683.王都の大神殿
「坊主、わかってるたぁ思うが、暗くなる前に宿へ戻れよ」
「はい。歩きなんで、そんな遠出しませんから大丈夫です」
「じゃ、また三日後な!」
大きなリュックサックを背負った葬儀屋アゴーニは、岸に寄せて待つ細い舟のひとつに乗った。術で支えられた舟は、大荷物の大人が乗っても全く揺れない。船頭が一言唱えると、王都ラクリマリスに張り巡らされた水路を滑るように行き、あっと言う間に見えなくなった。
「それでは、サロートカさんをお願いします」
「はい。……あ、スニェーグさん、呪医って今日、宿に戻りますよね?」
少年に問われ、雪のような白髪の老人が微笑んだ。
「えぇ。今日はお話だけですから、遅くとも夕飯には戻る予定ですよ」
「センセイもお気を付けて」
船頭が、歌とも呪文ともつかない調子を付け、力ある言葉で舟に命じる。ファーキルとサロートカに手を振られ、呪医セプテントリオーとピアノ奏者スニェーグの乗った舟は、アゴーニとは反対方向に動いた。
西神殿近くの水路から、王都ラクリマリスの中心部の流れに合流する。太い水路を行き交う無数の舟とぶつかることなく、それぞれの船頭が巧みに舟を操って往来する。
この舟は貸切で、どの桟橋にも寄らず、まっすぐに大神殿を目指した。
半世紀の内乱勃発後、終戦を迎えても足を向けなかったが、王都ラクリマリスの街区は、旧王国軍の軍医だった頃と大差なかった。
よく見れば、貴族の館が人手に渡ったのか、あのホテルのように別の用途に使われるようになり、観光客相手の店の屋根には太陽光発電のパネルが乗っている。店の看板から読み取れる業種は、タブレット端末のパーツ屋など新しいものが増えていた。
……店は変わっても、大幅な区画整理などはなかったのだな。
ならば、軍医時代に使っていた許可地点へ【跳躍】できると踏んで記憶を辿る。
王都ラクリマリスは、北の低地からなだらかな丘に魔法陣を描いて築かれた都市だ。舟は水の流れに逆らい、南へ登る。その先にフナリス群島の最高峰スツラーシの岩山が聳えていた。高さはネモラリス島のウーガリ山脈などに遠く及ばないが、巨大な岩塊は見る者を圧倒する。
神話では、旱魃の龍を封じる為にスツラーシがその身を変じた、と伝えられていた。
呪医セプテントリオーは、幼い日に大神殿を訪れたことを思い出した。
……確か、家族みんなで……?
呪医の許へ養子に出される前だったか後だったか、記憶があやふやで何をしに行ったのか、全く思い出せない。背を伝う汗の冷たさと緊張感だけが甦り、思わず拳を握った。
大神殿の前庭には参拝者が犇めき、桟橋からは門さえ見えない。
舟を降りると、待っていた神官が恭しく一礼して二人の先に立って歩いた。人々は小声で祈りの言葉を唱え、聖職者に道を譲る。
湖の民の神官は、参拝者用の正門ではなく、聖職者用の通用口の前で振り向いた。スニェーグが姿勢を正す。
「それでは、後はよろしくお願いします」
「スニェーグさんはどちらへ?」
呪医が聞くと、白髪の老人はひょいと眉を上げて微笑んだ。
「普通にお参りして、リャビーナに戻りますよ」
帰りの船賃が詰まった小袋を呪医の手に握らせて一礼すると、人混みに紛れた。
神官が扉を開けて促す。
「あなた様は、こちらへ……」
天井の高い廊下に足音と水音が響く。
床と壁、天井と柱の石材全てに力ある言葉が刻まれていた。街でよく見る【魔除け】や建物を火災や災害から守る術の他、セプテントリオーが知らない呪文もある。
窓から差し込む光が廊下に縞を成していた。
光と影の間を行き交う聖職者たちが互いに会釈を交わし、セプテントリオーたちにも気軽に挨拶して通り過ぎる。呪医もそれに応じながら、廊下を奥へ進んだ。
湖の民の神官は、たくさんの扉や曲がり角を迷いなく進む。長い廊下を隔てる数枚の扉を抜け、突き当たりの階段で足を止めた。
「私はこれにて失礼致します」
神官は、桟橋と同じ恭しいお辞儀をすると、セプテントリオーを残して引き返した。
五段だけの階段の前に立つ祭司が、穏やかな微笑でセプテントリオーを迎える。
「よくぞお越し下さいました」
「初めまして。何をお手伝いすればよろしいですか?」
「奥にご案内致しますので、そちらの方で改めて……」
「そうですか」
他に誰も居ないが、奥で待つ者が説明するのだろうと承知し、それ以上は聞かない。
祭司が石造りの階段に立ち、壁に手を触れる。
小声で何事か唱えると、石壁に漣が起こった。
……これも、見たことがある。
遠い日の記憶が微かに呼び覚まされたが、数日前の夢のように掴みどころなく消えてしまった。記憶の糸を手繰るのを諦め、祭司に従う。
祭司が壁に現れた扉を開け、その先の廊下に進む。
細い窓から射す秋の光が、束の間、前を行く者の緑の髪を輝かせた。
廊下の幅は、大人二人が両手を広げて並んでもまだ余裕あるが、セプテントリオーは、自分より少し年嵩に見える祭司と並ばないようについて行く。
常に遠く微かな水音が耳をくすぐるが、空気は乾いていた。
祭司が不意に立ち止まる。何の印もない壁に手を触れ、一言二言唱えた。
石壁が水面さながらに揺らいで渦巻き、奥の闇に吸い込まれるように消える。
「私めは、ここまでにございます」
祭司が右手で奥の闇を示し、頭を垂れる。慇懃な態度に心がささくれたが、ここまで来て引き返す訳にもゆかず、セプテントリオーは岩をくり抜いた通路に足を踏み入れた。
たった一歩で、濃密な水の気配に包まれた。
白衣のポケットからスニェーグに渡された小袋を出す。
中身は小粒の【魔力の水晶】だった。一粒つまんで【灯】を掛ける。湿った岩肌が淡い光を返した。大人三人が並んで歩けるくらいの幅があり、足下の岩は平らに削られている。
セプテントリオーは曲がりくねった通路を慎重に進んだ。




