707.奪われたもの
剣戟の音が遠ざかる。
足を上げる度、地に降ろす度に胸部を激痛が襲い、細い息が止まる。
歯を食いしばり、咳を堪えてまた一歩。銀の糸が結ばれた大木へ、剣を杖に足を踏み出す。額を伝う汗が左目に入ったが、拭う余裕はなく、足だけを前に出す。
魔力を圧縮して放つ【光の槍】は、魔法に無防備なアーテル軍の爆撃機を一撃で葬り去る。魔装兵ルベルは、至近距離から背中を撃たれたが、【鎧】に守られ、辛うじて一命を取り留めた。
……呪文は唱えられない、剣で戦うのも無理。でも、【流星陣】の糸を切るくらいは……!
這うような歩みで、何ものも通さない結界の端に近付く。
背後で悲鳴が上がったが、振り向かずに前へ。
倒れかけた身体が見えない壁に当たって止まる。敵――恐らくネミュス解放軍の兵が建てた【障の壁】に身を預け、背を丸めて激しく咳込む。細かい血飛沫が宙に留まり、不可視の壁の範囲を教える。
咳の反動で大きく換気されるが、肋骨が刺さったらしい肺は、勝手に抜けてゆく空気を更に欲した。
荒い息を吐き、一瞬止めて足に力を入れる。上体を起こし、不可視の壁に手をついて歩みを進めた。引きずられた血が宙に刷毛で刷いたような赤い痕を残す。
数歩進んだところで不意に支えを失い、木の根で強か右肩を打った。身体を丸めて咳込む。喉の奥に粘りついた血が、呼吸に雑音を混ぜる。
左手を伸ばして剣を拾い、根に沿って重い身体をずり上げた。
幹にもたれて座り、息を細く吐いて整える。
顔の横に【流星陣】を張る銀の糸が見えた。
剣に魔力を行き渡らせ、呼吸を止めて振り抜く。確かな手応えと同時に風が通り、木々がざわめいた。
「鵬程を越え、此地から彼地へ……」
知らない声が呪文を唱える。魔装兵ルベルは首を巡らせた。
衛生兵セカーチが腹を押さえて蹲り、少し離れた所にアシューグ先輩が倒れている。湖の民の一人が先輩に手を触れて【跳躍】を唱え、もう一人がシクールス隊長と剣を交える。
「……この身を其処に!」
術が完成し、二人の姿が掻き消えた。取り残された湖の民がシクールス隊長を力任せに蹴りつけ、木々の間を縫って走り去る。
隊長は追わず、研究所の門へ走った。
戻った隊長の手にはセカーチの荷物があった。
「どれだ?」
袋の中身をぶちまけ、セカーチに魔法薬を選ばせる間に【操水】で灌木から水を抜き、彼の傷を洗う。衛生兵が自らを癒す間、シクールス隊長は湖の民四人の死体を【無尽袋】に回収した。
……身元の確認と、どうやってここを知ったのか、いや、こんな狙いすまして来られたのか……の確認か。
敵兵を丁重に弔う為ではない。
何ひとつ遺族の手に渡ることはなく、彼らは“行方不明”になる。
アシューグ先輩もまた、同様に扱われるだろう。先輩を悼むより先に重大なことに気付き、ルベルは目の前が暗くなった気がした。
……魔哮砲の制御符号。
ネミュス解放軍が首都の裁判所を制圧して【鵠しき燭台】を接収すれば、何もかもわかってしまう。
「よくやった。危うく全滅するところだった」
顔を上げることもできないルベルの肩にシクールス隊長がそっと手を触れる。
「命あらばこそ、善後策を立てられるのだ」
耳元で囁かれ、ルベルが辛うじて首を縦に振ると、隊長と衛生兵セカーチは同時に【跳躍】を唱えた。
魔装兵ルベルと衛生兵セカーチは、基地で軍医の手当てを受け、すぐに密議の間へ呼ばれた。重苦しい空気の中、報告する。
ルベルは一般人の狩人だと思って見逃そうとしたことを伏せ、ただ、見落とした不首尾と任務を全うできず、おめおめと逃げ帰った醜態を詫びた。
アル・ジャディ将軍が溜め息を吐いて眉を下げる。
「そう気を落とすな。【姿隠し】を使われたのであれば、【索敵】の目にも見えぬ」
「資料の一部は奪われたが、最も重要な部分は回収できた」
水軍将補が二人を労う。
陸軍将補シクールスの姿はなかった。【鵠しき燭台】で湖の民の死体を調べているのだろう。
魔哮砲の制御符号を知る歌い手アシューグの遺体を奪われたことには、一言も触れられなかった。シクールス隊長の言う通り、今は失態を咎める時間を惜しんで、善後策を考えねばならないのだ。
ルベルは宿舎の自室に戻るなり、ベッドに倒れ込んで胸板を撫でた。
疲れ切った身体はすっかり傷が癒され、森の出来事が嘘のように痛みがない。目を閉じたが、気が昂ぶって眠れなかった。
あの時、どうしてもっと早くに知らせなかったのか。発見直後に妨害していれば【流星陣】は完成せず、全員無事に【跳躍】で逃げられた。
湖の民を斬ることを躊躇しなければ、シクールス隊長の手を煩わせずに済んだ。アシューグ先輩は死なず、資料も奪われずに済んだ。
判断の甘さを嘆くが、涙は出なかった。
真実を告げず、保身を図った浅ましさに自己嫌悪の沼が口を開ける。
シクールス隊長とアシューグ先輩の迷いのない太刀筋が怖かった。
……俺には、国民に刃を向けるなんて無理だ。
魔哮砲を手放せば、ネミュス解放軍と手を結んでアーテル軍から民を守る為に共闘できる筈だ。今は、ネモラリス人同士で血を流し合っている場合ではないのに、何故そうしないのか。
多くの機密に触れても、一兵卒に過ぎない魔装兵ルベルには、アル・ジャディ将軍の考えもネモラリス政府の思惑もわからなかった。
☆魔哮砲の制御符号……「486.急造の捕獲隊」「509.監視兵の報告」参照




