684.ラキュスの核
セプテントリオーは、幼い日のことを思い返す余裕もなく、濡れた床を慎重に歩く。
不意に風を感じて顔を上げた。
大きな空洞だ。
勤務先の市民病院を収めても余りある。
その奥で、青い輝きが瞬いた。
遠く青い花に見える光の下から、白と緑の光の帯が噴き上がり、弧を描いて消える。二色の光が葉のように伸びては消え、明滅を繰り返した。
水音が反響する中、光へ足を進める。
濃密な水の気配に加え、一歩進むごとに重量を感じる程の魔力がのしかかった。湿気を吸った白衣が重みを増し、緑色の髪が頬に貼り付く。息苦しさに顔を顰めながら、俯いて足を踏み出した。
「青い光 滴らせ 地に染む水集み集べ
満ち 溢る始めは潦水 集い たばしり潤し往く
潭 溢る真水は細小波 立て 滾つ瀬の灌ぐ……」
強大な魔力を乗せた歌声が水音を圧し、耳ではなく魂に届く。
セプテントリオーの歩みが止まり、冷たい汗が背中を伝った。
幼い日にここで感じた歌は、男性の声だったような気がする。
今は、女性の歌声に合わせて青い光が強く輝く。
「……御水湛う 湖は 空知らぬ雨集み集べ
満つ 涙潤す砂の海 緑 射し生す草の海へ
岸 潤う涙に濡つ畑 青み すべて花結べ」
歌が止んだ途端、膝から力が抜け、その場に座り込んだ。【灯】を点した【魔力の水晶】が湿った床を転がり、二人の間で止まる。膝が濡れて不快だが、立ち上がれなかった。
白い衣の裾を翻し、歌声の主が杖を突いてセプテントリオーに近付く。
杖は、彼女の背丈より頭ひとつ分長い。老人が縋るものではなく、身分を証明する呪杖だ。先端には八枚の花弁を開いた青い花、白と緑の大きな葉がその両脇に伸び、奥の三色の光と同じ形に作られていた。葉の下には、三日月に番えられた星の矢がある。
……呪医として呼ばれたのではなかった……とはな。
湖の女神パニセア・ユニ・フローラの血に連なるラキュス・ネーニア家の女当主シェラタンだ。
シェラタン当主は、淡い光を放つ【魔力の水晶】を拾い、セプテントリオーの前に立った。その胸元で小枝にトカゲを刺した百舌を象った銀の徽章が揺れる。
「大丈夫ですか?」
「……えぇ」
どうにか答えた声は掠れていたが、震える足に力を入れ、何とか立ち上がる。シェラタン当主はセプテントリオーの手を取り、【魔力の水晶】を返すと背を向けて歩きだした。セプテントリオーは、濡れた岩肌を見詰めて当主に続く。
青い輝きに【灯】の淡い光が呑まれる。【魔力の水晶】を白衣のポケットに入れ、セプテントリオーは顔を上げた。
間近でも、青い輝きは八枚の花弁を広げた花に見える。強い光だが、目を射る鋭さはない。穏やかな青の中心には、親指程の大きさの青い宝石が宙に浮き、絶え間なく水を生み出していた。水が茎のように流れる根元から白と緑の光が噴き上がり、弧を描いて葉の形を成しては消える。
湖の女神パニセア・ユニ・フローラの【魔道士の涙】……青琩だ。
白い葉はスツラーシの岩山からの魔力、緑の葉はフラクシヌスの大樹からの魔力。各地の神殿から集められた祈りと魔力が青琩に注がれ、尽きせぬ水を生み出す。
澄んだ水底で禍々しい赤が燻っていた。揺らぐ水面越しに“その者”と目が合ったような気がして、セプテントリオーは身が竦んだ。
白いものが視界を遮る。
シェラタン当主が、潭とセプテントリオーの間に立っていた。
「旱魃の龍と目を合わせてはなりません」
セプテントリオーは声もなく一歩退がり、横を向いて細く息を吐いた。
潭から溢れた青琩の雫は、岩に穿たれた水脈を通り洞窟の外に流れる。
「よく来てくれましたね」
「神殿で……難民らの治療を手伝うのだとばかり……」
呼び出した者と用件を伏せられていたことを暗に批難したが、そんなあやふやな伝言で、王都までのこのこ出てきたのは己だと気付き、声が途中で消えた。
再会の挨拶もせず、セプテントリオーは水の条を見詰めて聞く。
「私に何のご用ですか?」
「今、ウヌク・エルハイア将軍がクレーヴェルで何をしているか、知っていますか?」
「ニュースなどで聞き齧った程度にしか存じません」
視線で促され、知っている情報を語る。
「ウヌク・エルハイア将軍の名の許に神政復古を目指す武装集団“ネミュス解放軍”を組織し、クーデターを起こした……と」
「そこまでは、知っているのですね」
シェラタン当主は溜め息混じりに言い、セプテントリオーに一歩近付いた。
「わたくしは、魔哮砲を推し進めた愚かな人々の手から、権力を取り除くことに異議はありませんが、ラキュス・ネーニア家が再び権力を握ることは望みません」
「ネミュス解放軍は、ラジオの声明で神政に戻すと宣言したそうですが……」
……シェラタン当主を廃してウヌク・エルハイア将軍が当主の座に納まるつもりなのか。
「あれは、将軍自身の言葉ではありませんが、将軍は彼らを止めることもしていません」
……どう言うことだ?
