
轟音に耳鳴りがする。
飛び交う悲鳴と怒号。
焦げ臭さと血の臭い。
逃げるたくさんの足。
レノが辛うじて顔だけ上げると、薬師アウェッラーナが身を起こすのが見えた。その隣にピナが倒れている。頭から被った毛布に何かの破片が大量に引っ掛かり、元の色がわからない。
起き上がろうとしたが、激痛に息が詰まって声も出ない。
無事な車が速度を上げて走り去る。
動かない親の傍らで、幼子が泣く。
埃と瓦礫が降り注ぎ、彩が消える。
狭い裏通りを大勢の人が逃げ惑う。
動かない人、負傷者を抱えて走る人、起き上がろうとする人、痛む場所を押さえて呻く人、道に点々と赤い痕を残しながら足を引きずって行く人。
路上に車の金属片、荷物や服の切れ端、人の一部が散らばっている。
また爆発がした。
轟音が腹に響く。
少し離れた場所らしい。遅れて聞こえた悲鳴が遠い。
アウェッラーナがピナを助け起こし、身体をさする。
レノは痛まない方の腕に体重を預けてそっと身を起こした。ティスを探して通りを見回す。灰色一色に染まった埃っぽい裏通りのあちこちに血溜まりができた。
すぐ後ろで、クルィーロがアマナを毛布で包んで抱き上げた。
彼の背後で黒煙が上がり、数台の車が炎に包まれていた。爆心地は思ったより後ろだが、何軒もの店や民家が崩れ、半分残った部屋の中身が丸見えだ。
「レノ、レノ! 立てるか?」
「……」
声にならず、微かに漏れる震えた吐息に自分で驚く。
……ティスは?
何とか頷いて道の上に視線を走らせた。散らばった瓦礫に人の破片をみつけ、思わず目を逸らす。
「お兄ちゃん、私は大丈夫。ティスちゃんは?」
見上げると、ピナは荷物を肩に掛け、自分の足でしっかり立っていた。毛布を振って埃とガラス片を落とし、辺りを見回す。
レノは取敢えず、近くに転がっていた荷物を拾って立ち上がった。どうやら左手は無事だが、右腕は痛過ぎて全く力が入らない。
「お兄ちゃん、お父さんは?」
アマナがクルィーロの腕から滑り降りる。兄妹の金髪は埃を被ってくすんでいた。
三度目の爆発音。思わず目をつぶって身を竦める。
恐る恐る目を開けると、商店街の方で黒煙が二本立ち昇っていた。
「あっ! おじさんッ!」
ピナが指差す。クルィーロの父は店の瓦礫に足を挟まれていた。倒れたまま動かないのは、気を失っているからか。それとも……
クルィーロが駆け寄って呪文を唱える。ゼルノー市で何十回、何百回と使った【重力遮断】だ。術が完成し、崩れた壁の塊を発泡スチロールのように片手で投げ捨てる。
兄妹が何度も父を呼び、薬師アウェッラーナが傷の具合を診る。
……そうだ、ティス……ティスは?
さっきまでレノの隣を歩いていた。
車道の端に見慣れた通学鞄をみつけた。痛む足がもつれてつんのめる。傾いた街灯にしがみついてどうにか身を支えた。
「ティス……! ティスッ!」
あの毛布の下には妹が居る筈だ。倒れないよう、震える膝を叱咤してすり足で近付く。ほんの数メートルがこんなに遠い。思うように動かない身を引きずって小さな膨らみの傍らに膝をついた。
毛布をめくると妹の顔があった。
ピナも気付いて駆け寄り、声を限りに末妹を呼ぶ。レノは反応のない末妹の頬に手を触れた。あたたかい。指先に吐息が触れた。
……生きてる! ティスは生きてる。大丈夫だ。落ち着け、俺!
レノが薬師アウェッラーナを呼ぼうと振り向く。視線の先に見覚えのある靴が落ちていた。
☆ゼルノー市で何十回、何百回と使った【重力遮断】だ……「151.重力遮断の術」「152.空襲後の地図」参照




