0069.心掛けの護り
……この子は、色々持ち出す余裕があったんだな。
クルィーロは、もらった堅パンを齧りながら、ぼんやり考えた。
ジョールトイ機械工業の工場長は、早々に消火を諦め、従業員全員に退避の指示を出した。
集団で固まると、テロリストの標的になり易い。クルィーロも上司も先輩も同僚も、みんなバラバラに逃げ、誰がどこへ向かったかわからない。
もっと真面目に魔術の勉強をしていれば、【跳躍】で自宅に戻って色々持ち出して、妹たちももっと楽に助けられただろう。
今更、悔やんだところで仕方がない。
今は、できることで最大限、努力するしかないのだ。
見知らぬおばさんが、飴玉を一個くれた。クルィーロは会釈して、妹のポケットに入れる。アマナは眉間に皺を寄せ、まだ目が覚めない。
一昨日は全力で逃げ、冷たく固い車庫の床。昨夜は毛布が手に入ったが、廃墟に囲まれたグラウンドでは、ロクに眠れなかったからだろう。
泣き疲れ、力尽きて目を覚まさない。
……怖いものを見なくて済むなら、寝てた方がマシだよな。
クルィーロは堅パン一枚を食べ終えると、そっと立ち上がった。薬師と警官も立ち上がる。
日が傾き、空が赤く染まってゆく。
火勢はかなり衰えたが、まだ燃えていることに変わりなかった。
四人は、新聞紙で作った円の四方に等間隔で並んだ。
「あの、えっと、私が一節を唱えたら、皆さんは声を揃えて同じ箇所を唱えて下さい」
北に立つ湖の民の提案に異議はなく、【簡易結界】作りが始まった。
緑髪の薬師が、声に魔力を乗せ、力ある言葉を詠じる。
「此の輪 天なり 六連星 満星巡り
輪の内 地なり 星の垣 地に廻り……」
湖南語に訳せば、そんな意味だ。
クルィーロたち三人は、湖の民の少女の声に続いて唱和した。南に立つ年配の警官も【魔力の水晶】を握り、メモを片手に間違いなく唱える。
「垣の内 呼ばぬ者皆 立ち去りて 千万の昆虫除けて……」
詠唱が進むにつれ、見えない壁が新聞紙の輪から、じわじわとせり上がる。術者には手応えとして感じられるが、他者にはその感覚がなく、成否はわからない。
「雑々の妖退け 内守れ 平らかなりて 閑かなれ」
誰もとちることなく、無事に詠唱を終え、輪の内と外を隔てる【簡易結界】が完成した。
北側には、元々いたパン屋の一家とクルィーロ兄妹、湖の民の薬師、東側は警官とテロリストたち、向き合う西側にバスの運転手と市民、中学生たちは南側に落ち着いた。
今夜一晩、この頼りない結界で凌がなければならない。
レノの話では、運河の魔物は生きた人間を何人も食べたらしい。かなり強くなった筈だ。
……【魔除け】とかも、やっといた方がいいよな。
クルィーロ自身は【魔除け】の呪文をうろ覚えだ。
……他の二人に聞いてみるか。でも、俺の魔力で何とかなるのか?
今も、立っているのがやっとの有様だ。
もうすぐ日が沈む。
ふと思いつき、テロリストの隊長に声を掛ける。
形振りなど構っていられなかった。
「隊長さん、あんたたち、自治区の人なんだよな?」
「そうだ」
隊長は、結界の外へ出ようとする少年兵の両肩を抑えて肯定した。
少年兵が動きを止め、驚いた目でクルィーロを見る。
「自治区って、魔法禁止で、どうやって魔物とかから身を守ってるんです?」
隊長は、なんだそんなことかと言いたげに緊張を解いて答えた。
「家を清め、心を鎮めて祈りを捧げれば、雑妖は近付かん。近付いても、すぐに離れる」
「えっ? それだけ?」
拍子抜けして声を裏返らせるクルィーロに、隊長は笑って言う。
「そうだ。心に恨みや過度の欲望を抱く者は、あっと言う間に集られる。雑妖は魔物を呼び、集られた者だけでなく、周辺住民も、一夜にして居なくなる」
「あの、それ、全然、守れてないんじゃないんですか?」
隊長は、クルィーロが思わず漏らした本音に苦笑を浮かべ、首を横に振った。
見れば、老兵も口許を笑みの形に歪める。
「守れるから、この歳まで、自治区で生き延びられたのだ」
「儂が証拠だ」
「憎悪や嫉妬、下らん目先の欲に心が囚われれば、その先に待つのは死だ」
「この坊主は、旨いモン食いてえってな、他愛ない欲すら、持っちゃいねぇ」
年配の兵が、少年兵の頭をごつい手でぐりぐり撫でて笑う。少年兵は、煩わしそうにその手を退けた。
「魔物が実体を得れば、通常兵器でも倒せるからな。魔獣化した魔物はすぐに駆除する。勿論、戦いになれば負傷者なども出るが、これまでそれでやって来た」
「実体のない弱い魔物は、心のあり方ひとつで退ける。儂らにできることはそれだけだ」
クルィーロは、隊長たちに礼を言い、その言葉の意味を考えた。
クルィーロの勤務先は、自治区内の企業とも取引がある。
社用で自治区へ行った社員から、自治区民の多くが、人間として最低限以下の暮らしぶりだ、と聞いたことがある。
自治区の大半がスラムで、清潔な飲料水にも事欠く。
病院には充分な薬や設備がなく、重傷者はジェリェーゾ区の中央市民病院まで搬送される。学校はあっても機能せず、教育が不十分な為、貧困が世代を越えて連鎖しつつあった。
貧しい自治区民は、水や食料を奪い合い、親子でさえ殺し合う。
廃工場にはゴロツキが屯し、略奪など犯罪の拠点にした。
警察や区役所もあるが、治安は自治区外とは比べるべくもない。
あの社員の話が事実なのか、この隊長の言葉が真実なのか。
自治区では、心正しい者しか生き残れないならば、このテロリストたちはどうだろう。テロリストこそが、廃工場に屯するゴロツキではないのか。
「だったら、お前ら、結界から出て行けよ」
遠い西の空で、日が落ちた。
☆【簡易結界】作り……「0023.蜂起初日の夜」参照
☆レノの話では、運河の魔物は生きた人間を何人も食べたらしい……「0022.湖の畔を走る」参照




