706.研究所の攻防
視界の端で何かが動く。
魔装兵ルベルは反射的に顔を向けた。
人間の男性。湖の民で呪文がびっしり縫い込まれた服を着ている。首から提げた徽章は【急降下する鷲】だ。一人で五十メートルばかり離れた薮の向こうを歩いてゆく。
ルベルの【索敵】の目には彼がはっきり見えるが、地元の狩人らしき湖の民はこちらに気付かず、前を向いていた。武器らしきものは腰に吊るした山刀一丁で、抜かずにやや中腰で歩く。慎重な足取りは獲物をみつけたからか。
……遠いし、こっちに来なきゃ言わなくてもいいよな。
祈り虚しく現れた狩人を見なかったことにして、行方を目だけで追う。
「何かみつけたのか?」
声を掛けられ、衛生兵セカーチに顔を向けた途端、【索敵】が切れる。何も知らない狩人を指して「敵襲」とは言えず、ルベルは誤魔化した。
「話し掛けられたら、気が散って術が切れちゃうんだ」
「あ、すまんすまん。こっちで何かみつけるまで黙ってるよ」
「うん。ありがとう」
気が散っているのは元からだ。さっきから余計なことばかり考えている。
旗艦の哨戒任務では、話し掛けられても耳に入らず、肩を掴んで揺さぶられるまで呼ばれたことにも気付かなかった。
「害意 殺気 捕食者の姿 敵を捕える蜂角鷹の眼 敵を逃さぬ蜂角鷹の眼 詳らかにせよ」
ルベルはゆっくり呪文を唱え、狩人をみつけた辺りに【索敵】の目を向ける。
彼はかなり先に進んでいた。【風の矢】や【光の矢】なら木立を避けて飛ばせる。下手に近付くより遠くから射た方がいい筈だと気付き、獲物が何なのか気になった。
狩人の進行方向に【索敵】の視線を向ける。彼と似たような格好の湖の民だ。
……挟み撃ち?
見落としたのかと思い、二人の間に視線を飛ばそうとした時、二人目の手で細い物がきらめいた。薮の向こうに焦点を合わせ、男の手の中に目を凝らす。
……糸?
向かい合って歩く二人が合流した。先にみつけた狩人も糸巻を持っている。二人は同じ大木に糸を巻きつけ始めた。
ルベルの心臓が跳ね上がる。
……囲まれた……ッ!
「て……敵襲ッ! 【流星陣】だ!」
「どこだッ? 完成したのか?」
「まだだ。正面、距離、約五十ッ!」
魔装兵ルベルの報告を衛生兵セカーチが【花の耳】に復唱する。
「諸の力を束ね 光矧ぎ 弓弦を鳴らし 魔を祓え」
ルベルは司令本部の命令を待たず、大木に【光の矢】を放った。狙いは銀の糸だ。幹が抉れ、幾重にも巻かれた銀糸が数本、風に漂ったが、全ては切れなかった。
先にみつけた狩人がこちらを向く。もう一人が【流星陣】の術者らしく、幹に手を押し当てて詠唱を続けていた。
……あの時は狙わなくても切れたのに!
狩人が山刀を抜いて向かって来る。ルベルは再び【光の矢】を唱えた。不可視の弓を引き絞る手の中で魔力が矢を成す。狙いは術者の手。光が尾を引き、木立を避けて音もなく飛ぶ。
術者の前に人が現れ、【光の矢】が霧消した。民生品の【鎧】を纏い、旧王国時代の剣を手にした湖の民の男性だ。【跳躍】で次々と人が増え、こちらに向かって来る。
殺意のないルベルの【光の矢】は【鎧】に守られた男に傷ひとつ与えられなかった。
背後から草を蹴散らす音が近づく。
「敵の術は完成したのか?」
「恐らく……」
シクールス隊長の声に振り向くこともできず、ルベルは剣を抜く。
「天地の 間隔てる 風含む 仮初めの 不可視の壁よ 触れるまで 滾つ真水に 姿似て ここに建つ壁」
こちらは四人、向こうは新手も合わせて六人。扉に沿わせて【真水の壁】を建て、数の不利を補う。
大木の傍の薮がガラス板を押し当てられたようにひしゃげ、真上を飛んでいた鳥が壁に叩きつけられたような格好で落ちた。【流星陣】の術者も壁を建てたらしい。
……先に糸を切って【跳躍】?
