0072.夜明けの湖岸
空と湖の境が白み、今日の光が広がってゆく。
湖上の小島では鴉が鳴き交わし、雀が囀る。
濃紺の空が下から薄くなり、星々が姿を消す。夜に属する輝きと同時に、地上で生まれた雑妖が溶け崩れて消えた。
ロークは今ようやく、「助かった」と思えた。全身から力が抜け、そのまま倒れそうになる。足に力を入れ、何とか身体を支えた。
ニェフリート運河の東端。
見渡す限り焼け跡で、生きて動く人の姿はない。
湖面は、何事もなかったかのように穏やかだが、一隻の船もない。
テロリストの破壊活動の上に空襲を受けた街は、焼け焦げた更地と化した。
所々煙を燻らせるが、可燃物は粗方燃え尽きた。
僅かに残った基礎は黒く煤け、家や会社にはたくさんの家財や備品があった筈だが、何ひとつ残らなかった。
幾つもの家族の暮らしも、多くの企業や商店の仕事も、何もかもが失われた。
この辺りは先のテロで住民が避難した分、人的被害はまだマシだろう。
避難先で生き延びれば、いつか戻って再建できる日が来るかもしれない。
ロークは、ニェフリート運河の北岸へ視線を転じた。
この辺りは確か、倉庫街だった筈だ。
今は、何もない。
何か大きな建物があったらしき痕跡があるだけだ。
ロークたちは夜通し歩いて、ここに辿り着いた。
乱闘で結界が切れた直後、魔法使いの工員に誘導された。
他に頼れる者はなく、彼に命を預けるつもりでついて行った。【魔除け】の護符で雑妖を蹴散らした。背後から、薬師が何か呪文を唱える声が聞こえる。
どのくらい歩いた頃か、【水晶】の魔力が尽き、行く手の雑妖が逃げずに襲いかかって来た。
「貸して」
工員に言われるまま護符を渡した。
魔法使いの工員の手に触れると、護符は力を取り戻した。
ロークは代わりに工員の妹を抱き、彼のすぐ後ろについて歩いた。
星明かりと所々に残る火災の炎、そして【魔除け】の護符が放つ真珠色の光を頼りに、どこをどう歩いたのか、東の空が白む頃、河口に出た。
ここまで辿り着けたのは、たった十人。
ローク、工員、工員の妹、湖の民の薬師、ピナと呼ばれた少女、ピナの兄と妹、テロリストの隊長、年配のテロリスト、テロリストの少年兵。
警官もバスの運転手も、飴を配ったおばさんも、中学生たちも居ない。
よりによって、テロリストがついてくるとは思わなかったが、ロークにはどうすることもできなかった。
明るくなって、雑妖の脅威は去ったが、再び空襲の懸念が持ち上がった。
どこの国の軍が、何の目的で空襲を行ったのかわからない。
上空から見れば、こうして固まった生存者は恰好の標的だろう。だが、身を隠せる場所は、どこにもなかった。
ここも橋が破壊され、北岸のセリェブロー区に渡れない。
渡ったところで、セリェブロー区も焼け野原だ。
ロークは途方に暮れた。
誰からともなく、ぞろぞろ歩いて漁港に出た。
ここも、人の気配のない廃墟だ。
一隻の船もない。
全て避難したのか、空襲で沈められたのか。
風で吹き寄せられた波が、破損した岸壁を静かに洗う。魚の加工場や魚市場だった場所は、焼け残った鉄柱が飴のように曲がっていた。
湖の民の薬師が、小声で力ある言葉を唱える。
何度か聞いたことのある呪文だが、ロークには何の術かわからない。
「えっ? あれっ? どうして?」
薬師が、破損した岸壁から身を乗り出し、湖面を覗き込んだ。
「どうしたんです?」
工員と手を繋いだ妹が、近付きながら聞く。
振り向いた湖の民の顔は蒼白だった。
「水が……起ち上がらないんです」
「えっ? 【操水】できない?」
テロリストの隊長が、三人の傍らに立ち、湖を指差した。
「初日に別働隊が【消魔の石盤】を沈めた。この辺りでは、一切の魔術が無効化される。石盤の力を上回る強い魔力があれば、別だがな」
「キルクルス教徒なのに、魔法の道具は使うんだ? それってアリなの?」
工員が苦笑する。
憎しみも敵意もない。純粋に呆れた顔だ。
隊長も笑顔で答える。
「君だって、魔法使いなのに、機械を作る工場で働いていたのだろう?」
「ん? あ、あぁ、そっか……ははっ。そう言うことか」
妹が兄を見上げて首を傾げた。
工員が妹の手を引いて湖岸から離れる。諦めた湖の民の薬師と、テロリストの隊長も離れた。
歩きながら、工員が誰にともなく言葉を発する。
「この辺は何もかも焼けたし、ここでこうしてても、どうにもならない」
「うん。そうだな」
エプロン姿の青年が相槌を打つ。
「運河沿いに歩いて、橋が残ってる所を探さないか?」
「少し休めば、術で渡れますよ」
薬師の一言で、みんなの顔が明るくなる。だが、安全に休める場所が思い当たらず、すぐに俯いた。
行く宛はないが、何となく国道に出る。
瓦礫と灰が道を塞ぎ、車は一台もない。
濃い茶髪の少女が、ポツリと呟いた。
「地下室は?」
「それだ! 地下室だ! どっかの店か会社の地下に行ってみよう」
手を繋ぐエプロンの青年が、少女の髪を撫でる。
少女は少し誇らしげな顔で兄に笑顔を向け、もう一方の手を繋ぐ姉にも、同じ笑顔を向けた。
☆乱闘で結界が切れた……「0071.夜に属すモノ」参照
☆初日に別働隊が【消魔の石盤】を沈めた……「0025.軍の初動対応」参照