首を捻った視線の先に水脈がある。両脇に刻まれた力ある言葉は何れも、セプテントリオーの全く知らない呪文だった。
洞窟には息苦しい程の魔力が満ちている。各地の神殿から集められた魔力は青琩に注がれ、水を生むと同時に旱魃の龍を封じていた。
三界の魔物との戦いの最中には、信仰の危機が訪れ、ラキュス湖の水位が下がり、主神フラクシヌスの秦皮が枯れたと伝えられている。その後、代わりに樫が植えられ回復したが、半世紀の内乱中にも、僅かにラキュス湖の水位が下がったらしい。
……この戦が長引けば、また……。
フラクシヌス教の信仰の中心地。ラキュス湖の要にシェラタン当主の声が響く。
「わたくしには、将軍の本心はわかりません」
「しかし……」
「民を傷付けるネミュス解放軍の行いは勿論、ウヌク・エルハイア将軍の黙認にも賛同できません」
セプテントリオーは顔を上げた。
シェラタン当主の背後で、祈りを捧げた者すべての魔力が、青琩を核にひとつの花を形作って輝く。湖の民だけでなく、力ある陸の民の魔力もひとしくここに在る。力なき民も、魔力の器として祈りを籠めた【水晶】を捧げていた。
ここに咲くひとつの花の前に、すべての者はひとしく在り、ひとしく水を与えられる。
信仰や主義主張の違いなど些細なことだ。
この世のものはすべて、水なしでは生きられない。
「アル・ジャディ将軍は、現政権に従ってネミュス解放軍と戦っていますが、彼もまた、民の巻き添えを厭いません。湖の民を中心に現役の軍人の一部が、ウヌク・エルハイア将軍の許に集おうとしています」
現政権……秦皮の枝党と湖水の光党の連立与党は、魔哮砲の件だけでなく、アーテルの攻撃に対して防戦一方だ。終戦への道筋を全く示せていないことで、急速に求心力を失いつつあった。
現役兵まで解放軍に加わり、首都クレーヴェルに集結したのでは、空襲の死者を喰らって力を付けた魔獣から民を守る人手がますます足りなくなってしまう。
「わたくしは、誰が権力の座に着いても、かつてと同じ……すべての民がひとしく扱われるなら、構いません」
……すべての民がひとしく?
中央市民病院で水壁越しに行われた対話を思い出した。
星の道義勇軍のテロリストたちの血を吐く叫びが甦る。
あんたたちは、おかしいと思わんのか?
湖の民も、王家と一緒じゃねぇか!
俺たちは、捨てられたんだ!
リストヴァーに生まれたってだけで、死ぬまでゴミ扱いされるなんて、まっぴらだ!
少年兵モーフの声に押され、セプテントリオーは顔を上げた。
「シェラタン様は……キルクルス教徒が自治区で苦しい暮らしを強いられる現状にも、反対なのですね?」
当主はその問いに頷いた。
俯いたまま言葉を続ける。
「ラクリマリス家がネモラリス共和国を併合しても、ネモラリスの民が愚かな為政者を追い出して自らの手で正しく治めても……すべての民が、平和と安寧の内に暮らせるなら、それで……」
「では何故、あなたは、ここにいらっしゃるのですか? アーテルの大編隊を迎撃した時のようにその力で民を守り導けば、兵の多くは将軍ではなく、あなたに従うでしょう」
シェラタン当主は、セプテントリオーの問いに頭を振った。