いや、無理だ。ルベルの錬度では五十メートル先の糸に【光の矢】を当てられない。仮にできたとしても、敵がこちらに【跳躍】を唱える猶予を与える筈がなかった。
シクールス隊長が容赦なく【光の槍】を撃ち込む。向こうも同じ術を放ったが、【真水の壁】に阻まれ、衛生兵セカーチは無事だ。
青く色を変えた壁は後何発、持ち堪えられるだろう。
ルベルとアシューグ先輩も【光の矢】で応戦するが、相手の【鎧】はかなり強力なのか、大した傷を与えられない。
セカーチが門扉を半分閉めた瞬間、【真水の壁】が五発目の【光の槍】で消えた。
「接敵せよ!」
シクールス隊長の号令で、四人は相手を定めて突進した。剣で斬り合いながら術を使える程の手練はそうそう居ない。乱戦になれば、残る二人も遠隔射撃が難しくなる。
ルベルは最初にみつけた狩人風の男に斬りつけた。山刀で受け流され、体勢を崩す。身体があったところを光の塊が通り、若木が弾け飛んだ。仲間を巻き添えにしても気にしないのか、狙撃に自信があるのか。
魔装兵ルベルは【索敵】が失効した目で狙いを定めた。湖の民の靴に剣を振るい、林床を転がって距離を取る。
案の定、靴本体には防禦が掛かっていたが、紐は無防備だった。靴紐が切れた軍靴が緩み、狩人の踏み込みが甘くなる。
ルベルは剣に意識を集中し、魔力を送り込んだ。突きを躱し様、剣を持つ手首目掛けて振り抜く。手袋の刺繍を断ち、刃が肉に達した。
……人を斬るなんて……!
背中に激しい衝撃を受け、幹に叩きつけられた。
地に落ちた瞬間、咳込んだが、激痛に息が止まる。それでも咳は止まらない。口許へやった手に血飛沫がこびり付く。狩人が獣のような咆哮を上げ、咳込む魔装兵に斬り掛かる。
……浅かったか。
諦めて目を閉じる。立て続けに三度咳込んだが、敵の刃は届かなかった。
「剣を拾えッ!」
シクールス隊長の声に瞼を上げる。狩人は薮に引っ掛かって動かず、山刀とルベルの剣が落ちていた。隊長はそれ以上ルベルに構わず、【光の槍】を唱える湖の民に石を投げて駆け寄る。
息をするだけで激痛が走るが、咳を堪えて剣を拾い、幹を背に立ち上がった。呪文は唱えられそうもない。剣と民生品の【鎧】だけが頼りだ。
隊長の剣が躊躇なく敵の腕を斬り飛ばし、【光の槍】があらぬ方へ飛び去った。殺気も魔力もルベルとは桁違いだ。
ルベルは胸を押さえ、ゆっくり見回した。
湖の民の喉を斬り裂いたアシューグ先輩は【鎧】の手足が所々裂け、血に濡れている。見える範囲にセカーチの姿はないが、甲高い金属音が森に響いていた。
姿勢を変えるどころか、息をするのも苦しい。
……こんなところで死にたくない。
生き残れば、セカーチが癒してくれる。
戦えない今、何ができるのか。
魔装兵ルベルは剣を地に突き立て、幹から背を離した。左手で口を押さえ、錆び臭い息と共に咳を飲み下す。
残る湖の民は三人とも戦いに気を取られている。
魔装兵ルベルは剣を支えに一歩ずつ、あの大木へ足を進める。
銀糸を切らなければ、誰もここを出られない。
ほんの数十メートルが、今のルベルには途轍もなく遠かった。
☆旗艦の哨戒任務では、話し掛けられても耳に入らず……「274.失われた兵器」参照
☆【流星陣】……「607.魔哮砲を包囲」参照
☆あの時は狙わなくても切れた……「609.膨らむ四眼狼」参照




